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#6 ストップ・クライング・リチウム・ハート・アウト

舌を貫いた針の痛みは、ずきずきとナダレを苛む。そうやって痛みに晒されていると、ナダレはどうしても、思い出したくないことを思い出す。冷たい床に身体を擦り付けながら、情けなく涙を流しながら、ナダレはその記憶の揺らぎに必死に抵抗した。嫌だ、思い出したくない、と思えば思うほどそれは鮮明に記憶の底から浮かび上がってくる。ああ、どうして——いつも、こんなことになるのだろう。

ナダレは幼かった頃、誰かに愛された覚えがない。娼婦であったナダレの母は、ナダレを産み落としただけで、まともに世話をしなかった。すぐにどこかの施設に入れられたから、顔も覚えていない。母はその他にありようが無かったが、彼には、父親と呼べるものが3人いた。
ひとりは血の繋がった実の父だ。母を孕ませ、責任を負わずに姿を消した男だ。どこの誰なのかも知らない。母と同じで、まるで印象がない。
ふたり目は、彼を引き取ったシノノメという老紳士だ。ナダレのような孤児を集めて養育する、孤児院を運営する立派な紳士であった。シノノメは若くに先立った妻をいつまでも愛していた。彼女との間に子がなかった代わりに、彼は多くの子どもたちに未来を授けることにした。愛情深く優しい人だった。ナダレが初めて愛情というものに触れたのは、シノノメがいてくれたからだ。そして、ナダレが医学の道を志したのは、その彼の体が弱かったためだった。
ところが、大学へ進んだナダレを待っていたのは、激化するトヲラスとの戦争、その戦場への徴用であった。

ナダレの脳裏に炎がゆらめき、鉄と泥と火薬の臭いが立ち込める。人が燃える臭い。湿った風の匂い。送られた前線のジャングルで経験した物事の全て。

初めは、単に傷病兵の世話をするだけだった。ナダレはまだ、医師ではない。そのタマゴにすぎないものだ。だからこれはほんの実習にすぎないと、ナダレも、同じように連れて来られた誰も彼もが信じていた。決して、人手不足などではないのだと。
ナダレはそれでも、目の前の命に責任を持とうとした。まだ動けるはずもない兵士を働かせようとする上官に、勇敢にも食ってかかった。それがいけなかった。前線へ送られてはじめて、自分がまだ優しい場所にいられたのだと知った。

必死に働いた。ありったけの傷を()い、ある時は切り落として命だけでも助けようとした。
敵兵のトヲラス人たちは、ひどく追い詰められていた。アルスが竜種を戦線に投入したためだ。彼らは疲れも知らず、また躊躇(ためら)いも知らなかった。きっと、ノエルのように命乞いなど聞かなかっただろう。圧倒的な戦果を上げながら、彼らはトヲラス人をジャングルの奥の奥まで追い詰めていった。
そして食い詰めたトヲラス人たちは、ヤケになり始めていた。
テントを急襲された時の、驚いたような呆れたような彼らの目を思い出した。そこには怪我人しかおらず、動いているのはほとんどナダレだけだったのだ。ナダレが撃つな、と声を上げるより先に、機銃(マシンガン)の掃射が飛んできた。まさかそんな前線に医療従事者が出ていて、人命のために働いているとは思わなかったのだろう。腕章を掲げたナダレを見ても攻撃の手を止められなかったことは、想像に難くない。

ナダレは、唯一生き延びていた男を背負って、燃えるジャングルをふらふらと歩いていた。ナダレも弾傷を受けていたが、背負った彼に比べれば擦り傷だ。それよりも、誰か一人だけでも助けたかった。ナダレはその時も、このままでは養父に顔向けはできないと気張っていたのだった。そうしなければ、自分がなぜ生まれてきたのか、それすらも霧散してしまう気がしたから。

置いていけ、と背中から、ひどく弱々しい声がする。ナム、というその衛生兵は、何度もそう言った。それでも生きていた。
死ぬのは本望だから構わないと言った。体の左側がほとんど削げてしまっていたが、それでも、まだ、生きていた。
ナダレにとってナムが、どれほどの希望で、絶望であったことか。
どうやって、本陣のテントまで戻ったのか思い出せない。本陣を受け持っていたホワイトの父、スノウが急襲に気付き、救援を送ったらしいと後で知る。
目が覚めた時にはナムと並んで寝かされていた。ナムの手傷は酷かったが、生きていてくれた。
それだけでも、よかったのに。

その時のことを忘れられない。

見慣れない筆跡の手紙を受け取った。それは、シノノメの屋敷に仕えている使用人からのものだった。ひどく嫌な予感がした。震える手で開封した手紙は、シノノメの訃報を伝えるもので——それも、随分と以前の日付を書き込まれていた。
ナダレが前線にいる間、その手紙は届くことなく預かられていた。それに気づいた時には、ナダレは最早、子供のように泣きじゃくることしか出来ずにいた。スノウはナダレが落ち着くのを待ち、そして、この配属は適切ではないと説明した。個人的な懲罰のためにナダレが前線へと送られた事に、彼は憤っていた。そして、自分がナダレの後見人となることを提案した。助けられる限りの命を守ろうとしたナダレに、スノウは恩赦を与えようとしたのだ。

ナダレはそれを受け入れられなかった。
ナダレは、前線でただ無力に苦しむだけの、誇り高き医学者ではいられなかった。そうしていれば良かった。それでも、助けられるだけの生命を救うために、どうにか生き延びるために。

ナダレは自分自身にも、医療用麻酔を大量に打っていた。

「俺みたいなものが、そんな恩赦を受け取れません」

震える声で話しながら。ナダレはスノウに自分の、ずたずたに荒れ果てた肘の裏を見せた。あざのような注射の痕がいくつも残っていた。たとえ、そうしなければ居られなかったことでも。神に(そむ)き、法に(そむ)き、ナダレがそうしたのは心が弱かったせいだ。ナダレは自分に同情できない。今だって、妥当だったと思わない。だから、その気持ちは受け取れないと断ろうとした。だが、スノウはまるでそんな事を意に介さなかった。

「これまで、よく頑張った。」

そして、ナダレの癖のある栗毛をやわらかく抱く。厳格で知られるスノウのその態度が、痛いほどに突き刺さった。ナダレは流れ落ちる涙を止められずに、ただされるがまま、暖かい掌に抱かれていた。二人目の父を失ったけれど、三人目の父になってくれる人が現れた、その日。その時。
それはいつまでも、忘れられない。痛く苦く、そして暖かい記憶だ。

結局、ナダレとナムは終戦を、病院のベッドの上で迎えた。ナムは肉体的に生死の境を彷徨(さまよ)っていたが、精神的に疲弊し切ったナダレの状態も、決して良いとは言えなかった。
戦争が終わった後、前線へ送られた竜種たちは。軍法会議にかけられてほとんど銃殺されたと聞く。まさしくトカゲの尾として切り落とされたのだった。あのときのテントの生き残りはナムひとりだった。ナダレはあの戦争で、何を為すこともなかった。
スノウはナダレを本国へ送り返し、自らの屋敷で療養させた。そしてそのまま、屋敷付きの医者として勤められるようにした。医師免許すら、ナダレは持っていないのに。
だからスノウの主治医と言っても、することは殆どが茶飲み話だ。元々心臓の強くない家系らしい。スノウの心臓の状態も(かんば)しくなく、いくらナダレが天才的な外科の腕前をしていたとしても、手の施し用がなかっただろう。そしてある時、スノウはナダレに賭けを持ちかけた。すなわち、手術を受けるか否かについて。
ナダレは、そうしない方が良いと思っていた。成功すれば御の字、失敗して当然の厳しい条件。スノウは成功に賭けた。これからも娘の将来を見守りたいから、と。ナダレはこれほど、自分が賭けに負ける事を祈ったことはない。

果たして、ナダレはその賭けに勝ってしまった。
だからスノウの心臓を止めたのはナダレだ。ホワイトの父を殺したのはナダレだった。

ナダレは、ナムの元を訪ねた。

誰かに罰して欲しかったのかもしれない。あるいは、許されたかったのかも。ナムは左眼、肩から先の左腕、膝から下の左足を失っていたが、生きていた。生きてナダレを睨みつけていた。
彼は死ぬつもりで戦場へ行ったのだ。実父からひどい暴力を受けていたナムは、同じく暴力に晒されていた母の自殺で事が知れ、ようやく保護された子供だった。それ以来彼は自分が生きている意味を理解できずにいたのだった。ナダレと同じように。

彼はナダレを恨んでいた。それは、ナダレが無理矢理自分を救ったせいではない。救っておいて簡単に投げ出そうとするナダレを恨んでいた。ましてやナダレが簡単に罰されることなど、ナムは許さなかった。吐き捨てるように言った。

「お前はゆっくり、苦しんで死ねよ」

ナムはそう言って、それきりナダレとは話さなかった。
期待していた痛みも、罰も、何ひとつ与えられることはなかった。ナムは痛烈に訴えていた。生きろ、と告げていた。
以来ナダレは。死ぬことも生きることもできずに、薬と酒に溺れながら不恰好に生き続けている。柔らかく死に続けている。ただそれだけの、生ける屍の日々——。

ナダレが目を覚ました時、いつの間にか舌の針は抜かれていて、ノエルは(かたわら)で猫のように丸くなっていた。
自分の袖口が濡れているのに気づいた。きっとそれを枕に、泣きながら眠りについたのだろう。あまりの無様さを見かねてか、あるいは泣き声を聞きかねてか。ノエルは針を抜いたのだ。
まだ口の中は血の味がした。

「お前はゆっくり、苦しんで死ねよ」

ナムの言葉を、何度も頭の中で繰り返す。彼はもう、二度と口を利いてくれはしないだろう。ナダレを(ゆる)すことはないだろう。けれど、ノエルは違う。話したくなったら話せ、とノエルは言ったのだ。
小さな体に触れて、起こしてしまわないように。身動きせずにただ、見つめた。もう一度息を吹き返したいと思った。

ノエルが目を覚ましたら。
もう少しきちんと、話をしたい。

ナダレはもう一度目を閉じた。朝の柔らかな日差しが、二人を照らしていた。

Nadare Nam Noelle

(続く)

#5 パーソナル・トラブルメイカー・ジーザス

「爆破された教会の近くにいた? 何で??」

体を洗って戻ってきたナダレに、ノエルはあからさまに嫌な顔をした。そりゃそうだ。ナダレはノエルに「友達に会いにいく」としか伝えなかった。

「その……探してるんだろ、羽が生えた死体……だから、力になりたいと思って……」

それは嘘ではない。
ただ、ナダレが力になりたいのは『ホワイトの』である。もちろんノエルの為にもなる。隠れているノエルの代わりに、手足になろうというのだから。ナダレはそのことを自分でもわからないうちに曖昧にしていた。

「何でそんな危険なことを……いや、話してないボクが悪いのか……」

ノエルはカウチに沈んだ。そこはもうとっくに、ノエルの私有地と化していた。

「仕方ない、ボクが迎え撃つからナダレさんは隠れてなよ。その無駄にデカくて重いお尻もしっかり隠すんだよ」
「誰のケツが何て!?」
「良いから。死にたくないなら言うこと聞いて。バスルームにでも——」

ノエルが言い切らないうちに。窓が勢いよくガラスを吹いた。そして、何者かが転がり込んできた。
その闖入者(ちんにゅうしゃ)は、ノエルと同じぐらい小柄な少女に見えた。似たような仕立ての制服らしい服を着て、スカートからガラスの破片を払っている。流れ落ちる金の髪はきらきらと美しく、肌は石膏像のように白い。金の瞳がノエルをじっと見る。ノエルも彼女を睨み返す。

「グリム。お前か」
「……ノエル。生きてたの?」

すると彼女は握っていたナイフをベルトに納めて、ノエルに近づくと、……ぎゅっと抱き付いた。

「……アリエル姉さんは心核(しんかく)を刺したって、そう言ってた……」
「それは嘘じゃないよ。かなりギリギリだった。しかし、お前を送り込んでくるとはね。お父様もいよいよ余裕がなくなってきたな。お前がキャロルと組まされてるの?」
「……その前に」

グリム、と呼ばれた少女は、いきおい、ナダレへ飛びかかる。その手のナイフがナダレを引き裂かなかったのは、ノエルが手で止めたからだ。ノエルの金の瞳は燐光を発し、冷徹な怒りが見てとれた。

「偉いねグリム。お父様の命令には忠実なようだけど。でもそのボケっとしたお医者様はボクの所有物(かちく)だ。」

ノエルはグリムを張り倒した。ナダレが口を挟む暇もなく。頬を張られたグリムはしょんぼりと眉を垂らし、俯いた。

「他人のモノに手を付けるな。はしたない子め。」
「いたい……」
「ナダレさん、これ、ボクの妹。グリム、これ、ボクの家畜のナダレさん」
「その紹介何とかなりませんかご主人様……。」

助けてもらった礼もしないうちに、ノエルは即座に手のひらの傷を回復する。心核がまともに機能していれば、多少の傷は竜種にとって、傷のうちにも入らない。それをまざまざと知らされる。
ノエルはグリムをカウチに座らせた。腕を組んでその前に立つ。ナダレはそれをバスルームへ続く廊下の影から見守った。

「それで、キャロルと組まされてるの?」
「そう。ノエルのかわり」
「あの唐変木(トーヘンボク)は?」
「キャロル兄さんは、もうひとりの目撃者を探しに行った……二人連れだったって、分かったから」

グリムがしおしおになりながら発した言葉に、ナダレは身を強張らせた。ヘーゼル。本当にドブの底のヘドロを選りすぐって煮詰めたみたいなやつだが、自分のせいで死なれるのは嬉しくない。

「でも……匂いがちっとも辿れなくて、ダメみたい……あれはきっと隠密(オンミツ)のたつじん……ニンジャ……!」

ヘーゼルの性癖がヘーゼルを救った。
まさかあの怠惰を極めた暮らしが役に立つ日が来ようとは。ナダレは深く息を吐いた。後で電話のひとつも入れてやろう。当分死体で体を洗ったほうがいい、と。

「とにかく。このお医者はボクの家畜でボクのものだからお前が触るんじゃない。そのもうひとりっていうのもボクの手下みたいなもの。始末しなくていいの。」
「でも、お父様に叱られる……」
「言いつけ通りやりましたって言っとけばいい! どうせお父様はグリムには甘いんだから!!」

まったく、とノエルは歯噛みした。そして、ナダレを振り返る。

「……この子、ちょっとおつむが弱いんだよ。本当に手のかかる妹だな!」

そう言いながらも、ノエルはどこか嬉しそうにしていた。

そして、人の買ってきたドーナツをむしゃ食いながら。ノエルはグリムと作戦会議をするかと思いきや、2人してテレビゲームに励んだ。なんでじゃ。それもナダレの私物だ。頼むからドーナツの油を塗りつけてくれるな。塗るのは地面とシャケだけにしてくれ。そして深夜も深夜になったころ、グリムはほくほく顔で帰っていった。バイトうまくいってよかったね……。
グリムが去った部屋で、ナダレは残ったドーナツを腹に仕舞い込んでいた。

「俺のこと庇ったりして、いいのか?」

改めて尋ねてみると、ノエルは面倒そうな顔をした。わざわざ説明がいるのかこの家畜は、というテロップ付きに見える。

「いいの。ボクの家畜ってことはボクのものってことなんだから。他人に手出しも口出しもされたくない。お前はもうボクのものだし、お前の命もボクのものなの。ボクに命乞いしたの忘れたの? お前もグリム並みにお間抜けだなあ」

やれやれと肩をすくめながら。

「オルティ……えっと、この前点滴に来てたあいつ。あいつは……」
「ああ……あのムスクとサンダルウッドと煙草のヒトね。あの人は別に何も知らないでしょ。知ってたとしても、あの人は自分で自分の身ぐらい守れる。竜の匂いがしてたからね。側にいるんでしょ、多分」

そうなのか。ちっとも知らなかった。
オルティが犬でも猫でも人間でも抱え込みたがる奴だというのは承知していたが、まさか、竜種もとは。

「グリムにしっかり言いつけたから、ナダレさんのお友達もひとまずは大丈夫でしょ。まったく、本当にみんなして手が焼けるんだから!」

本当に申し訳ございませんと頭を下げて、そろそろ尋ねても良いだろうかと、ナダレは唇を開く。

「……俺がノエルちゃんさまを(かくま)う、っていうのは、その、心核を刺したっていうお姉さんから?」
「アリエルはお父様の言うことには絶対に背かない。だから面倒くさい。ここに来たのがグリムでよかったね。アリエルだったら話も聞かずに殺されてたよ」

ノエルは事もなげに語る。思ったより危機一髪だったのか、なんて感傷には浸らせてもらえない。

「キャロルは分別があるから、まだ話を聞いてくれたかもね。リップとレスターの双子は最悪。まず、あいつらボクのことナメてるから。弟のくせに。自分たちが一番お父様を愛してるって。狂信者だよ、アレ」

ナダレは既に去ったグリムの方へ深く礼をした。本当にありがとうございました。まさか怪獣大戦争がここで勃発するところだったなんて。

「ボクはまぁその……ボクが羽の生えた死体のネタを追ってるってのは知ってるでしょ。あれがちっとも成果にならないから、お父様に折檻部屋に入れられてたんだけど。」

とんでもないことをサラッと言うな。前時代的にも程がある。それに、竜種を折檻できる奴なんか居るのか? より力のある竜なら、それも可能なのだろうか?

「ナダレさんと会う約束してたから脱走したらさあ! あのバカ姉! 次あったらボクが心核ぶちぬいてやるから!!」

きょうだい喧嘩のスケールがおかしい。先ほどまで仲(むつ)まじいグリムとの姿を見せられていただけに。ナダレは頭がくらくらした。

「ともかく折檻もバカ姉もバカ弟×2ももう懲り懲りなの! ボクは仕事してなかったわけじゃないのに! 見つかんないものを見つかりませんって報告して何で怒られるわけ!」

この期に及んでナダレは、未だホワイトの情報をノエルと共有することを躊躇(ためら)っていた。ナダレが明確に狙われていると分かった以上、これは彼がスプラウス家に返せる最後の恩義かもしれないのだ。
しかし、目の前の幼い竜種にいつまでも嘘をついていられるほど、できた大人でもなかった。

「……その、そっちが知らなそうな情報が、あるにはある」

ノエルは目の色を変えた。

「……何で今まで黙ってた?」
「俺にも事情がある! ……だから、出所は話せない! それでも良ければ俺の知ってることを話す……!」

ナダレが言い終わるより先に、ノエルは動いていた。床に叩きつけられ、一瞬息が止まる。ノエルはナダレの上に馬乗りになり、ナダレの髪を掴んで顔を上げさせる。

「次はお腹に穴開けるって言ったよね。聞こえてなかった? その柔らかいふわふわの耳は飾りか?」
「……何言われても、これだけは話せない!」

ナダレも意地になった。

「あのねえナダレさん。ボクを可哀想な家出っ子か何かと思ってる? 同情で情報くれてやろうって? 馬鹿にするなよ人類種(ニンゲン)ごときが!」

ぱっと手を放される。

「もういい。お前の命はボクのものだ。思う存分甚振(いたぶ)って全部吐かせてやる。よかったねここが病院で。道具には事欠かないよな」

そう言うノエルの手には、脊髄(せきずい)に使うような太い注射針が握られていた。
体の震えが止められない。全て洗いざらい言わなければ死ぬより酷い目に遭うのは目に見えている。そして、そうなった時に何かを言い出さないでいることが自分にできるとは、ナダレには思えなかった。そんな強さがあれば、ドラッグにも酒にも逃げずに、まともな暮らしを続けられていたと、自分で分かっているからだ。
それなら今言ってしまった方がよほど良い。ホワイトは軍閥(ぐんばつ)名家のお嬢様だ。剣の道もそれは厳しく(しつ)けられていたはずだ。ナダレが守る必要など本来ない人だ。

それでも。
それでも、自分からホワイトを裏切る事は、どうしてもできなかった。

痛みに屈するならそれでも良い。結果殺されたとしても別に構わない。
死にたくないだけならとっくにドラッグも酒も辞められている。ノエルに命乞いをしたのだってそうだ。ナダレに許されるのは、ゆっくりと、柔らかく死に続けることだけだ。緩慢(かんまん)な自殺だけが、ナダレに許された贖罪(つぐない)なのだから。

だからナダレは、何も言わなかった。両の目にたっぷりと涙を溜めて、(おび)え切って肩で呼吸しながら。それでも何も言わずに、ただノエルを見上げた。ノエルはそれにたじろいだように、鋭く舌打ちをした。

「……何なの、お前。死にたくないって割には、覚悟の決まった顔して。気持ち悪い。」

ノエルはナダレの(あご)を掴むと、口を開けさせて舌を思い切り引っ張った。そこへ、手にしていた注射針を突き刺す。驚いたナダレが舌を引っ込めようとしても、針が当たって入っていかない。ただ唇の端から血と涎が混じり落ちた。

「話したくないなら何も言うな。言えるようになったら聞いてあげる。それまで針、取るなよ。」

Nadare Noelle

(続く)

#4 カムアウト・アンド・プレイ・ウィズ・ボディーズ

ナダレはその古ぼけた建物の前に立っていた。申し訳程度に診療所の表札を出してはいるが、(すす)けて黒くなった外観、ゴミだらけの前庭、ほんのりと風に乗って(かお)ってくる鼻を覆いたくなる臭いは到底、診療所のそれではない。何も知らずに眺めていれば、ゴミ屋敷の廃墟だとしか思わないだろう。
ナダレはしばし目を閉じて気を高め、ようやく、意を決してドアを開けた。途端にワッと勢いよく、(ハエ)の群れが飛び出していく。鼻をつく悪臭は甘腐ったチーズのようで、独特なホルマリンのきつい匂いと混じり合っている。吐き気を(こら)えながら呼びかける。

「ヘーゼル!いるか!!」

すると、ゴミの山の向こうから返事とは思えない(うめ)き声が返ってくる。ナダレは心を決めて足を踏み入れようとしたが、すぐに(きびす)を返して外のゴミの隅に思い切り嘔吐した。
臭いが目にまで突き刺さってくる。頭を抱えた。勝手に涙が出た。何とかもう一度覚悟を決めて、部屋の入り口に頭を突っ込む。

「ヘーゼル! お前が出てこい!!!」

返事はない。分かりきったことだった。
じきに鼻が壊れてマシになることを祈りながら、恐る恐る足を踏み入れる。そこら中で多種多様な虫たちがビュッフェを開催している。幸せそうにふくふくと太りまくっている彼らを容赦なく蹴散(けち)らして、部屋の主を探す。
ヘーゼルはそのどこからが何の機能を持ったエリアなのかも分からなくなった部屋で、ごろりと横になっていた。痛烈なホルマリンの臭いが鼻にとどめを刺した。ナダレを見たヘーゼルは心底面倒臭そうに目を閉じた。手元に(しな)びたネズミの死骸が握られていた。天然パーマの長い髪は複雑に絡み合い、脂ぎっている。もう何日も風呂に入っていないのだろう。服もすっかり真っ黒になっている。あたりに乱立しているペットボトルの中身がなんであるかは考えたくない。どうかホルマリンであれ。

「おい、起きろヘーゼリッヒ!」

その木漏れ日のような名前の男は、超()級の怠惰者(スロウス)であった。

「なんだよナダレか……死んで出直せよ……」
「おい、せめて起き上がって喋れ」

ヘーゼルは渋々、嫌々、泣く泣く。たっぷりと時間をかけてそれはもうゆっくりと目を開けた。

「良いところだったんだ……彼女とそれはもう楽しんだ……」
「聞きたくない!」

ヘーゼルは手に握ったネズミの死骸をうっとりと眺めている。彼は怠惰(たいだ)であると同時に、死体に興奮するタイプの変態でもある。それでいて医者としては優秀で、とにかく切断がうまかった。治療はともかく、到底口に出せない用途でヘーゼルを頼るような連中も少なくない。そういう連中の誰かひとりでもヘーゼルを飼えばいい。この地獄に毎回尋ねてくるよりはマシなはずだ。事実、ナダレが外にぶち撒けた時、そこには新旧織り交ぜた嘔吐の(あと)がいくつも残っていた。

ヘーゼルはたっぷりと欠伸をした。彼の口内は腐った臭いがしていて、歯も数本しか残っていない。そのうち歯槽膿漏(シソーノーロー)で死ぬに違いない。ナダレはそれに関しては、不思議と同情が湧かなかった。ヘーゼルが頼ってくれば治療の手立ても考えるだろう。だが、そうしない以上は。ヘーゼルとはナダレのただの友人であり、患者ではないのだ。

「君の手に負えない患者なら、私には何ともならん……」
「そうじゃない。お前のところに、羽の生えた患者とか死体、回ってこなかったか?」
「そんな素敵なものがあったら今こうして君と駄弁ってはいないぞ」
「生きた患者もか?」
「見ていないね。私のところに継続治療を求めてくる奴はいないよ。」

それもそうだ。こんなところに通うぐらいなら潔く死ぬだろう。オルティとか多分そう。
ノエルが探していたものが、他の医者に回っているかもと思ったのだが。どうやらアテが外れたらしい。しかしヘーゼルは意外な腹筋の強さを発揮して、勢いよく起き上がってきた。

「まさか、そんな死体があるのか!?」
「まだ死体と決まったわけじゃないぞ。手首から先だけ見つかったんだよ」

わくわくした子どものような目で、ヘーゼルはナダレを見る。

「生きてるとも決まってないんだろう!?」
「まぁ……そうなるな?」
「よしきた! ナダレ、死体置場(モルグ)へ行こう!」

こんなにウキウキしない誘いを受けることもないだろう。目を輝かせているヘーゼルと対照的に、ナダレはげんなりしながら頷いた。ヘーゼルはゴミ山の中から躊躇(ためら)いなく眼鏡を摘み上げる。この惨状の中でどれがどこにあるか完璧に理解している。そういう丁寧さを日常生活に発揮してほしい。今ナダレは少しだけ、ナダレの汚部屋を見て毎回(イラ)ついていたオルティの気持ちを理解できる。
せっかくノエルが綺麗にした部屋を、キープするのも悪くないかもしれない。

その死体置場は、教会の地下壕である。この国でメジャーなアルス正教においては、土葬が教義となっている。しかし、国営墓地である9区への運送費用を賄えない者も少なくはない。ましてやここはスラムである。真相はどうあれ、教会の厄介になるのは、ほとんど無縁仏であった。また、遺体の多くは『まだ使える』部分を抜き取られて、スカスカになってしまう。死因を尋ねられては困るからと、わざわざ13区へ遺体を処分しにくる者まで出る始末である。
だから、特にこの街の教会は。金さえ払ってもらえれば、どんな死体でも喜んで引き受けて埋葬した。スラム街のわりに教会が多いのはそんな狂った理由だった。そして、教会の傍に留めてあるショベルカーの用途は、あまり深く考えないほうが良かった。
地下壕(ロッカー)は広くなく、そこに空きがなくなれば、彼らは墓地のどんな区画も遠慮なく掘削した。

ホワイト嬢の領地で手首から先が見つかったのはもう1週間以上前のことである。そしてその手首はひどく腐敗していた。仮に『本体』が死体置き場にあったとしても、埋葬されてしまっている可能性が高い。だが、羽が身体中から生えている遺体なんて、もし教会の者が見れば何かしら記憶にはあるかもしれない。
ヘーゼルを見た司教は嫌な顔をした。雇われ生臭司教様とはいえ、本物の腐れ神には敵わないようだ。悪趣味な指輪を退屈そうにこねくっていた彼は、羽の生えた遺体という言葉に眉をぴくりと動かす。そして、番号を言った。ひんやりとした地下室はある程度の区画に分けられている。棚に並べるように、無造作に突っ込まれた木棺。明らかに定員オーバーだが、そんなことを気にする者はここにはいない。
ナダレはヘーゼルの部屋ともまた違った、(カビ)臭い、()えた臭気に顔を(しか)めた。

「しかし、何だ。流石だな、顔パスかよ」
「切り落とした身体の一部だって、生ゴミに出すわけにはいかんだろ。私はそれを預けに来るだけだ。死体を眺めにばかり来ているわけじゃない」

司教に言われた番号を見つけ出すと、ヘーゼルは手際良くその棺桶を棚から下ろして、検分を始めた。老若男女問わず、パーツの寡多(かた)問わず。多様な遺体が納められている冷たい棺。彼らはひどく冷めた肌で、埋められるのを待っていた。その中には顔を潰され、身元のわからないようにされたものもあった。しかし、ヘーゼルとしては特に面白みのある遺体ではないらしい。彼は原因不明の死により強く惹かれるようで、見た目にもそれとわかる扼死(やくし)死体なんかには明らかに興味を喪う。ここまで素直に好き嫌いを見せつけられると逆に配慮してやろうという気にもなってくる。
……そうして大凡(おおよそ)死臭にも慣れてきたころ。包まれた布からそれは現れた。女の死体で、首筋にぱっくりと裂けたような傷跡があった。そして、髪の生え際の分かりにくい場所ではあったが、羽が吹き出していた。首の傷はそれでついたもののようだった。ヘーゼルは目の色を変えた。

「確かにこれは羽化症とは違うな。羽毛の塊に換わるように、ごくゆっくりと死んでいくのがあの病の美しくも恐ろしい点だ。だが、これはまるで、身体の中から鳥が羽を広げたようではないか?」

ナダレは、その遺体のさらに奇妙な点に気づいた。そもそも、あの時ホワイトが持ってきたのは引きちぎれた手首だ。であるならば。

「……この遺体は両手が揃ってる。それに、あの手首とは体格が違いすぎる。腐ってはいたが、あれはもっと大柄な男の手みたいだったんだ。」

ヘーゼルはパチンと指を鳴らした。

「よし、この遺体を引き取ろうじゃないか……金を積めば何でも何とかなるのが13区の良いところだ。」

そして、彼はいやらしい笑みを浮かべた。おい、本当に調査のためなんだろうな。
どうにか司教を(なだ)めすかして、台車を借りに行っている間に。結局その遺体は二度と拝めなくなった。
ナダレとヘーゼルが戻った時には、教会は炎に巻かれていた。隣家の人間たちだけが必死で火を止めようとして、それ以外は面白い出し物でも眺めているかのように遠巻きにしていた。
何があったのか、と付近の人間に尋ねれば、彼らは興奮した様子で語った。

「例のやつさ! ほら、教会の爆破テロ!! あれがとうとうきたんだ!!」

それからそいつはヘーゼルの悪臭に気づくと、あからさまに鼻をツマんで去っていった。そのヘーゼルは特に気にするそぶりもなく、考え込んだうえで話し始める。

「……例の死体を見せない為に爆破した、なんてことはあるまいな?」
「……それって、俺たちが狙われるかも、って意味か……?」
「はははナダレ、そんなまさか。ただの死体だぞ。ただの死体……だろう? そうだよな!?」
「はは……」

煌々(こうこう)篝火(かがりび)に照らされながら、ナダレは引き(つ)った笑みを浮かべた。
生存者はひとりもなかった。地下壕の遺体はどれも真っ黒焦げに炭化して、到底検分できるような状態ではなくなっていた。火葬では様式が違うだろうから、彼らが迷いなく天国へ行けたかは分からない。生臭とはいえ、司教が供をしていることに賭けるしかなかった。

ヘーゼルと別れて帰宅した後。ノエルはナダレを見るなり嫌な顔をした。

「臭い! ドブ川で水浴びでもしてきたみたい! それになんか死体と火薬の臭いもする!! 早く洗って!!」
「入れないと洗えないんですよノエルちゃんさま」
「じゃあお水あげるから外で洗って!!」

ここ、俺の家なんですけど。と抗議する間もなく。バケツに水とタオルを突っ込まれて渡される。まだ夏の暑さが残っているとはいえ、日暮れどきは寒くなり始めていた。これで風邪でもひいた日には、たまったものではなかった。

Nadare Gezellig Noelle

(続く)

#3 ミッドナイト・セレブリティ・スキン

竜種の治療は難行(なんぎょう)である。
というのも、竜種はその形態からして人類種とは大きく異なるためだ。人類種と似ているのは外見だけで、中身はまるきり異なっている。最大の特徴は『心核(しんかく)』という器官である。それは平たく言えば、心臓と肺と脳をいっしょくたにしたようなものだ。心核を中心に、重金属かと思うほどの濃く、どろりとした強い血液が全身を勢いよく巡っている。
竜種にとって身体とは、血液を人型に形作った擬態である。その血でできた粘土の中には、概ね人類種に似た器官を生成している。しかしそれが『見た目だけで、実際には機能しない擬態』なのか『本当に動いている臓器』なのか判然としない。
ましてや今回のように。竜種が自ら出血を止められない状況なら、まず心核の破損を疑わなければならない。心臓と肺と脳の機能を持つ器官を破損しているかもしれない、なんて。医者にしてみれば、これ以上のバッドケースもなかなか考えつかない。

……ナダレは意を決した。まずもって竜種に麻酔は効かない。毒のほとんどが効果がない、ということは、薬もほとんど効果がないということだ。
それは軍医時代のナダレを散々悩ませた問題だった。竜種は痛まないわけではないが、痛みには強い。さらに、麻酔で誤魔化(ごまか)すよりも、心核の力で即座に傷を回復したほうが手っ取り早い。だから、心核に傷がつくようなケースがいちばん困った。

まずは服を剥がし、本当に心核の傷かを確かめる。毒は効きにくいだけで効かないわけではない。竜種の血の魔法を阻害するような何かが原因である可能性も、まだ残っている。
ノエルは胸から腹にかけてが大きく裂けていた。この状況で(はらわた)(あふ)れ出していないのは、そもそも腑を生成していないタイプの個体だからだろう。
止まらない出血を吸引しようとしたが、吸引器(サクション)のチューブはごぼごぼと泡を立てるだけだ。竜の血は重すぎて、水を吸う程度の陰圧しか持たない機材では吸引できないのだろう。シェイクを(すす)るようなもので、単なるドリンクをストローで吸うより力が要る。ナダレは舌打ちして、ノエルの身体の下にクッションやマットを詰め込んだ。身体を斜めにして、重力で血を傷口から排出(ドレン)するためだ。クッションは次々に真っ赤になっていった。
竜種の心核は、概ね人類種の心臓の位置にある。痛むかもしれないが、躊躇(ためら)っている場合ではない。ここへ辿り着くまで、ノエルがどれほど失血しているか分からない。血が足りなくなれば、身体が擬態を保てなくなり崩壊し始める。今すぐそうなってもおかしくない、と思いながら当たるべきだ。

「ごめんな、ちょっと痛いぞ」

ナダレは声をかけて、ラテックスの手袋を嵌めた手で、ぐっと傷を掴んで押し広げる。ノエルはぎゅっと目を瞑ったが、暴れなかった。ちゃんと意図が伝わっている。押し広げた傷が戻ろうとしている。まだ心核が働こうとしているのだ。血を傷口へ送って、治そうとしている。だから余計に血が止まらない。毒によって心核が止まっているわけではないようだ。
そのまま心核の破損を探る。ペンライトで傷口を照らせば、まるで血肉の結晶のような、粘ついた赤黒い塊が目に入る。そこに、小さな破片が突き刺さっていた。刃物の先端のような、薄く鋭い破片だ。——これだ。
これしきの異物で、心核は機能を失う。竜種は確かに強い生き物だ。だが、不死の生き物ではない。
ナダレはそれを掴むと、一気に引き抜いた。瞬間、急激に血流が息を吹き返し、傷口を覆うように絡まり始める。あとは、回復力に任せれば大丈夫だろう。ナダレは大きく息を吐いた。
ノエルはふふ、と、赤く汚れた口元に笑みを作る。

「やるじゃん先生」
「血は足りてるのか? ウチには人間用の輸血しかないぞ……」

心核が力を取り戻しても、本領を発揮するにはそこに流れる血が必要だ。ノエルはぐったりと、首を横に振った。

「だよなぁ……」
「人間用でもいいよ。飲む」
「あのなぁ」

そういえば戦場で、血が足りなくて人食いに走ったやつもいたな、と。ナダレは自分の立場を思い出し、すっと立ち上がる。丸齧りはごめんだった。

「何か食えそうな物買ってくる。何が良い?」
「なんでも良いよ……ほんとに血でも良いのに。」

血のついた服を替えて外に出たのは良いが、食事は何でもいいがいちばん困る。ナダレは冬物コートに身を包んで、こそこそと街を歩いた。このスラムにまともな食い物屋は少ない。少し歩くが、表通りまで出たほうがいいだろう。
なにより、ノエルの傷は誰かから負わされた手傷だ。竜種を傷つけられるような相手がもし襲ってきたら、ナダレはとても太刀打ちなんかできない。ノエルにはなんとか自力で逃げてもらうとしても、ノエルがナダレを守る理由はないのだ。それを思えば、診療所から少し離れたかった。

表通りのコンビニで、ナダレはいくつかの食料を適当に手に取った。カップ麺、パン、惣菜、チキンなどなど。……そして、チョコレートのかかったドーナツを籠に入れる。それは単にナダレの好物だからそうしただけだ。
ナダレが帰ると、ノエルはじっとして体力を温存していたが、袋の中身を見て目の色を変えた。

「ドーナツ!」
「ドーナツ、好きなのか」
「金色のつぶつぶのがいちばん好き」

それはチェーン店にしかないやつだな。
ナダレは自分の夜食にするつもりだったそれを、泣く泣く手放した。患者の無事には換えられない。これが悲しい医者のサガだ。

「……なんで怪我してたとか、聞いてもいいのか」

ひととおりの食事が済んで、ナダレはノエルにそう尋ねた。

「ちょっとした喧嘩だよ」

ノエルは目を閉じ、ふわぁと欠伸をひとつして黙り込んでしまった。仕方ない、目を覚ましてからにしよう、とナダレもカウチに潜り込む。

コンコン、と硬質なノックの音を響かせる。出迎えのないことを承知しているオルティは、遠慮なくドアを開けた。
するとどうしたことか。普段はゴミ屋敷寸前の様相を呈しているナダレの診療所がすっきりと片付いているではないか。潔癖症のオルティには非常にありがたいことだが、それ以前に。まずは親友がついに狂ったか、部屋をゴミごと追い出されたか、のどちらかを心配しなければならなかった。

「ナダレ? いるのか?」

呼びかけると、ぱたぱたと足音がして、奥から人影が駆けてくる。オルティは思わず、懐の短銃に手を伸ばしかけて……そして止めた。それはどう見ても幼い少女だったからだ。……コスプレ臭いがナース服か? それは……。

「……えっと?」
「おじさん患者さん?」

きょとんとした顔でオルティを見上げていたその娘は、勝手に納得すると振り返ってナダレを呼んだ。

「ナダレさんカネづるきた!」

人を指してカネづるはよせ、とオルティが苦言を呈するより前に。安っぽいナース服の少女はオルティを見上げて、にたりと笑んだ。その唇からは牙が溢れ、瞳は燐光に輝いている。……竜種だ。

「良かったね。その銃に手をかけてたら、ボクはおじさんを食い殺すところだったよ。」

オルティはナダレに罹っている患者でもある。その日は情報屋としてではなく、純粋に患者としてやってきたのだった。
ナダレは疲れ切った顔でぐったりしていた。オルティは綺麗に片付いた診療所を、何事かという顔で見渡して、とりあえずナダレの前の事務椅子にかけた。そして、簡単な問診のやり取りを済ませる。

「この子は?」
「……患者……?」

オルティの、ノエルのほうを眺めながらの問いかけに、ナダレはぐったりどんよりした目で答えた。それ以外に答えようがなかった。察しのいいオルティなら、ナダレが竜種について依頼したこととノエルを結びつけてくれるはずだ。
ノエルは興味深そうにオルティの周りを彷徨いている。オルティは苦笑した。

「ねえおじさん病気? お腹切る? 見てていい?」
「お腹は切らない。見ててもいいけど、点滴するだけだからつまんないと思うよ」

オルティはいつもそうするようにジャケットを脱いで、左腕を捲った。ナダレはそこにてきぱきと治療薬の点滴を付けていく。オルティは少なくとも月に一度は、そうして薬を入れていた。そうしなければ、この羽化症(うかしょう)という病には立ち向かえなかったからだ。投薬の翌日は動けないほどの苦痛と倦怠感に襲われる。オルティはマフィアのボスとして、そんな姿を部下たちに見せられなかった。そのためこうして内密に、休日の前にナダレのもとを訪ねてくる。

「ほんと、薬だけ? つまんない……」

そう言いかけたノエルがぴくりと固まった。かと思うと、オルティの匂いを嗅ぎ始める。

「……香水臭いけど…知ってる匂いがする……?」

ノエルは訝しむように匂いを嗅ぎ続ける。オルティは完全に愛想笑いになってしまった。目が遠い。オルティは他人に距離を詰められることを好んでいないが、ノエルはそんなことを知る由もない。

「……おじさんの病気って、体に羽が生えるやつ? そうだよね?」
「……そうだ」

オルティは商会の同朋にすら、自身の病気を告白していない。彼はノエルの言葉に完全に面食らったようだった。ノエルはぺろりと舌を出した。

「ふぅん……なんだ。ナダレさんて本当に何も知らない人だったのか。」
「君は、ナダレが何を知ってると思ったんだ?」

オルティはつとめて、低く冷静な声を出していた。竜種は竜種の倫理観でしか動かない。ナダレが情報源として無用だと気づいたなら、ノエルがここでオルティごと殺して去ってもなんら不思議ではない。オルティはそれを警戒したのだ。
しかしノエルは即座にはそうしなかった。そこに話し合いの余地があるのだと、冷徹な情報屋は判断していた。

「それは言えない。お父様に叱られるから」
「お父様?」

竜種に親子の情があるなどと、彼らは聞いた事がなかった。竜種は卵から孵る。卵を産み落とした竜種が、我が子の面倒を見る事は(まれ)であった。ましてや父親となる者が。

「お父様はお父様だよ。何? 人類種って父親とかいない感じ?」
「……」

ナダレはぎゅっと眉根を寄せた。
彼にとって父親と呼べるものは3人いた。が、そのどれもが苦い思い出だったのだ。

「つまりその……お父様というのは、君の実の父ということか?」
「そうだけど?」

ノエルは少し苛ついた様子で、何を当たり前のことを尋ねているのか、という顔をしている。そして、面倒そうに、(まと)っていた衣装を脱ぎ捨てた。オルティはぎょっとした。少女然としたノエルが急に目の前で裸になろうとすれば、目を背けないほうが不思議だ。オルティが完全に視線を逸さなかったのは、それが幼いとはいえ竜であったことと、いつ自分の首筋を切り裂きにくるか分からなかったからだ。
しかしノエルは脱いだ代わりに自分の制服を(つま)み上げたところで、それの腹が大きく裂かれていたことを思い出したらしい。がっくりと項垂(うなだ)れる。

「そうだった……ああもう、面倒なことになった…」

ノエルはつかつかとナダレに歩み寄ると、ぐっとその襟元を掴んだ。

「当分(かくま)って」
「……はい?」
「だから、治ったら出てくつもりだったけど! ここで匿ってって言ってるの! ボクのドーナツ毎日買ってきてお風呂に入れてきれいなベッドで寝かせて枕元で音読して毎朝ミルクを飲ませてって言ってるんだよ!!ナダレさんボクの家畜でしょ!!」

明らかに家畜の稼働範囲を超えている。
しかし口ごたえなどした日には今度こそ耳がなくなるか、約束通り腹に穴が開くだろう。ノエルはやると決めたらそうするヤツだ。だというのにわざわざ許可を取っている。最大限の譲歩というやつだ。ナダレは壊れた玩具の人形のようにカクカクと首を振った。
それをぽかんとして眺めながら。オルティは完全にドーナツの口になっていたのであった。

Nadare Noelle Ortie

(続く)

#2 アイワナビー・ユア・クリーピィ・ドッグ

「——あのなあ! 俺は真面目に話してるんだ!!」

ナダレはふわふわのフレンチトーストを口に放り込みながらそう喚いた。ナダレの向かいに座った男どもときたら、話を聞くなりこれだ。

「お前、またシャブキメてんのか? ほどほどにしろよ?」
「君ね……さすがにいきなり家畜はないよ。」

昼間っから、人をなんだと思っているのか。
方や、この国のトヲラス人コミュニティの一翼を担うマフィア、クローバー貿易商会の会長オルティ・クラヴィアド。白金色の髪が薄暗い照明にふわりと(まぶ)しい。褐色の肌に淡い髪色、それを黒のスリーピースに包んで、紳士然として足を組んでいる。革靴は先端に加工ではない本物の焼色(バーニッシュ)が入っていて、いかにも高価そうだ。店に入って外したフェドラ・ハットとサングラスもどこぞのブランド品だろう。
方や、この国の警察・国防組織である国軍警察の大佐ダレン・ヴァン・レリーチェ。彼は非番の今日、制服を脱いでいた。赤毛に似合う落ち着いた色味のポロシャツは、ブランドのロゴが入っている。そこにシンプルなスラックスと、凝ったウイングチップの組み合わせ。出来る男の身なりであった。
そして、よれたシャツと薄汚れた白衣のナダレを合わせて。彼ら3人は、かつての学友である。今もこうして杯を酌み交わす仲だが、とはいえ昼日中であるので、今日は3人ともノンアルコールである。
ナダレは抗議の声を上げる。

「今日はまだキメてねえよ!」
「まだ、って。威張ることじゃないよ。」

ダレンはばっさりと、ナダレを切り捨てた。
薄暗い店内は彼ら3人だけだ。静かなロックミュージックがジュークボックスから流れている。
この店は商会の傘下にある。こうした密談にはもってこいだ。店主はドリンクを出した後、気を遣ってか店の奥に引っ込んでいた。
グラスを傾けて、それからダレンは、不精髭のひとつもない、白く細い顎を撫でた。年齢の割に、ダレンはいつまでも少年のような面立ちをしている。それでいて国軍きっての知将である。

「ホワイト嬢とは僕も親しいけれど。手首のことは今、君から聞いたばかりだ。」

ホワイトの家、スプラウス家は、この国の由緒ある軍閥貴族である。家長に将軍相当の地位を与えられ、将軍家と呼ばれる家のひとつだ。そのため、ダレンとは仕事上での付き合いがあった。

「ナダレ。今回のことばかりじゃない。君は一度、まともな治療を受けるべきだ。オルティから聞いた時、僕は国家権力で君を守ろうかと思ったぐらいだよ。」

ダレンは、(まなじり)の下がった目でぎゅっとナダレを睨む。ナダレが(ひる)みそうになったところへ、アイスコーヒーに甘ったるいシロップをぶち込んだカフェオレを飲みながら、オルティが話を遮る。

「ま、薬の件は一旦保留だ。竜種のことは、俺とダレンで少し調べた。……竜種ってのは、知っての通り、この国ではトヲラス人並みに危うい立場だ。」

このアルスという国は、かつてトヲラスと戦争をした。
竜種は、トヲラスとの戦争の終末期において、兵器として前線に投入されていた。その戦果は凄まじいものであった。人を超えたほとんど無尽蔵の体力。銃器さえ必要としない単純な破壊力。心核を壊されなければ止まらない生命力。それはまさに怪物であった。……ナダレは当時、軍医として。ダレンは兵士として。その(すさ)まじさを目の当たりにしている。そして、トヲラス人であるオルティは、竜種の恐ろしさを、自らの血族の痛みとして抱えていた。

「投入された竜種のほとんどは、戦争犯罪者とされた。そればかりか、竜種という種族そのものが、『危険種族』とされ排斥されたんだ。この国で竜種は、まともになんか生きられない。」

オルティは、深くため息を吐く。美しい湖水のような色の瞳が、憐れむように揺れた。

「仕事も生活も、表の社会にはない。彼らは切り落とされた尾だ。今ものたうち回っている。……竜種はトカゲの赤ん坊とは、よく言ったものだな。」
「それは一般的な竜種の話だ、俺が知りたいのはそうじゃない」

フォークを噛むナダレに、オルティはフン、と鼻で返事をした。

「分かってる、これはただの前提の話だ。」

カフェオレを飲み干して、オルティはグラスを置いた。氷が冴々(さえざえ)した音を立てて、グラスの中で転がった。オルティはにやりと唇の端を吊り上げる。

「つまり、まともな竜種ならダレンが知らないはずないのさ。そうでないものは、俺の領分だ。」

思わずナダレは、フォークを取り落とした。

「何か分かったのか!? この短期間で!?」

ナダレがオルティに相談したのはほんの3日前、ノエルと出会った日のことだ。彼のご主人様となった幼い竜種のことを、ナダレはどうしても知りたかった。そこで、この国のアンダーグラウンドきっての情報筋である、親友に頼んだのだった。
オルティはぴっと指を立てて、ナダレにウインクして見せた。

「情報屋舐めんなよ、ナダレくんよぉ……!」

それからオルティは、一冊のスクラップブックをナダレに手渡した。それでその日はお開きになった。
別れる前、ダレンはナダレにそっと耳打ちする。

「近頃物騒だからね……君は教会なんか、縁がないだろうが……。気をつけてくれ。」

そういえば、教会を狙った爆破テロが横行してるとかいう事件が、あった気がした。

「お家で見てネ♡」とマーカーで書かれたテープで、スクラップブックは封印されていた。調べの速さといい、マフィアの会長職というのは案外暇なのかもしれない。言いつけ通り家に戻ってから開けると、その中はしっかりと記事が整理されて、ぴしりと列になって並んでいた。……やっぱりアイツ暇なのかもしれない。
貼り付けられた記事の多くは新聞やオカルト誌からのコピーのようだ。そのひとつひとつにオルティの丁寧な筆記で、出典と雑感を示すコメントが添えられている。オルティのこうした細やかさが、ナダレは嫌いではなかった。

その中の一葉に目が留まる。粗い写真で、どうやって入手したのか、監視カメラの切り抜きのようだった。その翻る制服のような衣装に、見覚えがあった。

——数日前の、あの日、あの後。

「ナダレさんて、医者でしょ? とりあえず聞きたいことがあるんだけど。羽が生えた患者とか、見たことない?」

羽! そうだ、ホワイトが持ち込んだ羽の生えた手首!!
ナダレは爪を噛む。あれを知っていると言っていいものか、判断に迷っていた。秘密にする必要はないと言われたものの、話すことでホワイトの不利益になることが怖かった。それだけは破れない。ナダレはもう二度と、ホワイトを裏切りたくはなかった。自分が酒や薬に溺れていることを棚に上げて、いまだに『いい先生』でいようとしていた。
ノエルはすっと目を細めて、ナダレを見やる。気配すら見逃さないとでも言うかのように。

「やっぱり。知ってるんだ?」
「いや……羽化症(うかしょう)とは違う症状を見たことがあるってぐらいで……」

ごにょごにょと話すナダレに、ノエルはぐっと顔を近づけた。

「家畜の自覚が足りないらしいね。」

ノエルの鋭い牙が、がぱりと剥かれたかと思うと。ナダレは焼けるような痛みを、耳に感じていた。
ナダレの耳は、ふわふわの毛に覆われている。鹿狼(かろう)族、と呼ばれる血筋であるナダレは、その耳がまるで獣のようにふさふさとしていた。鹿狼族はこのように、体の一部に獣のような変異を生じることがある。羽化症も元は、そうした翼状の変異を産む遺伝子が狂ったものだった。
耳を押さえて(うずくま)るナダレの前で、ノエルはぺっぺ、と毛を吐き出していた。

「うえぇ、毛っぽいっ!!」

ナダレの耳朶(みみたぶ)には、鋭い牙で穴が開けられていた。大した大きさの傷ではない、ただ穴が空いただけ。それでも、不意を打って付けられた傷は、痛みと恐怖を増長させる。

「いいか。次に会うときには、その下品な穴に似合うピアスをつけてあげる。家畜ってそういうの付けてるだろ。」

震えたまま見上げるナダレに、ノエルは、べっ、と赤い舌を見せた。

「お前は毎日鏡でそれを見て、ご主人様に嘘ついたことを思い出して反省しろ。……次はお腹に穴開けるからな。」

なんともゾッとしない話だ。
流石にナダレの悲鳴を聞きつけたか、路地のあちこちの窓から人が顔を出していた。何事だ、喧嘩かなと口々に、少しだけ興奮したように囁きあう。それは13区では日常的な風景だが、ノエルは苛立ったように、フードを目深に被った。

「人間の目は不躾で気持ち悪い。……それじゃ、ナダレさんまたね。」

そしてノエルは姿を消した。

「約束だよ、またすぐに会いに行くからね。」

そんな物騒なセリフを残して。
……あれから3日あまりが過ぎている。ナダレは耳に触れた。とっくに瘡蓋(かさぶた)ができて、穴は塞がりかけている。ノエルが現れる気配はない。
スクラップブックの最後には、手書きのメモが挟まっていた。
——”見終わったら破棄しろ。ヤバい事には首を突っ込むな”
ヤバい事、なのか。優秀な情報屋の目から見て。ナダレの知らないどこかで、何かが(うごめ)いている。分かったことは、竜種の殺し屋集団がいるらしい、という噂だけだ。本来は一匹狼気質の竜種を、誰かが束ねて組織化している。……ノエルはその一員なのだろうか?

……不意に。

こつこつと、ドアを叩く音がした。
あんなメモを見たせいか、その音はやけに恐ろしげに聞こえた。ドアを開けた先に、とんでもない怪物がいたら。そんなことを考えながら、薄くドアを開けると。
転がり込むように、何かが飛び込んできた。

それは全身が血濡れて真っ赤になった、ノエルの姿だった。

「——は?」

ノエルはナダレにしがみつくように倒れていた。その間にもじわじわと、フローリングに血が染みた。慌てて抱き起こすと、ノエルは()せるようにいくらかの鮮血を吐いた。

「良かった……見つかって」

ノエルは弱々しく、そう呟く。おろおろするナダレに微笑みかけながら。

「大丈夫だよ、ほとんど返り血だし、疲れてるだけだから……」

そう言いながらも、出血が止まらない。竜種は血の魔法という力を持っている。自身の血を自在に操る力だ。それが働いていないのだ。緊急事態であるとナダレはすぐに理解した。

「大丈夫なわけないだろ!すぐに処置する、動かすぞ——」

ノエルを抱き上げようとしたとき、ノエルの唇はかすかに「やくそく」と動いた。

「約束したから……すぐ会いに行く、って……。」

ノエルはぐったりとそう呟いた。
ナダレは、咄嗟(とっさ)にその意味が理解できなかった。処置を急ごうとして、かっと熱くなっていた心に冷えた刃を差し込まれる。小さな体をこれほどボロボロにして。目的が、ただ自分に会いに来る、だけ?

「……なん……何言ってんのか、わかんねえ……。」

竜種は種として義理堅く、自ら立てた誓いを破ることはない。否、破ることができない。その時のナダレには、そんな事を知りようがない。ナダレは、竜と契ることの意味をまだ知らない。
いったい、自分は何と契約を交わしてしまったのか。
戦慄(わなな)く腕の中でノエルが鬱陶(うっとう)しそうに、ナダレを押した。

「いいから早く処置してよ!」
「あ、意外と元気だ……。」

Nadare Noelle Ortie

(続く)

#1 ロック・ドクター・フィール・ライク・エンジェル

シノノメ・ナダレというその男は死にかけている。

病気でもない。怪我ひとつしていない。けれど頭は重症だった。ドラッグとアルコールに蕩けた頭でぐったりと横になる。食べカスや空き瓶や脱ぎ散らかした衣類がドカ盛りに盛られた部屋の真ん中で。投げ出された小さなラジオからは、海賊放送が鳴り響く。誰にも許可を取っていない電波で、誰にも許可を取っていないロックの名曲を垂れ流す。それがナダレのふわふわとした、和毛(にこげ)に包まれた耳をズコズコに揺らしていた。
ここはアルス13区。無法者だけが暮らす(スラム)だ。ナダレはそこで闇医者として開業していて、今はトリップの中にいた。

——不意に、コンコンと、ノックの音がした。
何時間を無為に寝過ごしたのか。微睡(まどろみ)からゆるやかに意識が覚醒する。ナダレはこの瞬間がいつだって、好きではなかった。栗色(チェスナット)のモップのようになった長髪を、がしがしと掻いて起き上がる。

まだ夏が過ぎたばかりだというのに、冬物のコートを羽織る。ドラッグに浸された彼の頭は、いつだって真冬の雪原に放り出されたような、ひどい寒気を感じるようになっていた。
ドアへ向かう前に一発吐いた。トイレへ寄れたのはまだ調子のいい証だ。ダメな時はその辺へぶち撒ける。鏡で見た顔色はひどいもので、目の下の隈も皺も、もう一生取れそうにない。不精髭を剃るような気にはなれなかった。口を濯ぐだけにして、そして這々(ほうほう)の体でドアを開ける。数少ない患者(カネづる)かもしれないから、いくら離脱症状が酷かろうが無碍(むげ)にはできない。

「ラブホは(はす)向かいだよ……」

言葉が途中で止まったのは、ドアを叩いていたのが浮かれたスラム探検隊、怖いもの知らずのクソガキカップルではなかったからだ。凛と立つ彼女は、13区にはひどく不釣り合いに見えた。珍しいこともあるものだと、ナダレは目を丸くする。
ホワイト・スプラウスという名の彼女は、ナダレの昔からの知り合いだった。名門軍閥貴族の家長である彼女が、執事ひとりを伴ってそこに立っていた。

「先生。お久しぶりです」

ホワイトはいまだに、ナダレを先生と呼ぶ。
ナダレは以前、スプラウスの家長が彼女の父親・スノウであった頃に、スプラウス家に間借りしていた。スノウの主治医として働きながら、ホワイトの勉強を見てやったこともあった。しかし、スノウの心臓はナダレにはどうすることもできなかった。
失意の中、屋敷から引き払ったナダレは、13区に身を寄せた。そして、家長を継いだホワイトは、時折こうしてナダレを訪ねるようになった。こんな街に来るのはやめてほしいと頼んだら、迎えだけを寄越(よこ)されて外で会食することになった。
だから、本人がここまでやって来るのは、本当に久しぶりだった。

「今日はちょっと、見てもらいたいものがあって……それでこちらへ。いけませんでしたか?」

彼女は優雅な所作を崩さない。首を傾げれば、緑みがかったクセのない、長い金の糸がさらさらと流れた。慈愛に満ちた眼差しは、しかし厳しさも兼ね備えて、宝石のように赤く光っていた。白磁のような肌はほのかに色づく化粧を施されて、甘い香りがした。パンツスタイルのスーツがよく似合っていた。ナダレは躊躇(ためら)いながら、ホワイトを彼の家、もとい診療所へと上げた。
比較的ましな一角へ、比較的ましな椅子を引っ張って、そこへホワイトを座らせる。ホワイトは控えている執事、スコッティを呼びつけると、持ち込んだトランクケースを開けさせた。

「これは我が領内で見つかったものです。……どう思われますか、先生」

それは人間の手だった。

手首より少し長く、引きちぎる様に切り落とされていた。ぐずぐずに腐り果て、至る所がぼろぼろに裂けている。最も奇妙なことは、その裂け目から羽のようなものがいくつも、まるで花芽のように突き出していることだった。
奇怪な異物が悪臭を放つ。ナダレは思わずその場で、吐き残した分をぶち撒けてしまうところだった。ホワイトは涼しい顔で、嘔吐(えず)くナダレを眺めている。本当に吐き戻してしまっても、彼女は少しも気にせず、ナダレを労ったに違いない。

「どうって……そうだな……。」

ナダレはもう一度、その羽の生えた手首をまじまじと見た。
皮膚から羽が生える、という症例はある。羽化症という名の死病だ。だが、あの病で生えてくる羽はゆっくりと成長する。髪の毛や爪のようなもので、勢いよく飛び出すものではない。だから、もしも羽化症だとするならば、こんな風に皮膚をぼろぼろに引き裂いて現れるはずがない。この奇妙な手首の場合はまるで、幾重もの羽が、皮膚の中から一斉に噴出したように見えた。
ナダレは爪を噛みながら、そう伝えた。ホワイトは深々と頷いた。

「見てわかるのはそれぐらいだ。全身見たり、解剖すればもっとわかることがあるかもしれないが……。」

現状のところ、それ以上、何も言えることはなかった。

「力になれなくてすまない。」
「そんな顔をなさらないで、先生。充分ですよ。」

項垂れたナダレを、ホワイトは優しく励ます。本当に、よく出来た人だとナダレは苦笑した。そして、ふと疑問が浮かぶ。

「……何でわざわざ()せに来たんだ?」
「私の知る限り、先生は一番の名医だからですよ。」

(いぶか)しむナダレに、ホワイトは微笑んだ。
ホワイトは、いつでもそう言った。ホワイトは本当に優しく、立派な人に成長していた。
その、彼女の口癖のようになってしまった賛辞を聞くたび、ナダレは心臓が引き絞られるように感じた。彼女の父親を救えなかったのはナダレだ。なのに、ホワイトは一度も恨み言を言わなかった。いっそ(なじ)って、怒りと失望を向けられた方が、どれほど楽だったことか。
けれども、それはホワイトが「優しくて立派な人だから」で全てカタがつく問題だった。

彼女は、来た時と同じように颯爽(さっそう)と立ち去っていった。たかが手首の観察に、割に合わない莫大な謝礼を置いて。ナダレはそれを受け取って、いつものようにただ、金庫に突っ込んだ。
ホワイトからの金を、ドラッグに換えたことは一度もなかった。
そして、自分の価値を信じられたことなど。
ナダレには、一度もなかった。

眠るための酒を腹に入れて、そっとカウチに丸くなる。
次の朝が来なければ良いと、何度も念じながら。

翌朝。まだ朝の早い時間。無慈悲にも登った太陽に灼かれながら。
目を覚ましたナダレは、何の食べ物も家の中に無いことに気がついた。仕方なく外へ出る。コンビニなら、この時間でも開いているはずだ。いつものように、冬物のコートを羽織る。
外の空気は静かだ。残暑が厳しいとはいえ、朝の気温はどうやらずいぶんとマシになったらしい。ナダレにはその変化は、もはや感じ取れない。それでも、猛暑に(しお)れていた草花は随分と元気を取り戻した様に思う。

——ふと、誰かがナダレを呼んだ気がした。
気のせいか、と思いながらも振り返ろうとした背に、強烈な一撃が突き抜けた。あまりの衝撃に息が継げない。何かが乗っている。鋭く突き刺さる何か。視界の端で捉えたのは、高いピンヒール、編み上げのブーツ。覗く足は細く、膝は丸く愛らしい。

「あれ…? おかしーな……?」

鈴を転がすような、可憐な声がした。途端に脇腹に痛みが走る。転がされて仰向けにされたのだ、と理解した時には、そいつの顔が目の前に迫っていた。
燐光を帯びた蛇のような瞳が、ナダレをじっと見つめている。

——竜種(ドラゴン)

竜種は、姿形は人に似ているが、人ではない。
その少女のような見た目をした人でなしの獣は、ぐっとナダレの襟首を掴んだ。

「……お医者さん? もしかして全然関係ないヒト? でも臭いがする……どういうこと?」

ナダレの匂いを嗅ぎながら、竜種は独り言のように呟く。唇を動かすたびに、その隙間から物騒な牙が(こぼ)れた。

「んー、よし、面倒だ。殺そう。」

……竜種は人ではない。
その倫理観すらも人とはそぐわない。彼らの世界は強者生存である。そして、この国ではおよそ人権と呼べるものを保障されていない。竜種が生きる術はほとんど、闇の世界にしか存在しない。生きて意思を持った爆弾。それが竜種というものだ。
だから、彼らはやると言えばやる。ナダレの命は今、俎上(そじょう)で品定めをされている。
この竜が、何を言っているのかわからない。言葉は分かるのに理解ができない。否、理解させられている。自分の一生はここで終わりだと。本能が痛烈に訴える。勝手に涙が(あふ)れて来る。ナダレは必死に頭を巡らせた。何か言わなければ。でなければ本当に殺される。何か、何か——!!

「——ぅおねがいしますっっ! 何でもするから殺さないでくださぁい!!」

世界で一番情けないタイプの命乞いが、つい口から飛び出していた。
心底から自分自身に失望した。終わった。カスの人生。くだらない。恥ずかしい。穴があったら入りたい。むしろ逆に。早く殺して埋葬してくれ。そんな自罰的な走馬灯が駆け抜ける中、ナダレは自分を襲うはずの痛みがいつまでも降って来ないと気がついた。
……いつまでも、殺されなかった。

恐る恐る目を開けると、竜種は物騒な瞳をきらきらと輝かせながら、ナダレを見ていた。

「すごい! 初めて見た!! 本当に本物の命乞いだあ!! ねえ! おじさん本当になんでもする? じゃあボクの家畜になる!?」

かちく?
言われたことの意味が飲み込めなかった。かちく……家畜か。ペット、みたいなことだろうか? SM? 女王様的な? ナダレがぽかんとしていると、竜種はすんと唇を尖らせる。

「え、死ぬ?」
「やらせてください何でもします」

即答。

「やった! 決まり!!」

訳がわからない。まだ幼いその竜は、男とも女ともつかない不思議な見た目をしていた。若草色のやわらかな髪。毒々しいほどの金色の瞳。可愛らしく悪戯っぽい猫のようでありながら、どこか凶暴な虎のような顔立ち。そして、竜種の特徴である長い耳は、短く切り落とされていた。

「ボクはノエル! お前のご主人様になった!」

楽しそうに白い頬を染めながら。
ノエルはナダレの上から退いた。くるりと回ると、長いスカートのようなコートがひらりと揺れる。よくよく見れば、何かの制服のような出立ちだった。
ナダレはゆっくりと身を起こす。ここで逃げ出したところで、竜種なら造作もなくナダレを殺せる。
ひとまず、家畜に徹しよう。……家畜ってどうすればいいんだ? 草とか食めば良いのだろうか?

「あの……ノエル、様?」
「ノエルちゃん、とか、可愛く呼んでいいよ」
「ノエルちゃんさま……家畜って、何すれば……??」

愛想笑いを浮かべながら問いかけると、ノエルの瞳がすっと冷えた。口元は笑っているが、ギラギラとした金の瞳は笑っていない。そんなことも分からないのか、と言わんばかりの顔。
慌てて訂正する。

「あっ大丈夫です自分で考えますそりゃもう靴とか舐めます徹底的に舐めます」
「はい、偉いねえ!」

ノエルはにっこりと笑んで、ナダレに手を伸ばした。よしよしと頭を撫でられる。これは家畜というか……犬的なあれでは?
やっていけるのか? こんなので……。

Nadare Noelle

(続く)

#13 キャリオン・シャイニー・デイズ

(かし)いでいく艦の中で、エヴァグリーンはオルティを背に負った。手近にあった帆布を裂き、ロープにして、しっかりとオルティを自分に括り付ける。艦内をデッキ目指して駆け上る。その間にも船はゆっくりと傾き続け、エヴァグリーンは剥き出しの鉄骨を雲梯(うんてい)のように掴んでは、道ならぬ道を進まねばならなかった。
デッキへ出るドアは船体の歪みで開かず、仕方なく、船室の窓をぶち抜いて外へ出た。冬の冷たい潮風が吹きつける。
オルティは寒さから逃れるように、ぎゅっとエヴァグリーンにしがみ付いた。小さな背中が、赫々(かくかく)と熱を持っている。エヴァグリーンの心核は、限界まで力を使おうとして加熱していた。それが今、オルティの生命を守る灯火となっている。

イーデンは元々、ただの客船だ。浸水を止める優れた隔壁などは持ち合わせていない。ましてや、今はそれを操作する者も。そのため、その大きさに反して沈む速度が早い。とても救命艇を探すような暇はなかった。さらには、どこかで漏れた重油に火が入ったのか。黒々とした海面にはところどころ、オレンジ色の炎の帯が揺らめいている。

「なるべく遠くに飛び込め。船が沈む時の渦に巻き込まれる。」

オルティはまた無茶を言ったが、エヴァグリーンならそれができると信じているようだった。エヴァグリーンは遠くの、火の回っていない海面を見つめる。冷たい水の中でオルティがどれぐらい持つのかわからない。泳ぐのはなるべく短い方がいい。

いつまで待たせる気だ、とエヴァグリーンは胸中で焦燥(しょうそう)を募らせていた。
——その目に、鮮烈な漁火が映る。少し離れた海上に、漁船が一艘浮かんでいる。エヴァグリーンはそちらの方へ向かって、精いっぱいに飛び込んだ。

氷のような冬の海が牙を剥く。まともに泳いだ経験なんか、エヴァグリーンには一度もない。真っ黒いうねりの中で、とにかく海面を目指して、がむしゃらに強く水を蹴る。
絶対に死なせない。
背にしたオルティの命を、絶対に持って行かせはしない。その一心で。

眩しい漁火が、海面に出たエヴァグリーンの眼を焼いた。ディーゼル音が海面を断ち割っている。忙しなく海面を照らしながら、漁船の上から大きな声が響いていた。

「おーーーい! オルティさーーーーーん!!」

ロータスだ。
エヴァグリーンは、それを目指して泳いだ。大丈夫だ。しっかりと背負ったオルティは、ちゃんとここにいる。微かながら、拍動が伝ってくる。どうしようもなく、笑みがこぼれそうだった。

「ロータスさん、エンジン音よりうるさいですう…」
「そんな場合じゃないだろ!! お前も呼べ! アルシァラだってサーチライトやってんだぞ!!」

口々に、彼らはオルティの名を呼んだ。
それから。

「エヴァーーーー! 生きてんなら声出せーーーー!!!」

彼らは同じように、エヴァグリーンを呼んだ。エヴァグリーンが返事をしようとしたそのとき、ゆっくりと、大きなものが包み込む。

「見つけたぁ〜!!」

それは、海にぬぼっと立つ、巨大な怪物のようにも見えた。シェイプシフター。黒い波のようなサダルメリクが、彼らを優しく(すく)い上げ、抱き上げている。
そっと船上に降ろされ、ぐしゃぐしゃに濡れたスリーピースをふたり揃って脱がされながら。オルティは訳がわからないという顔をしていた。

「……なんで、お前たちがいるんだ?」

タオルで何重にもオルティを巻きながら、ロータスは歯を見せて笑った。

「エヴァに頼まれたんですよ。迎えの準備しとけって」
「エヴァグリーンが……!?」
「俺はただ、ちょっと海まで出かけるってこいつらに言っただけだぜ。」

絶対にそんなレベルの話ではない。小さな漁船は、定員オーバーではと思うほど人数を詰め込んでいた。万が一、あのままオルティがエルドラドに攫われていたとしても、そのまま取り返しに行けそうなほどの人手だ。
目を白黒させているオルティから、エヴァグリーンは顔を背けた。面と向かって言うには恥ずかしかったのだ。

「プレゼント……お前には貰ってばっかりだっただろ。だからってワケじゃ、ねーけど。……お前がちゃんと帰れねーのは、俺は嫌だ」

それを聞いてロータスは、ふっと柔らかく笑んだ。

「ほんと、よく帰ってきてくれましたね、オルティさん。エヴァも、よく連れて帰ってくれた。」

まいったな、とオルティが呟く。被せられた毛布に、頭から包まる。小刻みに震えているそれを、誰ひとり暴こうとはしなかった。

港まで戻った彼らは、その足で商会まで向かった。ささやかながら、受付嬢のリズが聖誕祭のケータリングを手配していたのだ。オルティはずっとシャワーを浴びたがっていた。体の芯まで凍えて、服は潮でべたついている。ロータスがバスルームに湯を張りにいっている間、オルティは執務室で、慣れない手つきでケトルに水を入れていた。

「最後の最後に、お前にはしてやられたな。……本当に驚いた。」
「俺は何にもしてねえ。やったのはあいつらだ」
「それでも、あいつらを動かしたのはお前だ。それだけお前は、皆に信用を置かれるようになったってことさ。」

オルティは深く溜息をついて、エヴァグリーンに笑顔を見せた。疲れ切った顔をしているが、その表情は晴れやかで、肩の荷が降りたようだった。

「本当に、お前に会えて……お前が商会に加わってくれて、良かった。こんなことは、少しも予想してなかったが……そうなればいいなと、ずっと思っていたんだ。」

ケトルに湯が沸き、オルティは不器用ながらインスタントコーヒーを淹れた。遅いディナーの前に、ふたりきりでの祝杯だった。
けれどそれは、お世辞にも美味いとは言えないものだった。

「うへえ、泥水の方がいくらかマシだ」

エヴァグリーンは顔を顰める。オルティも、少し舐めただけでむっとした顔をする。人生でいちばん、酷い味のコーヒーだ。互いに顔を見合わせて笑う。胸が暖かいのは、コーヒーの温かさだけではない。だからそれは間違いなく、最高の一杯だった。

聖誕祭の後のホリデーが過ぎ、新年を迎えて。
まだ誰も彼も休暇中の、静かな事務所で。

オルティ・クラヴィアドは全てを片付け終えた。仕事も引き継ぎ、事務所を整理し、ロータスへの言付けを残した。きっと彼らならうまくやれると信じる。そして、もうこの商会に、擦り切れた病人は必要がない。
それは、冷酷な決断だと誰もが非難するかもしれない。けれど、必要なことだとオルティは信じている。
ここは、家族のように暖かくて、居心地がいい。けれど、それではいけなかった。——ただ、健全ではないからだ。仕事は仕事で、私事とは分けるべきだとオルティは思う。だからこの血のように濃い絆は、断ち切らねばならないと。それでも商会は回っていくと、オルティは信じている。

そっと事務所の鍵を閉めて、手荷物だけを持って出る。いまやそれが、オルティの全財産だ。数枚の着替えと、いくらかのキャッシュ、私用のデバイス。
たったそれだけ。
長きに(わた)り、このアルスのアンダーグラウンドで。縄張りを守り続けた男の手持ちとしては、あまりにも(わび)しい。
事務所の裏手から、音もなく出る。
そこに、そいつは待っていた。

「どこ行く気だ、お前」

エヴァグリーンが、バイクを停めていた。

「……なんで居る?」
「別に。新年早々、辛気くせえオッサンのツラでも拝もうかと思ってよ。」

嘘だ。
全部終わったら、オルティは消える気だと、なんとなく理解していたからだ。エヴァグリーンはここしばらくの間、毎日、事務所の様子を見にきていた。オルティにもそれと気付かせずに。

「乗れよ。送るから」
「……着いてくるつもりなのか?」

オルティは隠れ家を変える気だ。もちろん、エヴァグリーンにはそれが分かっている。きっとここで断っても、探し当てるまで着いてくるに決まっている。
——この孤独な竜種の青年を、そうさせたのはオルティ自身だ。

だから、断ることができなかったのだろうか。

クローバー貿易商会は、なんとかやっている。
始めは大混乱だった。失望もあった。オルティがどんな状態だろうが、彼らがオルティを見捨てる事などない。しかしその感傷をこそ、オルティは嫌ったのだと分からぬでもない。
オルティの隠居と病のことは伏せるように、特に外には伏せろと、ロータスは強く指示されていた。それは、ライドウ一門やその他の敵対組織を抑えるためだ。四ツ葉の魔法使いはどこかで生き続けている。そのほうが、きっと彼らへの牽制になるから。最後まで何もかもを無駄にしない、合理性の塊のような生であった。
それでも時々、事務所には手紙が届いた。相変わらず、それぞれのことをよく見ている手紙。それは、窓辺にそっと置かれていく。そんな芸当ができる奴はひとりしかおらず、そして、オルティとともに姿を消していた。
きっと、その手紙も。見守るだけで充分だと言うオルティに、エヴァグリーンが書かせているのだろう。そんな筆致だった。
合理に徹しようとするオルティの頑なさを、竜の炎は確かに溶かしたのだ。それがロータスには少し悔しくもあり、嬉しくもあった。

「お前、さ。長生きしろよ」

オルティは都度、そう言った。エヴァグリーンは鼻で笑う。元々、主人に(じゅん)じるような殊勝さなど持ち合わせてはいない。
けれど、竜種の契約とは、相応に重い意味を持つ。単なる約束では済まない。当たり前のように自分の命を盾にするところを、オルティもまたエヴァグリーンの中に見出していた。
それはきっと、竜種が本能的に抱えている危うさなのだ。そして竜種は、そのことに無自覚に、ただ居場所を与えてくれる相手に懐く。……あのラドンでさえ、あの船を拠り所として離れなかったのだから。
だから、オルティは何度も口にした。長生きしろよ、と。それがエヴァグリーンの血肉となるまで、何度もそう言った。

東国料理の、スパイスと油の匂いがする。
小さな料理店の上。錆びた鉄階段の先にある、小さな部屋。
訪問看護師の彼女は、恐る恐る階段を登っていた。足を踏み出す度に階段が大きく軋むのだ。ゆっくりと、一歩一歩。重い鞄を抱えて登る。春先の強い風が階段を揺らすのも勘弁してほしい。
同じく鉄錆びたドアの前でブザーを鳴らすと、若く、愛想のない竜種に出迎えられる。彼は患者の付き人だ。親子のように歳が離れていたが、無論、親子ではない。患者は人類種である。

彼は羽化症(うかしょう)で、その終末期にあった。
体の至る所から、ささくれのように羽芽が吹き出し始めている。この段階の羽化症には、もはや何の治療の手立てもない。ただ痛み止めだけが処方される。全てを手放して、穏やかに眠れるように。
起き上がることもままならなくなりつつある彼の身体を清拭(せいしき)し、姿勢を変える。彼の左肩には、新しい弾傷があった。隠れ住むようなこの部屋といい、カタギの人間ではないのだろう。それでも患者は患者だ。体調が良さそうな日は、窓辺に運んで外を見せて、雑談をした。料理店から上がってくる独特の匂いはともかく、春風は心地よく、彼の白金色の髪を揺らしていた。下弦を花蜜に浸したような、湖水のような色をしたバイカラーの瞳が、遠い青空に目を細める。彼の体から外れた羽が、ふわりと風に舞って行った。

「コーヒー、淹れたけど。あんたも飲むか」

竜種の青年がそう呼びかけてくる。ありがたく頂戴する。
それは患者が口に含むためだけに淹れられるもので、彼の分はミルクと砂糖で、甘く味付けがされていた。刺激物のうえに不健康なほどの糖分だったが、そんな事は今の彼の病状に何の意味も与えない。それに、そのほとんどは患者に飲み干されることもない。いつも最後には、竜種の青年が喉へ流し込んで片付けていた。

「煙草が吸いたい」

時折、患者はそうねだる。竜種の青年は肩をすくめる。看護師も止めはしない。青年がガラムに火をつけて、枕元で吸うだけだ。ぱちぱちと火花の散る音が耳に心地よい。甘い香りの煙が染み込んだら、また、患者は緩やかに眼を閉じる——。

——夜闇にぼうっと照る、自動販売機の前で。
エヴァグリーンは舌打ちした。持ち合わせの小銭が足りなかった。仕方なく、コーヒー缶のボタンを押した。もうじきに春も過ぎるのに、暖かいコーヒーしか置いていない奴があるか。

仕事の待ち合わせには充分間に合うが、ロータスは早めに来いと言っていた気がした。急いでやるか、とコーヒーの缶を傾ける。それは竜種にとっては何のことない温度だ。一気に飲み干した。

相変わらず、泥水のような味がする。

けれど、それは少しだけ甘く、そして、エヴァグリーンの胸の中で灯る。それはオルティの眼差しのように。あの、星明かりの瞳のように。
いつまでも暖かく、エヴァグリーンを導き続ける光のように。

空になった缶を屑籠に放る。
エヴァグリーンはバイクに跨ると、星明かりの夜の中へと走り出した。

(完結)

#12 ファイト・ファイア・ウィズ・ポラリス

立て続けに銃声が響く。その度にラドンはぐにゃりと形を変えて、肉片と鮮血を飛び散らせた。磁気ロックの扉の向こう。息を荒げたオルティが、片腕で短銃を構えたまま飛び込んでくる。

「てめッ……さては、盗聴してたな……。」
「当たり前だ、バカ!」

そしてオルティは、倒れたラドンを睨みつける。ラドンはあちこちに穴を開けたまま、暴れることもなく、虚な目でオルティを見上げていた。

「……憶えちゃいないだろうな、20年も昔に暴行した女の子のことなんか。これはあの子の意志だ!! お前が踏み(にじ)ったものの報いだ!!」

叩きつけるように、擦り切れた IDカードをラドンに投げつけ。オルティは再び彼に銃口を向けた。(はげ)しい憎悪と嫌悪、怒りを込めて引鉄(トリガー)を引く。

「……精々、地獄でその裁きを受けろ……!」

ラドンの脳天を弾丸で貫き、オルティは即座にエヴァグリーンの状況を探った。血が巡らずに詰まっているとわかるや否や、ジャケットを脱がせる。そして、その固まった右腕をぐっと押さえつけ、二の腕に銃口を押し当てる。

「悪い。……これしか思いつかない。」

エヴァグリーンは、黙って頷いた。
そして、銃声がもう一発響く。
腕が千切れ飛び、鮮血が吹き出す。それが、ふたりを濁々(だくだく)と濡らした。エヴァグリーンは急激に循環する血流に大きく息を吸った。オルティは安堵したように、あるいは体力の限界か、力が抜けたように座り込んだ。
——その背後で、脳天を撃たれたはずの男がゆらりと立ち上がっている。

ラドンがその鋭い爪を、オルティに向けて振るう瞬間。体の自由を取り戻したエヴァグリーンは、考える間もなく、ラドンに飛びかかっていた。
そして確信する。こいつは竜種だ。耳を短く切り、牙を削り、人に似せていたのだ。脳天を撃ち抜かれて死ぬはずがない。竜種だからだ。血の魔法がその生命を守っている。心核を貫くしかない。エヴァグリーンは弾け飛んだ右腕の代わりに、その牙を奮って男の喉笛に喰らい付いた。
いつか、首だけになってもお前を殺すと、オルティに告げたことがあった気がした。

「おまえが、おれに敵うと、本気で思っているのか!!」

ラドンは喉を裂かれ、ごぼごぼと血糊を吐きながら。曇った声で嘲笑した。事実、ラドンの身体は1ミリたりとも動いていない。エヴァグリーンでは体格が足りない。ましてや片腕を奪われ、力の源である血も、大量に失っている今。エヴァグリーンを闘わせているのは、ただその闘志だけだった。
単純な竜種同士の比べ合いならば。力が強い方が勝つのが道理だ。それでも両脚を精一杯踏み締め、懸命にラドンを食い止める。今のエヴァグリーンはひとりではない。オルティなら、必ずなんとかする。

——オルティの腕が、背後からエヴァグリーンを抱き留めた。ほとんど上がらない左腕で、柔らかく、力強く。あとひと押しを担うかのように。銃を握る左手・・に、エヴァグリーンは自身の左手を添えた。
そして、エヴァグリーンは全力を込めて、ラドンの喉を噛み砕く。銃が咆哮する。体に大穴を開けて、ラドンは蹌踉(よろ)めいた。
しかし、それは心核を外していた。
歪に曲がり、あり得ない方へ向いた頭で、ラドンはニタリと笑う。相手は片腕のない竜種と、死に体の人類種が一匹ずつ。これ以上何ができる。そう言わんばかりに、ゆらりと幽鬼の如く立つ。さぞ絶望しているであろう獲物の顔を一目見ようと、見開いた目に映ったのは。

勝利を確信し、中指を立てて笑む、エヴァグリーンの姿だった。

オルティの右手には、手投げ弾のピンだけが、ぬらりと血の色に光っている。ラドンが彼らと離れる直前、その黄金の果実は。銃弾が抉ったラドンの腹へと、置き去りにされたのだ。

手投げ弾の爆発から、オルティを庇う。当たり前のように、そうしていた。瓦礫と(ほこり)が降り注いだ。それらは、全てエヴァグリーンが受け止めた。鉄の床には大穴が空いた。
やっと、静かになった船内で。オルティは、ようやく人心地ついたように、呟く。

「……実感が、湧かない」
「俺もだ」
「……終わってくれると思ったんだ。20年……タリーの、妹の仇……でも、はは……何も変わりやしないじゃないか……!」

オルティは、泣き笑いの表情で、エヴァグリーンの腕の中にいた。
俺もだ、と繰り返す。何も終わらず、何も変わらなかった。ただ何の実感も、感慨もない。ただ竜種をひとり殺した。それだけで。
それでも、腕の中のオルティは、暖かく、生きていたから。エヴァグリーンは、深く息を吐いて。ジャケットを掴んで立ち上がる。それは散弾に裂かれ、血と埃で汚れてしまっていた。けれど、せっかくの贈り物を置いて行きたくなかった。
右腕はまだ再生が間に合っていない。片腕で、ふらついているオルティを支えて、ゆっくりと歩き出す。怪我した腕で銃を撃つなんて、無茶しやがって。けれど、その無茶のおかげで助かった。

……静かすぎる、と思った。
船内で爆発が起こったんだ。沈むほどの衝撃でなかったとはいえ、警報すら鳴らないうえに、誰も駆けつけてこない。
その答えは、デッキまで上がって明らかになった。

大扉を押し開けたところで、彼は待っていた。
エルドラド・ドゥ・ナスタヤーシャ・ヴィア・アマデウス3世。彼は優雅に微笑みながら、オルティを見つめた。

「ずいぶん長いお手洗いだったね、仔猫ちゃん?」

そして、パーティ客たちはいつの間にか銃器で武装して。エヴァグリーンとオルティに、その銃口を向けている。こいつら、全員グルだったのか。

「仔猫ちゃん、もうネズミちゃんとの追いかけっこは終わったかな。気が済んだ? 楽しかった? 俺が何も知らないって、本当にそう思ってた?」
「ッ、てめぇ…!」

食ってかかろうとするエヴァグリーンを、無数の銃口が制する。そして、誰よりもオルティ自身が。

「いい。エヴァグリーン。」

そして、エヴァグリーンの手を離れ。
オルティはふらふらと、エルドラドの方へと歩き出す。

「3世。……この艦の資金提供者は、貴方だった。そうですね」
「その通り。もうずいぶん長い間、懇意にしてる。その彼らが、竜種を連れた情報屋に探られてるって泣きついてきた。」

緊迫した空気の中、エルドラドはあくまで楽しげに語る。

「俺にとっては小遣い程度の投資だけど。玩具(オモチャ)箱を漁られるのは好きじゃない。それで詳しく調べさせた。ライドウって言うんだっけ? あのコたちもお金でよく動いてくれたよね。」

返り血と煤で汚れたオルティを、エルドラドはそっと抱き寄せる。その汚れも(いと)わずに。頬の泥を指で拭い、お気に入りの玩具を見つめるように、きらきらと愛おしげな目を向ける。

「どうして仔猫ちゃんがここまで頑張るのか、不思議だったんだよ。仇だったんだ。ありがちな、つまんない理由。でももう、全部終わったでしょ?」

すっと、エルドラドの青い目が冴える。形の良い唇が、弑逆(しいぎゃく)的な、嫌な笑みを作った。

「結局全部、俺の思い通りになった。……そっちのトカゲは死んでくれなかったけどさ……。もう、俺のモノになる時間だ。」

オルティは、答えない。バイカラーの瞳が、今にも泣き出しそうに揺れる。
有無を言わせない状況だった。オルティが何を答えようと、エルドラドはエヴァグリーンを殺すだろう。オルティにできる懇願はひとつだ。その手を取る代わりにどうか、エヴァグリーンを見逃してくれ、と。

けれど。
エヴァグリーンは察している。オルティが今、何を迫られ、何を答えようと——言わされようとしているのか。オルティが守ろうとした全てを、エルドラドは踏み(にじ)ろうとしていた。
それは、不快だと思った。嫌だと、思ってしまった。
オルティは望んでいるはずだ。どうか逃げて欲しいと。(はかり)にかけているはずだ。どうせ短い自分の命を。それが、エヴァグリーンには何よりも許せなかった。だって。

「オルティ!!」

エヴァグリーンは叫ぶ。全力でその名を呼ぶ。全員がそちらを向く。そして、空白ができる。

「——来い! 俺にはお前が必要だ!!」

その手を掴んで、駆け出す。もう、どこへ逃げれば良いかわからない。ただ、駆け出す。しっかりと、その腕の中にオルティを抱く。
オルティは少しだけ驚いた顔をして、バカ、と呟いた。

「エヴァグリーン……どうする気だ」

鉛の雨をかいくぐり、鉄の階段を駆け降りる。オルティに当たることを恐れたのか、撃方(うちかた)はエルドラドが途中で止めさせた。何十もの足音に追い立てられながら、エヴァグリーンは自分がかつて、この船を離れた時のことを思い出していた。

「俺が捨てられた時……船の下の方から、小さな穴みたいのに入れられたんだ。だから、どっかに出口があるはずだ」

オルティは少し考えて、はっとしたように顔を上げる。

「魚雷の発射口!」

そして、何本かの鉄の階段を駆け降りる最中、あれだ、とオルティが指し示したのは、薬莢に尾鰭がついたような姿の、馬鹿でかい弾丸だ。天井に開いた大穴のせいか、それは棚から外れて転がっていた。オルティはそれを見て息を飲んだ。

「旧式のインパクトタイプだ……誘爆してたら、危うくラドンと心中だったぞ……。」

そして、その瓦礫の奥のほうに、埋もれたハッチが見えた。このままでは使えそうもない。歯噛みするエヴァグリーンとオルティの頭上から、嫌味な声が降ってくる。

「仔猫ちゃん、どうして逃げるかなぁ?」

かつかつと、鉄の床に足音を響かせながら。冷たい銃口を幾重にも重ねて、エルドラドは高みから、ふたりを見下ろしていた。
オルティは心底からの軽蔑を、その男に向けた。それはエルドラドを喜ばせるだけだと知っていたが、言わずにはいられなかったのだ。

「……貴方が大嫌いだからです、3世」

エルドラドは目を細めて、オルティを見た。

「そう。でも、俺は愛してるよ。愛してる、初めて会った時からずっとだ。これからもずっとずっとずっと愛してあげるよ。愛してるよ、オルティ。本当に、心から!」

オルティは、笑っていた。何か、糸が切れたような笑いだった。けれど、その目はエルドラドの腕に抱かれていた時とは違う、ひとつも何も諦めていない目をしていた。

「エヴァグリーン、」

オルティの呼びかけに応じて、エヴァグリーンは右腕の鮮血を固める。
血でできた剛腕が、転がった魚雷の鯨のように太い胴をぐっと掴んだ。

「——やっちまえ!」

そして、全力で投擲する。それは唸りを上げ、船倉をかっ飛んだ。
厚い艦の壁を突き破り、魚雷は船外で爆音を(とどろ)かせた。艦は大きく(かし)ぎ、海水が勢いよく流れ込む。濁流が何もかもを押し流す。エルドラドの黄金色のジャケットが、流れの中に浮かんで消えた。

「ははッ! 見たかよ!! 最っっ高!!」

オルティは爽快な、はしゃぐような歓声をあげた。

(続く)

#11 ミストレス・オンザ・クリスマス・エッジ

聖誕祭の前日。
見事に仕立てられたネイビーのスリーピースが、商会に届けられた。時折テーラーに通っては、仮縫いの状態も確認していたものの、完成品は明らかに別物だった。艶やかな高級ウール地もさながら、隠しプリーツ、滑りの良い裏地など、身体の動きを制限しない工夫がこれでもかと盛り込まれている。どうりで顔を合わせる度に、老職人は目がギラギラしていたわけだ。よほど骨を折ってくれたに違いない。
エヴァグリーンはファッションショーを強要され、オルティはそれを眺めて満足そうに笑う。

「これで、準備は整ったな」
「準備?」
「……イーデンは明日の聖誕祭に、近くの港に寄港する。船上パーティが開かれる。金持ちを集めた、例の悪趣味なやつだ」

エヴァグリーンの瞳が、すっと鋭さを帯びた。

「ドレスコードがあるらしくてな。それで、仕立てを頼んだ。似合ってるじゃないか、なかなか」
「……おい待て、どうやって潜り込む気なんだ」

金持ちのパーティなんか、警備も厳重だろうに。(いぶか)しがるエヴァグリーンに、オルティは不敵な笑みを見せる。

「正面から、招待客として行くんだ。」

オルティはエヴァグリーンのネクタイを丁寧に締めて、そこに小さなネクタイピンをあしらった。イエローゴールドのクリップに一粒、無色透明の石があしらわれていた。

「スーツは必要経費みたいなものだからな。聖誕祭の贈り物はこっち。俺からのほんの気持ちだ。」

小さな石粒が、きらりと室内灯を反射する。その輝きが目に眩しい。オルティらしい洒落た小物のチョイスだが、自分ばかり贈り物を貰うのが、エヴァグリーンは少しだけ不満だった。

「明日……どうせあいつらには内緒なんだろ」

あいつら、とエヴァグリーンが言うのは。商会の面々だ。今は応接室の向こうで、オルティからの聖誕祭のプレゼントに沸いている。エヴァグリーンは声を(ひそ)めた。

「……何でそこまで、お前はひとりで全部やろうとするんだ」
「プライベートだからさ。イーデンは、商会とは関係ない。あくまで俺とお前の個人的な契約だ。だから、あいつらには頼れないだろ。」

エヴァグリーンは眉根を寄せた。
彼らはそんな風に思っていない。オルティのことを、仕事だけの相手だとは思っていない。それがもう分かっているからだ。きっと、助けてくれと一言、声をかけるだけで。彼らはオルティのために命を張ると知っている。
だから、話せない。頼れない。彼らの事を想うからこそ。彼らの自由を願うからこそ、オルティは。

「本当に、大事なんだな。あいつらのこと」
「ああ。俺の宝物だ。……お前もそのひとつなんだよ。」

そう言って照れ臭そうに、オルティは煙草を咥えた。

聖誕祭、当日の夕暮れ時。早い日の入りである。
オルティはいつものスリーピースに、ほんの少しだけめかし込んだ、カフスや小物をあしらっている。アイボリーのナポレオンコートに、同じアイボリーのフェドラ。それにいつものサングラスの出立ちで、港へ降り立つ。
エヴァグリーンは仕立てられたばかりのネイビーのスーツでいた。イエローゴールドのネクタイピンが、その胸元で輝いていた。

そして。

「さあ、行こうか仔猫ちゃん!」

——エルドラド・ドゥ・ナスタヤーシャ・ヴィア・アマデウス3世は、ド派手な金色のジャケット姿でそこに立つ。

「まさか仔猫ちゃんからお誘いがあるとは思わなくてさあ、奮発しちゃったよ。なんなら仔猫ちゃんの分の服も仕立ててあげたのに。でもその服もシンプルで似合うね♡」
「ありがとうございます、3世」
「今日ぐらいエルディって呼んでよ、もう」

エヴァグリーンは、よくオルティが引き()りもせずに笑えている物だと感心していた。(たお)やかな笑みを崩さずにいる。
エルドラドも遠慮なくオルティの腰を抱こうとする。オルティはその都度うまく躱していた。並んでいると確かに、彼らは系統の違う美男子同士で、似合いに見えなくもないのだが。

滞りなく受付を済ませて、3人は呆気なく船に乗り込んだ。船上には既に、眩しいほどに着飾った金持ちが並んでいる。それぞれに酒を酌み交わして、談笑に高じていた。上品なアレンジを加えられたクリスマスソングは、バンドの生演奏だ。

「それにしてもさあ、そんな趣味だっけ、仔猫ちゃんて。けっこうグロい出品とかあるよ? 例えばほら、和彫っていうの? 東の方の国の彫物。あれが全身入ってる人皮とか。」

エルドラドは事もなげに、大声でそんな話をする。けれど、その場に集った誰も気に留めない。そういう趣味の集まりだからだ。むしろ、彼らはエルディを見るとにこやかに微笑んでいる。顔が利く業界人への態度だ。エヴァグリーンは彼らを、腹の中でエルドラドと同じカテゴリに入れた。つまり、嫌な奴カテゴリだ。
オルティは笑みを崩さず、あくまで客と商人としてエルドラドに接する。

「オークションについては、別のクライアントから頼まれたんですよ。それで、あなたなら顔が利くかと……ご不満ですか?」
「まあね! 利用されてるだけってのは、俄然(がぜん)燃えるよ。」

……オルティは、この男のことを嫌っている。だからこそ、この男の扱いはよく分かっている。(なび)いてはいけない。(おもね)るのもいけない。
3世は、自分に冷たい相手が好きなのだ。
カネを積めば誰でも振り向かせられるエルドラドにとっては、自分に目が(くら)む人間よりも、軽くあしらう相手の方がたまらない。オルティには理解できないことだが。オルティがエルドラドを嫌えば嫌うほど、エルドラドがオルティを欲しがるのは、そういうわけでもあるのだ。

「オークションは港を出て20時ごろだそうだよ。どう? それまでふたりで熱い夜を過ごすっていうのは……」
「はは、ご冗談を。オークションまでに全部済ませられるわけないでしょう、そんなの」
「あちゃー、それもそうか!」

エルドラドにとっては、極上の餌。オルティは自分を釣り餌に、恐ろしい(サメ)を釣り上げようとしている。ちらと目が合った時に、オルティはエヴァグリーンに目配せをした。早く行け、と目で訴える。

船に乗り込む前に、ふたりは作戦を決めていた。
エルドラドは非常に傍若無人な金持ちである。大抵の相手は金で黙らせることができるエルドラドに、そうそう喧嘩を売る者はない。彼の「所有物」に手を出そう、などというのは()れ者だ。護衛がいようがいまいが、オルティがエルドラドの同伴者として振る舞っていれば。まず近づく者はない。

「それでも襲われたら、どうするんだ」
「その時は、3世を盾にする。」

珍しく心配するエヴァグリーンに、オルティは笑って、物騒な答えを口にした。

イーデンは大戦期に徴用された、豪華客船の成れの果てだ。そこまでは、オルティが調べをつけていた。かつての船の設計図が手に入ったのだ。おそらく船は艤装(ぎそう)を繰り返し、複雑に層が折り重なっているだろう。最も上の層は、オークションなどのパーティが行われる階層。そして、中間層にはおそらく、客たちに提供する品物を溜め込んでいるはずだ。さらに下にはコントロール層があり、そのもっと下が機構の層である。

設計図を広げながら、オルティは色々と説明したが、エヴァグリーンの結論は簡単だった。

「なんだ、じゃあ、とりあえず下に降りてきゃいいんじゃねーの?」
「それはそうなんだが……少し探して欲しいものがある。例のIDカード、覚えてるだろ。」

オルティの妹が、彼女を傷つけた者から奪い取ったIDカード。そこにはひとりの男の写真と、識別を示す簡単なプロフィールが載っている。
その男の名は、ラドンと言った。不気味に薄ら笑む顔写真は掠れてしまっていた。しかし、エヴァグリーンは確かにその男を知っている。彼をこの船から海へと放り出したのは、その男に相違なかったのだ。

「こいつが今も船に乗ってるとは限らない。IDを失くすような奴だ、更迭(こうてつ)や処分を食らってないとも限らん。だから、確証を得たい。乗船者名簿でもなんでも良い。」

エヴァグリーンは、強く頷いた。

艦内の構造は、ほとんどオルティの予想した通りだった。オークション会場となる華やかなエリアを一歩飛び出せば、鉄板が剥き出しの内部だ。それは無骨な冷たさで侵入者を拒もうとしていた。
エヴァグリーンは、まずとにかく下を目指した。乗船者名簿に限らず、乗組員についての何らかの情報が得られるとすれば、それはコントロール層だ。要所要所は見張りが立ち塞いでいたが、エヴァグリーンは声ひとつ上げさせずに、彼らを昏倒させた。武装しているが、動きは素人だ。銃口を向けてはくるが、相手は撃つのを一瞬躊躇(ためら)う。当然だろう。狭い船内でむやみに撃てば、どこに当たるか分かったものではない。その一瞬があればエヴァグリーンには十分だ。
武装の質に比べ、この手応えの無さ。街中で襲ってきた連中によく似ている。はっきり言って相手にならない。ただ手際よく相手を伸しては、銃口をぐんにゃり曲げておく。使い物にならなくしておけば、後で拾われて使われることもないだろう。そういう映画を見た。刑事が拾った武器でどんどん強くなっていくのだ。あれも聖誕祭の日の話だったな、なんて思いながら。

迷路のような船内を軽やかに駆ける、エヴァグリーンの足がふと止まった。相も変わらず無骨で飾り気のない、ハッチのような扉。そこに、『保管庫』と記されている。そっと扉を押し開けようとすれば、がちりと鍵の鳴る音がした。扉の脇に古めかしい、磁気テープ式のカードリーダーが取り付けられている。エヴァグリーンは信じられないという顔でそれを見る。
船に乗り込む少し前。オルティは真っ白な、何も刻印されていない磁気カードを取り出すと、エヴァグリーンに手渡した。

「なんだ、これ?」
「ラドンのIDから吸い出した磁気情報を、そのカードに入れてある。もし、磁気カードのリーダーがあったら試してみてくれ」

エヴァグリーンは難しい顔をした。磁気カードのリーダー、というものを見たことがなかったのである。正直にそう言うと、オルティはぺちんと額を叩いた。ジェネレーションギャップ。
とにかく目の前の小さな箱は、オルティが説明した通りの骨董的な代物だ。本当に20年、稼働し続けていたのだ。
オルティ曰く。イーデンはその身を隠すために、必要がないときには洋上で佇み、寄港の頻度を減らしている。大掛かりな改修工事や艤装は時間がかかる。下手をすれば、外装は金持ち向けに飾り立てていても、内側は骨董品のようなシステムを使い回しているかもしれない。

「中身は20年前に吸い出した、本物の鍵だ。オープン・セサミになれば良いが、まあ、期待はするな。」

そっと白いカードを、リーダーに通す。

——ピッ

小さな電子音が鳴る。一拍置いて、ガチャリと錠が回る。それはオルティの執念が、本物の魔法になった瞬間だった。

そうしてエヴァグリーンは、見覚えのある空間に辿り着いた。アーティファクトの保管庫。かつての故郷である。まるで変わっていないと感じるのは錯覚ではなく、本当にシステムや管理体制が20年間もの間、一切更新されていないのだろう。
荷が、所狭しと棚に並んでいた。積荷としての番号をつけられ、これから値をつけられるもの。その奥で動き回る白衣の人間。積荷の検品や手入れをしている者だろう。つまりは雇われではなく、船側の人間だ。エヴァグリーンはそれを羽交締めにして、蟀谷(こめかみ)に指を突きつける。

「おい、脳味噌ぶち撒けたくなきゃ言うこと聞け。——この船の乗員名簿を寄越せ。」

哀れな研究員は命乞いをしながら、手近なコンピュータを示した。お前がやるんだよ、と続けて脅し、ファイルを探させる。オルティからは20年分もあれば良い、と言われたが、そんな古いものはないと彼は泣きそうな声を出した。

「んなの見つかる範囲でいいっての! ぐちゃぐちゃ言ってねえで、さっさと……」

そう叫んだ刹那、竜の耳はかちりと小さな、しかし聞き慣れた引き金を引く音を聞いた。咄嗟(とっさ)に掴んでいた研究員をその方向へ向ける。散弾がはじける。白衣は一瞬で赤黒く削り取られ、無惨に崩れ落ちた。飛び散った鉛のかけらは、エヴァグリーンの腕にも食い込んだ。痛みはあるが、この程度大した事はない。即座に再生可能だ、と唇を噛んだエヴァグリーンは、しかしその場から動けなかった。
負傷した右腕が異常に重い。まるで鉄の塊でも(まと)い付いているかのように。

「ッ、なっ————!?」

それを知覚したのと同時に、引き絞られるような心核(しんかく)の痛みが襲う。再生できていない。血が流れない。それで理解した。これは、金属ほども重く凝縮している竜種の血を『固める』ものだ!
心核は激しく打った。負傷した部分に血を届けようと躍起(やっき)になる。それなのに、血が巡らない。結果、心核に重い負担がかかり、この痛みを与えているのだった。
心核が押し潰される苦痛に、声もなく(うずくま)ったエヴァグリーンを、その男は無機質な目で見下ろした。いまさら竜種のひとりふたり、殺したところで何とも思わないという視線。
……その目に覚えがあった。波間に攫われる前の、幼いエヴァグリーンは。その男を確かに見たのだ。

「まさか、生きているとは。そのうえ、戻ってくるとは。」

ラドンは多少、驚嘆したようにそう口にした。

「お前たちが我々を探っているのは分かっていた。乗り込んでくるというなら、好都合だと思っていたが。それが20年も前に廃棄したゴミとはな。」

記憶の中よりもいくらか歳を重ねた顔で、ラドンは邪魔くさそうに、研究員だったものを蹴り飛ばす。そして爪先で、エヴァグリーンを仰向けに転がした。
睨み付けるエヴァグリーンを淡々と見下ろして、ラドンはショットガンを突きつける。それは明確に、エヴァグリーンの心核に向けられていた。

「……俺もお前が、ッ……20年もこんなボロ船にしがみついてるとは、思わなかったぜ……!!」

やっと。
やっと手が届きそうだったのに。
エヴァグリーンは激しい苦痛の中で喘ぎ、息を詰まらせ、(もが)くこともできずにいる。それでも絞り出すように喉を動かし、ラドンを睨む。まだ足掻こうとする爪が鉄の床を叩く。火花が散る。薄紙のように鉄板を裂く。
このまま終わりたくない。終われない。必死に頭を巡らせる。何か。なにか。まだ、何かきっと。何も。畜生。畜生!
——俺が諦めたら、オルティはどうなるんだ。

「……っさ、最後だ、ひとつ……聞かせろッ……」

いよいよ、痛みの感覚すら薄れ始める。エヴァグリーンは、ラドンを見上げた。

「どうして俺を…ッ……捨てたんだ……!!」

ラドンは溜息を吐いた。くだらない、ひどくつまらない質問だと感じたからだ。ラドンはショットガンの先端を、エヴァグリーンの胸へぐっと押し当てた。オルティが贈ったネクタイピンが、銃の先端に押される。それはまだ、光を失っていない。だというのにこの会話は、せめてもの時間稼ぎにもなりやしない。
ラドンはエヴァグリーンを見下したまま、吐き捨てるように答えた。

「……ここは俺だけの楽園(イーデン)だからだ。」

指が、ゆっくりとトリガーへ向けられていく。
時間が過ぎるのをひどく遅く感じた。ぎゅっと目を(つむ)って、その時を待つ最中(さなか)——

「エヴァグリーン!!」

凛とした、呼び声が聞こえた。

きっとお前は知らないだろう。
俺をそう呼んだのは、お前が初めてだった。

初めてだったんだ。

(続く)

#10 ローズ・ハズ・ボムトラック・ソーン

聖誕祭が、日に日に近づいている。
建物は金や銀や、赤や緑のモールを巻きつけられて、街はすっかり賑やかに飾られた。あちこちでモミの木が売りに出されて、緑の香りに(いぶ)される。時には雪が静かに街に降りて、路面をシャーベットに変えていく。町中が今か今かと聖誕祭を待ち侘びている。その最中(さなか)のことである。

エヴァグリーンは大量の荷物を持たされて、オルティの後ろを付いて歩いていた。紙袋を両手に十()はぶら下げている。オルティは上機嫌だ。紙袋の中身は、すべて社員たちへの聖誕祭の贈り物だった。
オルティの頭上には、彼らから贈られたフェドラが乗っかっている。これだけの物を貰ったのだからと、オルティは俄然(がぜん)気合を入れて贈り物を選んでいた。

「こんなに買い込んでどーすんだよ」
「聖誕祭なんだから、プレゼントはあって然るべきだろ。大人でもな。」
「そーいうモンなのか」
「そーいうモンだ。ほら、次行くぞ」

今日のエヴァグリーンは完全に荷物持ちだ。
オルティの左肩は少しずつ良くなってきてはいるものの、まだ動かすだけでも相当痛むらしい。かろうじて肘を曲げて腕を持ち上げることはできる。
それでも車の運転はかなり無茶だと、主治医を務めるナダレは言った。しかしオルティは、どうしても愛車に乗りたがった。尋常ではない金と熱意をかけられたトリノ・バードは、久しぶりの主人との外出を、こころなしか喜んでいるようにも見える。

車に荷物を積み込み、地下駐車場を這い出ると、いつの間にか外は雪模様だ。ちらちらと小さな雪の粒が舞う。オルティは白い空を見上げて、白い息を吐き出して笑った。やっぱりこいつ、雪見てはしゃぐタイプじゃないか。

エヴァグリーンは、これほど楽しそうなオルティを久しぶりに見た。

そういえば、自分を連れて服を買いに出た時も、こんな風だった。まだ街に熱が籠る残暑の、西日が赤く照らす風景を思い出す。オルティと並んで歩いたことを。あの日も山のように紙袋を持たされた。それは随分と遠い思い出になったような、それでいて鮮明なような気がする。

オルティが足を止めたのは、いかにも高級そうなテーラーだった。老舗(しにせ)らしい、重く古めかしい造りの店構えだ。ガラス戸を鈍い金色の真鍮(ブラス)で装飾しているのは、11区のカジノの外観に通じるものがある。クラシックでありながら、ちっとも古ぼけてはいない洗練された芸術。それが、オルティの愛する世界観なのだろう。
ガラス戸を(くぐ)ると、顔馴染みらしい老いた店主が、オルティに微笑みかけた。

「今日は、彼のを作ってもらいたくて」

オルティはエヴァグリーンを指す。

「……俺の?」
「ちょっと要り用なんだ。」

エヴァグリーンは不審そうに眉を吊り上げた。オルティはそれにウインクで応える。老職人は頷くと、ふたりを奥のプライベートなショールームへと案内する。

「長いことこの仕事をしていますが……竜種のお客様は初めてですな。まるで(ヒョウ)だ、良く締まった美しい筋肉をしておられる」

老職人は、手際良くエヴァグリーンの採寸を進めていく。オルティは革張りのソファに深くかけたまま、優雅にそれを眺めていた。エヴァグリーンは落ち着かない様子で、きょろきょろと部屋中を見渡す。ウールやレザーの生地見本(バンチブック)が、壁の棚に所狭しと並んでいる。それをじっと眺めていると、老人に頭の位置を戻されるのだ。

「なるべく動きやすく、軽く丈夫にしてやってほしい」
「それでしたら、こちらの生地で……」
「なるほど、色は……」

布の生地と色でオルティはかなり長いこと悩んでいたが、最後には店主の後押しもあり、ネイビーに決めた。
エヴァグリーンは正直、あの時も今も。何でも変わらない、布は布だと思っている。けれど、オルティがそれを自分のために選んでくれるのは、気分がいい。

「貴方は、少し痩せられましたな。新しくお仕立てしましょうか」

老職人の申し出に、オルティは首を横に振る。これが気に入ってる、というのは嘘だ。オルティにはもう、その仕上がりを待つ時間も、肌に馴染ませる時間もなかった。
老職人は目を細める。本来なら少なくとも六週間かけて作り上げる、最高級のスリーピースだ。オルティはそれをこの四週間に満たない、聖誕祭までの時間で仕上げてほしいと言う。そして、自身の服の仕立ては不要だと。常ならぬ物を感じ取ったのだろう。深々と頷いた。

「かしこまりました。必要になる前に、少しお時間を取って、おいで下さい。少し生地をつまむ程度なら、すぐにお直しできますから。」

テーラーを出たころには、辺りは薄暗くなりかけていた。気の早いイルミネーションが点灯しはじめ、どこからともなくクリスマス・ソングが流れている。ホリデーシーズンは始まったばかりで、まだ人々が浮かれだすには尚早だ。けれど街ゆく人々は嬉しそうに、楽しそうに。イルミネーションを見上げて笑っている。

「少しだけ……歩かないか。」

オルティがぽつりと言う。
エヴァグリーンは、彼の後に続いて歩き出した。
あちこちで、巨大なモミの木が飾られている。(こずえ)にさまざまな形のオーナメントをぶら下げて、それがイルミネーションを反射してきらきらと光っている。まるで雪の結晶を纏ったように。

「……聖誕祭の日に、ぜんぶ、決着をつけよう。それまでは俺も、何がなんでも生きる。」

それまで、なんて、言ってほしくなかった。
エヴァグリーンは、たとえこの契約が終わったとしても。もう、オルティを手に掛ける気なんか無くなっている。代わりにどんな言葉をかければいいのか、エヴァグリーンには少しもぴんとこなかった。
それが顔に出ていたのか。振り返ったオルティは、エヴァグリーンの顔を見て笑った。

「なんだよ、難しそうな顔して……」

その顔が、途端に険しくなる。エヴァグリーンは咄嗟(とっさ)に脚を振り上げた。鈍い感触がして、それから金属音。ナイフがアスファルトを滑る音だ。

「なんだ、てめえ」

エヴァグリーンは蹴り飛ばした男を睨みつける。しかし、周囲で悲鳴のひとつも上がらない。こいつら、全員敵だ。エヴァグリーンはそう判断した。
——二度も三度も同じ手を食うか。即座にオルティに飛びつく。銃弾が背を掠めていく。そのままオルティを抱き抱え、エヴァグリーンは地面を蹴る。……腕の中のオルティは、重いのに、軽かった。

次々と飛びかかってくる暴漢たちを、脚だけでいなしながら。エヴァグリーンは駐車場へ飛び込んだ。運転席にオルティを放り込み、なお追い縋る相手を蹴り飛ばす。
さすがにそこまで来れば一般人(カタギ)の目にも触れて、悲鳴のひとつやふたつも上がった。しかし相手の諦めは悪く、銃弾がフロントガラスに突き刺さる。

「防弾ガラスにしといてもらって良かったなぁ!!」

エヴァグリーンは牙を剥き出して笑った。オルティはきっと、また愛車に傷が入ったことを気にしているだろう。続けて、エヴァグリーンも車に飛び込んだ。オルティは既にエンジンをかけていた。案の定苛ついた様子で、勢い、アクセルを底まで踏む。バックミラー越しに料金所へとコインを投げ込んで、トリノ・バードは全速力で、車止めのバーを突き破る。

「ライドウの所の連中には見えなかった。」

エヴァグリーンはそう言いながら、額を拭った。弾が掠めて、血が滲んでいた。
それにはオルティも同意見だった。オルティの狙撃に発端したこととはいえ、彼らの家族である狙撃手を捕らえて拷問にかけた。最終的には命を取らずに返したものの、二度と銃を握れない体にした。それは事実である。ライドウ一門は単なるイーデンの使い走りであったが、だからといって彼らとの軋轢だらけの関係が終了したわけではないのだ。それはきっと、これからもずっと続いていく。
しかし、ライドウのチンピラたちが報復に来たというならば。彼らは名乗りのひとつも上げるだろう。それに、オルティたちを仕留めるためだけに、街を貸切りにするような資金力も彼らにはない。
目出し帽で顔を隠した連中が、バイクでぞろぞろと追ってくる。市街地だというのに、それを気にするそぶりもなくマシンガンを撃ち放しながら。エヴァグリーンはリアウインド越しにそれを眺めていた。なぜだかワクワクした。
車は狭い路地を抜けようとしていた。片腕だというのに、オルティのハンドル捌きは大したものだった。建物の壁スレスレに何度も急ハンドルを切る。曲がりきれなかったバイクが何台もクラッシュした。

広い通りへと出たところで、売り物のモミの木を文字通り木っ端微塵に蹴散らしながら、そいつはやってきた。
軍警察の装甲車だ。戦車かと思う見た目のくせにすばしこい。小回りのきく全輪駆動で、エンジンを二基積んでいるのだ。それがけたたましいクラクションを鳴らしながら、四輪を軋ませ、猛った暴れ牛のように追ってくる。エヴァグリーンは口笛を鳴らした。オルティは苦笑いをして吐き捨てる。

「いよいよなりふり構わなくなってきたな……!」

白い弾丸と化した車は、法定速度を無視して突っ走っている。オルティの手は忙しなくシフトレバーとハンドルを行き来していた。このトリノ・バードがクラシックなのは、その見た目だけだ。V8エンジンは激しく燃え、レーシングカー並みに太いハイグリップタイヤをぶん回していた。ハンドルも指先ひとつで回せるほど軽やかなのに、オルティのステアリングの繊細な機微を、ひとつ漏らさずタイヤへ伝えている。

「ふん、こっちだってアクティブ・サスに替えてんだよ! こいつにいくら掛けてると思ってやがる!!」
「はは、めちゃくちゃ追いかけられてるぞ」

エヴァグリーンは爽快に笑う。いざとなったら車から飛び出して、自分が装甲車に突っ込む気でいた。どんな頑丈な車だか知らないが、どうせ運転手は人間だ。殺せば止まる。
オルティはスタンドに刺さった携帯端末を操作しようとしていた。自由にならない左腕でハンドルを押さえて。形の良い唇から、微かに苦痛の息が漏れた。エヴァグリーンは、オルティの手から携帯を奪い取る。オルティは一瞬、呆気に取られた顔をしたが、エヴァグリーンの意図を察して微笑んだ。

「かけてくれ」
「ロータスか?」
「いや。ダレンって奴だ」
「誰だそれ」
「いいから。ハンズフリーにしてくれよ」

数回のコールの後、電話は誰かに繋がった。繋がるなり、電話口の相手は大声で叫ぶ。

『これは緊急回線だって言っただろ!!』
「緊急だからかけてんだよ! ダレン、今日7区に装甲車、出してるか!?」
『7区? 出してない。オルティ……君いったい、何してるんだ?』

それを聞くと、オルティはにんまりと笑った。

「上等だ。後始末は頼む」
『おい! まさか、よせ、オルトヴィン——』

通話終了。エヴァグリーンは指示された通りにそうした。まさかとは思うが、今こいつ、軍警察の緊急回線にかけなかったか?

「ちょっとしたツテでな。旧い友達だ」

そしてオルティは、グローブボックスを開けた。そこには短銃が突っ込まれている。あの化け物装甲車相手にそれは無茶だろ、と鼻で笑おうとしたエヴァグリーンは。グローブボックスから取り出された『それ』を見て、言葉を飲み込んだ。何てモノ積んで走ってんだ。
トリノ・バードはいつの間にか、湾岸道路を疾走していた。

「掴まってろよ!」

急なドリフトターンで、甲高いスキール音が上がる。タイヤは白煙の悲鳴を上げながら、なんとか主人の指示に従っていた。大きく尻を振り反転したトリノ・バードの運転席で、オルティは手投げ弾のピンを咥え抜く。

「マジかお前おい、」
「ハンドル!」

エヴァグリーンは言われるがままにハンドルを取った。
オルティは走行中のドアを開けて、すれ違った装甲車の股下にそれを投げ込む。それから、再びの急加速。

「ちょっと早いが、クリスマスプレゼントだ」

背後で響く爆発音と、上がる黒煙。大横転する装甲車。エヴァグリーンは恐る恐る振り返って、見なかったことにした。それから、ハンドルを取り戻したオルティを見た。
……か弱い振りして、おっかない男。

すっかり夜になっていた。
トリノ・バードのエンジンは疲労困憊だったが、あのドロドロと低いアイドリング音を、まるで猫が喉を鳴らすように響かせていた。あちこち弾丸に切り裂かれ、(すす)けていたが、どこか誇らしげに見える。
車を高台に停めて、オルティは一度、湾岸道路のほうを見下ろした。赤いパトランプが方々から、次々に集まっていく。冷たい風に身をすくめて、すぐに窓を閉める。

「あいつらに感謝しなくちゃな。愛車にこんな晴れ舞台を用意してもらえるとは」

痛烈な皮肉も、どこか嬉しそうに聞こえる。
エヴァグリーンはオルティの煙草を咥えて、火を入れてやった。紫煙が喉に辛い。そうしろと言ったくせに、オルティは差し出された煙草を見て、眉を顰める。

「煙草噛むなよ。(しつけ)の悪い。」
「文句あんならてめえでやれ」

渋々、オルティはそれを咥え直した。

「……お前。オルトヴィンって言うのか。」

エヴァグリーンは、窓の外を眺めながら尋ねた。オレンジ色の街灯がスモークごしに、ゆるやかに流れていく。ぱちぱちと、ガラムは火花の音を立てている。

「隠してるつもりはないんだがな。今でもそう呼ぶのは、旧い付き合いの奴だけだ。」
「旧い付き合い、ねえ。お前にガキの頃とかあんのかよ。」
「あるに決まってるだろ」

微睡(まどろ)むように目を閉じて、エヴァグリーンは少しだけ笑った。想像がつかない。赤子として泣いていた時期が、この男にあるだなんて。

「……話せよ。聞いといてやる」
「話してくださいお願いしますって言え。俺の可愛い坊や時代は安くねえんだよ」

悪態をつきながら、オルティは、ぽつぽつと昔語りをした。どれもこれも、くだらない話ばかりだった。カーステレオは、ありきたりなクリスマスソングを流していた。エヴァグリーンは始終、満足げにそれらを聴いていた。

(続き)

#9 デビルズ・ダンス・ヘブン・アンド・ヘル

冷たい潮風が、雪と共に吹きつける。晩秋の港は、都会よりも随分と寒い。
積み上げられたコンテナの間は、まるでビルが建ち並ぶ、大通りのようになっている。ライドウ一門は、スプラウスから破門を食らった後、みじめな仕事に落ちぶれた。運搬中の電化製品を奪い、倉庫を襲い、街中で車を盗んではスクラップを剥がす。盗品でできた都市鉱山こそ彼らの労働場所であり、それを(さば)くのがこの港だ。あちこちのコンテナの影で、ニット帽とダウンの男たちが火を焚いて、きつい酒を片手に談笑している。彼らは皆、ライドウの配下である作業者、すなわちチンピラだ。
オルティはエヴァグリーンとロータスを伴い、そこを堂々と歩いていた。アイボリーのナポレオンコートが雪風に(ひるがえ)り、コートの飾り羽は孔雀(くじゃく)のように揺れる。
いかにも学もカネもなさそうなチンピラたちは、オルティを見留(みと)めると次々に、ぎょっとしたように固まった。

オルティが狙撃されてから3週間が経っていた。しかし、肩を貫く銃創がそう簡単に癒えるはずがない。だというのに、目の前のその、四ツ葉の魔法使いときたら! まるで凍った路面を意に介さず、軽やかな足取りでいるのだ!
まさか。奴は当面動けないはずじゃなかったか。あり得ない——。口々の囁きを聞き取り、オルティは微笑み、ロータスは苦い顔をして、エヴァグリーンは声の主を片っ端から睨む。

「おい、サダル。あんまりはしゃぐな……。」

ロータスは、前を歩くオルティに小さく耳打ちした。

「あはは、ダメだよ。今はぼくのこと、『オルティさん』、て呼ばなきゃじゃないの?」

オルティ——もとい、彼に化けた不死身のシェイプシフター、サダルメリクが小声で言い返す。
サダルメリクの変身は、外見は完璧に模倣できる。本物のオルティが、まるで怪我なんかしていないように、踊るようにやってきたと。ライドウの連中は恐怖していることだろう。
とはいえ、だ。

「オルティさんが! こんな所で! そんな浮かれてぴょこぴょこ歩いてるわきゃないだろ!」

ロータスが小声でツッコミを入れる。
外見は完璧に模倣できる。外見は。……中身に関しては、サダルの『なりきろう』という気分によるところが大きい。結果、雪の港で大はしゃぎのオルティが爆誕しているワケだ。ロータスは胃でも痛めていそうな顔で、当たり散らすように周囲のチンピラを睨んだ。
そのやりとりを眺めながら。案外、本物もこうな気もするが、とエヴァグリーンは首をかしげる。

彼らの正面には、積み上げたコンテナを足場にして、簡素なプレハブが建てられている。雑に溶接された階段を登ろうとすると、チンピラたちも(おもむろ)に前に出てきた。(いま)だ彼らはオルティに怪訝(けげん)な眼差しを向けてはいるものの、いくら何でも無条件に通す、というわけにはいかないらしい。ニットの下から、闖入者(ちんにゅうしゃ)たちをきつく睨め付ける。

「おい」

エヴァグリーンは、手近な男を捕まえる。そして、思い切りその男の(あご)に、頭突きを喰らわせた。哀れにも歯が砕け飛んだ。よろめき足を滑らせる男をぎゅっと掴んだまま、エヴァグリーンは牙を剥き出しにして、チンピラたちを見渡した。

「てめえら三ン下じゃ、話にならねえんだよ。邪魔だ。話の分かるヤツ出せ。」

すると、プレハブ小屋に突き刺さるように備え付けられているスピーカーが、ハウリングの唸りを発した。

『構いません。通しなさい。』

ざらついた音質の悪い放送だったが、それはまだ幼い、凛とした少女の声を響かせた。

外では室外機がスノーマシンの様に、降り積む雪を吹き散らかしているのに。プレハブの中は風がないだけで、寒さは外とさほど変わらない。ストーブの電熱線が真っ赤に熱を発していたが、冬に手向かうには小さすぎる代物だ。
小屋の中は真ん中で二部屋に仕切られている。奥がボスや幹部の執務室になっているのだろう。ガラス越しに部下に指示を飛ばすためか、室内に向けたスピーカーも設置されている。奥は暖房が効いているのか、ガラス面はところどころ曇り、結露していた。

「四ツ葉のおじ様。お久しぶりですわね。大怪我されたと伺いましたけれど、もうお加減はよろしいの?」

ライドウの頭、ライカ。
彼女はまだスクールに通うような年頃の娘だ。まるでスクールの制服のような愛らしい服装で、ガラスの向こうで大きな椅子に沈み込むように座って、鈴を転がすような声を響かせている。
彼女の隣には、むくつけき巨漢が立っていた。小山のような体格の、ライカとは親子ほども歳が離れた男だ。ライカの側近だろうか。おそらく外の連中程度なら、彼は赤子の手を(ひね)るように黙らせることができるだろう。エヴァグリーンは彼を注視した。……戦闘になれば、あれを押さえるのは自分だ。

「おかげさまでね。心配には及ばないよ。」

サダルメリクはいつの間にか、すっかりオルティになりきっていた。全てのギアがなめらかに噛み合ったかのように完璧だった。不気味の谷だった『オルティもどき』が、今は四ツ葉の王の威容を保ち立っている。その圧倒的な『変身』は、それと知らなければエヴァグリーンでも見抜けないだろう。サダルメリクはサングラスを外し、ライカに余裕そうな笑みを送ってみせた。瞳のバイカラーの輝きまで完全再現だ。

「これ以上、腹の探り合いは不要だろう。今日は快復のご挨拶に来たわけじゃないんでね。」

サダルメリクに促され、ロータスは、懐からタブレット端末を取り出した。そして、灯された画面をライカの方へと向ける。ライカは平静を保とうとしていたが、その画面を見た時には微かに身体を強張らせた。

「お嬢さん。この男のこと、ご存知ですよね?」

そこに映し出されたのは、あの時オルティを撃ち抜き、エヴァグリーンに制圧された狙撃手だった。3週間経ったとはいえ、簡単な添木だけを施された腕は、快癒とは程遠い状態だった。それに加え、エヴァグリーンが顎も叩き折ってしまっている。食べることもままならず、彼の頬はげっそりと削げ落ちていた。
ロータスはライカの反応を見て、にやりと笑った。彼女は身を固くしたが、何も画面に映った男の凄惨な有様に恐怖したからではない。あれは、身内がどれほど悲惨な状況でも『生きている』。それ自体を喜ぶ眼差しだ。だからこそ、揺さぶり甲斐がある。

「ご存知ですね」

もう一度、ロータスは念を押すように言った。
ライドウ一門は荒くれ者の集まりだ。そんな彼らが頭として、まだ若く、いっそ幼いライカを担ぎ上げているのには理由がある。彼女は先代の実の娘だ。一門のものは彼女が幼い頃から、己が娘のように彼女を可愛がってきた。先代への血の誓い、そして家族のように強固な絆が、彼女を神輿(みこし)に座らせている。彼女は導き手であり、アイドルだ。何の力も持ちはしない。しかし、周囲の男たちは彼女をこそ戴く。一門が紛れもなく、『家族』である証として。
それは、オルティの在り方と、似ているようで異なっていた。

「……知りません。知っていたから何だって言うの。」

それでもライカがそう言い返したのは、彼女なりの矜持(プライド)あってのことだろう。彼女は自分が飾り物であることを知っている。飾り物だからといって、逃れられない境遇であることも。ライカは椅子にかけたまま、ロータスを睨みつける。

「そんなくだらない見世物をしに……」
「メリーラム」

ロータスはライカの言葉を遮り、端末越しに呼びかけた。端末のカメラが動く。それはメリーラムの手持ちである。椅子に縛られて、ぐったりと項垂(うなだ)れている男にカメラが寄った。
エナメルの手袋に覆われた指が、そっと彼の壊れた腕を握る。ただそれだけの行為で、男は身を(よじ)って暴れようとする。歯の抜けた唇から、血膿が(よだれ)と共に滴る。それをカメラはじっと見つめる。
ライカは、ほとんど蒼白になっていた。

「お嬢さん。俺たちが、あんたに何をしに来たと思ってるんですか? 面白い手品でも見せてもらえると思いましたか?」
「……っ、」
「俺たちは、あんたを脅しに来たんだ。あんたが知らないって言う度に、彼の指を潰します」
「おじ様!!」

ライカはオルティに向かって、助けを求めるように声を張り上げた。が、サダルメリクはあくまでオルティらしく、肩をすくめて見せるだけだ。画面の向こうが激しく揺れる。ライカは目を背け、ぎゅっと(つむ)った。小さな肩が震えている。
不意に、ばん、とガラスが強く叩かれた。ライカの隣に控えていた巨漢が、憤怒の形相で睨んでいる。まさしく怒髪天を突こうという有様だった。みしみしと厚い強化ガラスが軋み、亀裂が広がる。
エヴァグリーンは低く構えた。ライカは半泣きで叫ぶ。

「だめ!やめて!トール!ナルカミが殺されてしまう——!!」

がしゃん、と砕けたガラスが注ぐ。まるで(いわお)のようなごつごつした肉の塊が突っ込んでくる。交錯の刹那、エヴァグリーンが前に出る。ふたりは犬のようにもつれ合い、転がった。
交渉を小屋の外で見守っていたのだろう。ライドウのチンピラたちが次々と小屋に(なだ)れ込んでくる。彼らの目に映るのは、(おび)えるライカの姿だけだ。各々、スクラップに使うバールや溶接トーチで武装している。ロータスも懐の短銃を抜いた。

「……どうしますか、オルティさん」

ロータスは小声で、インカムに向けてそう呟いた。

「仕方ないな……メリーラム、一旦止めだ。そいつ死なせるなよ。まだ使うから。」

インカム越しに指示を飛ばしながら、オルティはため息を吐いた。
相手方の護衛も護衛だ。ボスを守るのが仕事だろうに、自分が挑発に乗ってどうする。

「エヴァグリーン、お前はそいつを引きつけとけ。ロータス、あんまり雑魚と遊ぶなよ。サダル、まだしばらく『俺』でいろ。」

そして、蜂の巣を突いたように騒がしくなったインカムの音量を下げる。オルティは呆れたように、柔らかな椅子に沈み込む。

「どうかね、首尾は。上々、というようには見えないね。」

そっとグラスが差し出される。それは水を注いであった。オルティが仕事の最中であることを(おもんぱか)ってのことだ。それを差し出したのは、華麗なるカジノの王、シュワルツだ。愉快そうに微笑んでいる。

「キング。どうか、お構いなく。部屋を貸していただいただけでも、充分すぎるほどです……。」
「そっけない事を言うものじゃないよ。お前には、随分と怖い思いをさせてしまった。警備体制を見直したから、安心してくれたまえ」

カジノの入り口には、まるで空港のような金属探知機が設けられていた。そればかりではなく、黒服の人数も増やしているようだ。VIPラウンジから直接、ホテルの一室に入ったオルティは、それをちらとだけ見ていた。シュワルツも、あの日の襲撃はよほど腹に()えかねたらしい。相当、金を注ぎ込んだと見える。
ふと、インカムが通知を鳴らす。ロータスだ。

「どうした?」
『俺のほうは良いんですが、その……エヴァが帰ってきません』

オルティは苦笑して、手元のラップトップの画面を切り替えた。それはエヴァグリーンの襟元に付けたミニカメラだ。どうせ(はぐ)れると思って、別個にしておいたものだった。
トール、と呼ばれていた巨漢と楽しげに殴り合っている。竜種にしてみれば、自分たちのじゃれあいに付いてこられるだけで、人類種を認める理由になるのだろう。是が非でも、始めに力関係をはっきりさせておいて良かったと、オルティはエヴァグリーンと出会ったばかりの頃を懐かしむ。
画面の中では、激しく風雪(ふうせつ)が吹き付ける。馬鹿でかい男と何度も組み合っては殴り合い、互いに血糊を飛ばしている。何してるんだ、全く。

「エヴァグリーン、もう充分だ。ロータスの所へ戻ってやれ」
『だとよ、デカブツ!』

言うなり、エヴァグリーンは巨漢の太く逞しい脚を踏み台にして、身を捻る。鋭く振り抜かれた膝が、トールの蟀谷(こめかみ)を強かに撃ち抜いた。そのまま彼は凍った路面を転がっていった。

『おい! 今の見たか! テレビで見たやつだ、上手くできたぞ!!』
「はいはい、あんよがじょうずで大変宜しい。分かったから早く戻れ。転ぶなよ。」

うるせえな、と威勢のいい返事がインカムに返る。その直後、カメラは突然空を映していた。だから言ったのに。

ライカを孤立させてしまえば、後はなんとでもなるだろう。オルティは続けて、アルシァラに向けてショートメールを打った。健闘した彼らに迎えを出させるため、それから、人質を運ばせるために。アルシァラにもインカムを付けるように言ったのだが、彼はむさ苦しい殴り合いの音なんか聞きたくない、とそっぽを向いた。反抗的な態度はともかく、話し合いで済むわけがない、と見抜いていたところは大幅な加点である。
すぐにショートメールに返事が入る。サムズアップの絵文字だけの簡潔なレスポンス。全員が無事に帰るまでは気を抜けないが、オルティは深く安堵していた。……自分が現場に居なくとも、彼らは立派にやっている。
オルティの纏う空気がふっと和らいだためだろう。隣の椅子にかけていたシュワルツは、顔を上げてオルティを見た。

「まるで、我が子を見守る父親の心境だな。私にも息子が居るからね、よく分かる」
「私は彼らの父になったつもりは無いのですがね……でも、彼らの成長を見るのはとても楽しい。」

シュワルツは、自分のグラスにシャンパンを注いだ。金の泡が浮かんでは弾ける。それを手に取り、シャンデリアの灯りへと透かす。美しく、そして、儚いもの。飲み干せば消えてしまうひとときの夢の、さらにその中を迸る、小さな泡粒。シュワルツはそのひとつひとつを愛でるように眺めた。

「君が寄越してくれた、可愛い坊や。アルシァラは、よくやってくれているよ。」

オルティの後任として、アルシァラはシュワルツとの商談を担当していた。シュワルツがオルティを評価していたのは、その目利きの正確さだ。
街の飲食店や娼館などは人数的な需要が高いので、オルティも積極的に求職中のトヲラス人を斡旋(あっせん)してきた。シュワルツは基本的に否定をしない。どの店だって、オルティが差し出す人員にこれまで不満が出たことはないからだ。それぐらい、オルティという男は、自身が関わる人間への評価が適切だった。そのオルティが後に据えたのだから、彼の目利きはオルティの眼鏡に叶う程度に正確なのだろうと信頼した。事実、アルシァラはオルティと同じか、それ以上に素晴らしい目の持ち主だった。

「アルシァラはまだ若く、至らないところがあるでしょう。どうぞ、指導してやってください」
「お前は、彼とはあまり折り合いが良くないのだろう? 何故、彼を重用している?」

シュワルツの疑問は(もっと)もだ。
アルシァラはオルティに当たりが強い。アルシァラのプライドの高さは、優秀であるがゆえのものだ。そして、生まれつき翼持つ『天狗』(シエルトリアナ)であるがゆえのものだ。その彼が祖国であるトヲラスを出たのには、止むに止まれぬ事情がある。
オルティは、アルシァラを第二のタリーにしたくはなかった。

「私が彼に何かしてやれるとすれば、それは彼の生命と自由の保証だけです。この国で生きる方法を身につけること。それを教える事だけです。」
「それで、私のところへ?」
「あなたは、とても優しい方ですからね。それでいて、私はあなたほど厳格に、ご自身の枷鎖を守っておられる方を知りません。」
「おいおい、褒めても何も出せないぞ。四ツ葉の魔法使いめ。」

シュワルツは上機嫌に、シャンパン・グラスを傾けた。オルティは、目を細める。

「それに、クローバー貿易商会というのは、仕事場なのです。彼らが私を、それこそ父親のように慕う気持ちは嬉しい。けれど、いつまでも家族ごっこではいけない。……アルシァラは、見込みのある男ですよ。」

その微笑みは、わずかに自嘲に寄っている。
シュワルツは、その種の笑みを頻繁に見る。それは、後先がない者の顔だった。

「……お前は、もう、私に会いにくる気はないのだね。」

オルティは何も答えなかった。その沈黙こそが、明白な答えであった。

「それほど、悪いのかい」
「……春までは保たないと、医者には言われています。」
「そうか。寂しくなる。」

シュワルツはそっと、オルティの黒い手袋に包まれた手の甲に、自身の手を重ねた。オルティはわずかに躊躇ったが、結局、それを避けはしなかった。シュワルツが決して無理強いをする相手ではないと知っていたからだ。

「最後の記念、というわけではないが……一度ぐらいは、口説かせてくれないか?」

シュワルツは、オルティ自身を深く気に入っている。それは、仕事の良し悪しとは関係ない。純粋にこの男の仕草や佇まいが、花のように力強く、美しいからである。シュワルツは美しいものを愛しているのではない。美しかろうが醜かろうが、強く咲き誇るものをこそ、愛していた。

「私では駄目かな?」
「駄目です」
「いつもながら、つれない男だ。私はお前をこんなに高く評価しているのに……一度ぐらい私と寝てくれてもいいじゃないか? そんなに私は魅力がないかね?」

くつくつと笑いながら、拗ねたように、シュワルツは唇を尖らせた。この華やかで過激な夜の街の王は、決して個人を寵愛することはない。彼の愛情は広く街中に注がれるものだ。そうでなくては、不夜の主人は務まらない。シュワルツは遊びのつもりで、本気のつもりでもあるのだった。オルティもそれをよくよく理解している。

「キング」
「ああ。こうもきっぱりと断られては仕方がない。まさに高嶺の花というものだ。お前を忘れるのは骨が折れるだろう……」

そう言うシュワルツの側に寄り、頬に手を添えて。オルティはそっと、唇を重ねるだけのキスを与えた。

「これで、貸しにしていただけませんか」

ほんの一瞬のことだ。柔らかな唇も、清涼なムスクの(かおり)も、シュワルツのもとへは留まらなかった。ただ眩しい余韻だけを遺していく。咄嗟(とっさ)のことにシュワルツは、自身の唇を指先でなぞると、してやられたと言うように笑った。

「何てこった。お前は本当に、魔法が使えるのだね」

「結局、ライドウも利用されただけのようですね。金で釣られるとは、落ちたものです。」

ロータスは報告しながら、ターキーを齧っていた。外の寒さがよほど骨身に沁みたのか、ウイスキーが止まらないらしい。寒々しい港から一転、カジノのVIPラウンジへ横付けされたバンは、スペイドが運転していた。ナビはアルシァラだ。彼らは人質の運搬と、ロータスらカチコミ班の護送を見事にやってのけた。

「そんな事だろうとは思っていた。それを確かめに行ったんだ。何も問題はないさ」

珍しく、オルティもシャンパン・グラスを手にしている。それはこの感謝祭ディナーをプレゼントしてくれた、シュワルツへの敬意だった。甘酸っぱいクランベリーソースも、シュワルツの手製だという。
彼は豪気なことに、社員一同を招待してくれたのである。文化圏の違うトヲラス人たちは、馴染みのない感謝祭のディナーに、それぞれ顔を見合わせていた。早かったのはロータスだ。彼は本当に、場に溶け込むのが上手い。
かつて偉大なカジノ王を目前に固まっていたアルシァラは、今はもう堂々とシュワルツと話せている。シュワルツの甘やかな人心掌握の(すべ)を学べば、彼はますます成長できるだろう。
メリーラムはどこか気怠(けだる)げではあったが、満足そうにしていた。彼女は食事が好きではないものの、賑やかな場所は好きなのだ。以前は笑いもしなかった彼女が、そうして穏やかに過ごせていることが、オルティには嬉しかった。
サダルメリクは、社員たちとディナーを楽しんでいる。かつて怪物と呼ばれた彼と親しみ、笑い合う者がひとりでも多く増えればいい。そう願わずにはいられない。
群れからぽつんと離れて、エヴァグリーンが突っ立っている。これは自分の群れではない、とでも言いたげに。目が合うと、エヴァグリーンは困ったように眉を下げた。
仕方ない、声をかけに行くかと思ったところへ、ロータスが割り込む。

「エヴァあ! お前ぇ、ちゃんと食ってるのかぁ!?」

だめだこりゃ、もうベロベロになっている。
酒臭い酔っぱらいに肩を組まれ、エヴァグリーンは鬱陶(うっとう)しそうに牙を剥いたが、それだけだった。そのまま引きずられるように料理の前へ運ばれていく。それはまるで、輝かしい夢のように、愛おしく、いじらしい。オルティは静かに目を閉じる。この光景を、いつまでも憶えていられるように。

「えーーと、自分一言良いですかぁ!?」

ふいに、ロータスが声を張り上げた。まばらな拍手が起こる。ロータスはいつのまにか、高らかにグラスを掲げて皆の中央に立っている。

「まず本日のディナーはぁ、我らがカジノ王様からの賜り物でぇす!! はい拍手! お礼して!! ありがとうございます!!」

先ほどよりは気合の入った拍手。調子のいい連中が指笛を鳴らし、ありがとうございまーす、と合唱する。笑いが起こる。シュワルツは貴族らしく、優雅に礼をした。
それからロータスは、勢い、オルティのほうへ向き直った。

「それからぁ、我らがボスぅ! オルティさんの快復を祝して……」

社員たちの中から、おずおずと、受付嬢のリズが進み出た。手に紙袋を持って。オルティは何事かという顔で彼らを眺めている。

「ちょっと過ぎちゃいましたけどお、オルティさんのぉ、お誕生日でした! おめでとうございました!! ほら拍手!!」

割れんばかりの拍手が、ラウンジを包み込む。エヴァグリーンですら、小さく手を叩いている。リズはオルティに紙袋を差し出した。
リズはにこやかに微笑むと、手話で《みんなで》と形作った。——カンパ。オルティはすっかり、自分の誕生日のことなど忘れていたのに。くらくらした。滅多に飲まないシャンパンのせいかもしれない。

「はい、それじゃ、乾杯!! ご清聴ありがとう!」

拍手。拍手。拍手。
オルティは立ち尽くして、紙袋も受け取れずにいる。気を利かせたリズが袋を開けて、丸いハットボックスを取り出す。黒の化粧箱に、金の箔押し。オルティが好んでいる、ハットメーカーの名門の印章。
自由になる右腕で、箱を開けて。艶やかなアイボリーに、バーガンディのリボン。そっと手に取って、頭に乗せる。羽のように軽い。似合うよボス、と誰かがヤジを飛ばした。

「……ありがとう」

ハットを押さえたまま、(うつむ)いて。オルティは、声が震えるのを止められなかった。

(続く)

#8 シンパシー・オル・シチュエーション

薄暗いガレージで悪態をつきながら。
呼びつけられたナダレは、必死にオルティの傷口の除去洗浄(デブリードマン)をしていた。抗生剤と輸血を山のようにぶち込みながらである。

「何をどうしたらこうなるんだよ死ぬか死ぬのか大馬鹿者じゃあとっととくたばれよ俺の身にもなれよふざけやがって!!」

暴言が止まらない。しかし、作業の手も止まらない。
元々、軍医として前線で務めていた男だ。頼りなさげなのは顔だけで、手技は神業である。
連れてこられた時は、使い物になりそうもない顔で指先を震わせていた。しかし、オルティの状態を目視して、火薬が焦がした肉の臭いを嗅ぎ取ると。ナダレは懐に忍ばせたスキットルから酒を一口飲んだ。それで手の震えはぴたりと止まった。今そこにいるのは震えるアル中ではなく、()わった目をした職人のような男だ。

「どーーーせコイツが焼けって言ったんだろ、っんとにこの大クソ馬鹿ヤクザめ……!」

社員の何人かにみっちりと3周ほど手を洗わせて、ナダレは彼らにオルティを押さえているように指示をした。

「これだけの傷だ、気ィ失ってても反射は出るからな。……お前らのボスを片腕(カタワ)にしたくなきゃ、死ぬ気で押さえとけよ!!」

ロータスは、エヴァグリーンが担いできた狙撃手を検分していた。そちらも両腕が砕けて顔面をボロ雑巾のようにされていたが、オルティに比べればよほど軽傷である。そのため、暴れ出さないように拘束されて放置されている。

「ライドウ一門の奴だろう、腕のいいスナイパーがいると聞いたことがある……。」

カマロは相変わらず震えていた。部屋の主人であるのに、隅に追いやられて膝を抱えている。
エヴァグリーンははたと気づく。

「……お前ら、カマロを殺しに来たんじゃねえのか」
「あのなあ。何にも知らない実行犯(パシリ)を殺してなんの意味があるんだよ。」

ロータスは呆れたように、エヴァグリーンの深い草色の頭を小突いた。

「俺は、てっきり……。」
「とはいえ、やったことはやったことだ」

ロータスはカマロの方へ向き直った。

「利用されただけで、理不尽と思うだろうけど……君、田舎に引き取ってくれた人が居るんでしょ。そこに帰りなさい。当分、そこで隠れていた方がいい」

驚くエヴァグリーンに、ロータスは小声で耳打ちする。「オルティさんもそう言いに来たんだよ」、と。エヴァグリーンは、未だ治療中のオルティのほうを見た。何でそういうことを始めに言わないんだ。
カマロは膝に頭を埋めたまま、ぼそぼそと話す。

「……俺がその、ライドウの人たちと手を組んだりしたら。って思わないんですか。」
「君にそんな度胸があるとは思えない」

ばっさり。カマロは不貞腐れたように、何も反論しなかった。

それからオルティは、エヴァグリーンの部屋に担ぎ込まれた。ガレージよりは良いだろうというナダレの判断だ。どのみちナダレはこの後数日、つきっきりでオルティの傷を洗い続けなくてはならない。吹きっさらしのガレージよりは、まともな屋根とバスルームのある環境のほうがよほどマシだということだ。
そして、今度はエヴァグリーンのほうが、自身の部屋の隅でうずくまる羽目になった。

「知らねえぞ、部屋ごと爆破とかされても」
「そんな手を使ってくる奴なら、もう事務所ごと爆破してるだろ」

それもそうだ。意外にナダレは頭も回るらしい。

オルティが目を覚ましたのは、狙撃からまる2日後だった。
それを見たナダレは深々とため息を吐くと、床の上で小さく丸まった。

「何かあったら起こせ、俺はちょっと寝る」

言うなり寝息を立て始める。よほど疲れたらしい。

「……医者ってみんなああなのか」
「ナダレだけだぞ」

オルティは痛みに顔を顰めていたが、エヴァグリーンが心配そうに覗き込んでいるのを見ると、唇の端だけで笑みを作って見せた。

「心配をかけたな」
「ロータスに言ってやれよ。ガキみたいに泣いてたぞ」
「怪我のことだけじゃない。お前には謝らないとな、と思ってたんだ。」

オルティは目を伏せた。

「すまなかった。……それと、ありがとう」

長雨の過ぎた外の陽光が、カーテン越しにその横顔を照らす。少しやつれてはいたが、オルティは相変わらず美しかった。白金の髪がはらはらと、空調に揺れて零れ落ちる。
それは生命の(またたき)でもあったが、もっと死に近い、静謐(せいひつ)な美しさだと、エヴァグリーンは感じていた。——こいつはどれだけ、他人のために自分を削れば気が済むのだろうか。

「……悪いと思ってんなら、とっとと治って出てけよ。つか、お前の部屋でもいいだろ」
「俺にもプライバシーがあるんで……」
「どのツラ下げて言ってんだよ」
「それに、お前は俺の護衛でもある。きっちり仕事してもらうぞ」

軽いやりとりは、エヴァグリーンにカマロを思い出させる。カマロはあの後、ロータスが送って行った。須藤(すどう)飛蝗(ばった)衆、という運び屋を使って、彼の田舎に届けるらしい。業界一の信用を誇る運び屋だというが。

「そんな顔するなよ。運び屋は信用商売だからな。荷主(にぬし)を裏切るようなことはしないさ」
「……俺まだ何にも言ってねえぞ」
「全部顔に書いてある。お前、本当に分かりやすいよな」

カマロも、そう思っていただろうか。彼は手荷物だけを持って帰って行った。連絡先も聞けなかった。そのほうが、彼を商会とは繋がりのない者だと思わせられて、安全だから。
彼のバイク、パイルダーといくつかのCDは、エヴァグリーンが貰い受けることになった。

ベッドには怪我人であるところのオルティを寝かせて。エヴァグリーンは夜中じゅう、ぼうっと目を覚ましていた。竜種は、厳密には睡眠を必要としていない。眠るのはなんとなく、そうしないと座りが悪い気がするからだ。オルティが微かに呻き声を上げた気がして、エヴァグリーンはベッドのほうを見た。呼吸が荒い。傷のせいか、少し熱があるらしい。

竜種なら、撃たれても。仮に本当にカマロが撃たれていたとしても。心核を外していれば、それは致命傷にはならない。オルティの負傷は、完全に無駄な事だったかもしれない。もしもの話だというのは分かっている。オルティは最悪を見越して動いていると理解している。同じ竜種であるエヴァグリーンだけが、『竜種は撃たれても簡単に死なない』と知っている。オルティがそれを知ってなおカマロを庇ったのなら、それはオルティがよほど、自分の命を軽く見ているということになる。
汗を拭ってやっていると、オルティは目を開けた。

「……悪い、喧しかったか」
「別に」

ベッドの縁に腰掛ける。水のボトルを渡してやると、オルティは器用に起き上がってそれを飲んだ。

「……大丈夫なのか」
「なに、……しばらく肩が上がらないだけだ。心配ない」
「そうじゃねえよ。怪我のことじゃねえ……クソッ、うまく言えねえ」
「なんだ、心配してくれてるのか? 俺をブッ殺してやる、んじゃなかったのか?」

電話のことを根に持たれている。
……そうやってすぐに、会話の筋道をずらしてくる。エヴァグリーンは、それが分かるほどオルティに馴染んでいた。

ナダレは往診に切り替えて、ロータスに伴われて毎日やってきた。オルティはその折に仕事の指示をしていた。ナダレは往診にぐちぐちと文句を言いながら、ガーゼを変えた。お前が来いよ足は無事だろうが、と。平和も平和で、驚くほど何事も起こらない。
ナダレは後ろで見ている、エヴァグリーンとロータスを叩き出した。邪魔だとか、不衛生だとか言いながら。そして、ふたりきりになってようやく、苦々しげにオルティに告げた。

「ダメだな、経過が悪い。遅すぎだ。」
「やっぱりか」
「熱は?」
「少しだけ」

許容範囲だ、とナダレは頷く。敗血症を引かなかっただけでもありがたい。

「……薬は、いつまで断てるかな」
「まあもう、2、3日様子を見る。吐き気とか、どこか痛いとかは?」
「むしろ痛みは治まってる」
「だろうな。休薬中みたいなもんだ」

ナダレはてきぱきと処置を済ませる。珍しく、彼は酒もドラッグも入れていないらしい。ガーゼを替えて、包帯を巻き直す。首の傷も同じように。ナダレは作業をしながら、ためらうように尋ねた。

「あの竜には、言ってあるのか?」
「エヴァグリーンに? ……何でだ?」
「何でって……まあ、言ってないんだな。商会の連中にも言ってないんだろ。あのなあ、そういうの止めろ」

オルティは、同じことを何度も聞かされている。ナダレはいざという時、オルティが誰のことも頼れないと心配しているのだった。

「……妹さんのことか」

ナダレは確認するでもなく、呟いた。

「復讐なんか望んでないと、そう言いたいのか」
「さあな。俺なら復讐してほしいと思うかも。けどオルティ、お前が無理するのはあの子のためじゃないだろ。だから俺は気に入らない」

オルティは何も答えない。ナダレが伊達や狂酔ではなく、真摯(しんし)に、医師として話していると分かっているからだ。それでも。オルティは左頬の向かい傷を、そっと親指でなぞる。

「……やっと手がかりを掴めたんだ。まだ、始まってもない。俺の仇討ちはここからなんだよ……。今やっと、幽霊船に手が届くところなんだ」

ナダレは、オルティの鋭利で静かな横顔を見ている。今にも命を使い果たして、燃え尽きそうな眼差しを。それ以上、ふたりは何も話さなかった。

「歳食うと、何でも治りが遅くなるよな」

数日もすれば、片腕が使えない割には、オルティはかなり活力を取り戻していた。
仕事に滞りのないように、オルティは幾らかのデバイスを事務所から運ばせた。医療機器も含めて、エヴァグリーンの部屋は要塞のようになってしまっている。機材が普通に邪魔だ。このガジェットオタクめが。
早く治して、出て行ってもらいたい。冗談抜きで。エヴァグリーンは機材の向こうのオルティに声をかけた。

「……おい、メシ買ってくる。何がいい」
「栄養バーでいいよ」
「却下」

片手なんだからしょうがないだろ、とオルティは我儘を言っていたが、無視した。前にロータスが奢ってくれたサンドイッチにしてやる。甘ったるいコーヒーつきで。

街は随分と肌寒くなった。
エヴァグリーンがオルティと出会ったばかりの頃は、まだ夏の熱気が残っていた。けれど、今はもう上着なしではいられない。羽織ったジャケットの首元までチャックを引き上げ、耳が見えないように、フードを被る。じきに街には雪も降り出すだろう。
どうしていたか、思い出せない。
以前はどうやって、この寒い日を乗り切っていたのか。こうして暖かいコーヒーを買うことなんて……それも他人に分け与えるためにそうするだなんて、一度も考えたことはなかった。

それも全部、オルティと出会ったせいだ。

出会って良かったなんて言う気はない。そんな事を言っても調子に乗らせるだけだろう。
帰ってドアを開ける。相変わらず機材の低い稼働音がしているが、オルティの姿がなく、水場のほうの灯りが付いていた。

「おい、メシ」

呼びかけても返事がない。コーヒーが冷めるだろうが、と覗きに行くと、オルティはそこで(うずくま)って、小さく呼吸していた。

「どうした……傷、痛いのか」

近づくと、オルティの手元が濡れているのに気づく。そこには血と、なんだかわからない液体でぐしゃぐしゃに濡れて(しお)れた、羽毛のようなものが握られている。

「……何だ、それ」

オルティは微かに笑った。

「クソ……よりによって帰るのが早い……」
「寒かったんだよ。で、何だそれ」

答えはない。ただ、オルティの呼吸は浅く早い。何かが喉に(つっか)えているような、呻くような咳だけを繰り返す。エヴァグリーンは、なるほど、と思う。そしてオルティの頬に触れると、弱々しく抵抗する口の中に、指を突っ込む。

「出せ」

オルティはまだしばらく抵抗していたが、結局、そのままエヴァグリーンの服を汚すことになった。

その後、ナダレを呼びつけて面倒を見させ、オルティの容態は落ち着いた。水場で脂汗をかいていたころに比べれば、ではあるが。相変わらず呼吸は浅く、()せるような咳を繰り返す。それが傷に障ったのか、首筋も肩口も、血を滲ませている。
エヴァグリーンは、ナダレ以外の誰も呼ばなかった。他人に隠したいのは、倒れていた時の態度で分かる。

「あれは、何だ」

エヴァグリーンはナダレを問い詰めることにした。ナダレは少し躊躇(ためら)ったようだが、観念したように唇を開く。

羽化症(うかしょう)って病気だ。……皮膚表面の細胞が羽毛の芽に置き換わる。内臓もだ。……これ以上良くはならない」

それは、死病である。
羽を持たないトヲラス人は、遺伝的にこの病を発症しやすい。現代では、翼に変わるはずだった遺伝子が狂った結果だと考えられている。しかし、トヲラス人は伝統的にこれを、罪科(つみとが)への罰であると。そうでなければ理不尽だと認識していた。それはまさに、血の呪いであった。
投薬は身体への負担も重く、ただ命をわずかに長引かせるだけだ。いずれにせよ、いつかは苦しんで死ぬことになる。

エヴァグリーンはそれを聞く前から、なんとなく、そんな気がしていた。ずっとおかしいと思っていた。どれだけの覚悟をしていても、虚勢を張っても。死に際した人間は、わずかでも生きようと(もが)くものだ。それは欲求というよりも、反射のようなものだ。エヴァグリーンは、殺し屋としてそれをよく知っている。
オルティにはそれがない。量り売りするように淡々と自分を切り取り、誰かのために使う。単なる献身とは違う。ただその方が命を有効に使えるから、そうしている。

ゆっくりと、柔らかく死に続けているから。

オルティにとって、死に向かうことはもはや、異常事態ではなくなっている。それだけのことだ。驚きはしなかった。むしろ、納得がいった。

「あいつは、普段は薬で症状を抑え込んでるだけだ。だが、……ええと、副反応じゃわかりにくいか。その薬は、血を止まりにくくしたり、代謝、つまり身体が治ろうとするのを遅くする力もある。だから今は傷の治療を優先して、薬を止めてる。それで病気のほうの症状が活発なんだよ。」

ナダレは頭を掻いた。エヴァグリーンが黙りこくっているので、意味が伝わっていないと思ったのか。それとも、責められていると思ったのか。

「本当に、治療の甲斐のない病気だ。投薬は激痛だし、患者は死ぬと決まってる。……悪いが俺には何もできない。治してやれないし、休薬も投薬の再開もあいつの意思だ。俺にできるのは、薬の量を適切にするぐらいのことだ」
「……そうか。」

エヴァグリーンは、それを肯定も否定もしなかった。ナダレはいつものように悪態をつかず、神妙な顔つきのまま、黙って帰って行った。

静かになった部屋で、エヴァグリーンは横たわるオルティを眺める。
怪我をしていないほうの右肩を下にして、薄くタオルケットを羽織って。その背には、トライバルの翼が畳まれている。それは、翼を持たずに生まれてきた子どもたちのために贈られるものだ。年齢を重ねるたびに描き足され、彼らが無事に大人になれば、その背には立派な翼が備わる。そうして羽化症を遠ざけようと、トヲラス人は連綿と祈り続けている。
そっとベッドに近づいても、オルティは身じろぎひとつしなかった。それほど体力を失っているのか、それとも、エヴァグリーンを警戒することをやめたのか。白金の髪を手に取る。それはさらさらと流れて、エヴァグリーンの指をすり抜けて行った。

首筋にそっと、鼻先を寄せる。
いつものように、香水や煙草の(かおり)はしない。ただ、薬品と血の匂いがするだけだ。……香水は、治療薬の匂いを誤魔化すためだったのだと、その時ようやく気がついた。

食事が嫌いなのかと思っていた。純粋に、食べられなかったのだ。甘いものが好きなのかと思っていた。機能を失いつつある舌が、味の濃いものしか判別できないだけだった。手袋で指先を覆っているのは、治療薬で爪や手指が荒れてしまうからで。潔癖でいようとするのは、風邪程度でも死にかけるからで。——崩れ落ちそうな身体を必死に、ボスとして相応しく見せようとしていたのだと、知ってしまった。

エヴァグリーンは、それを暴いてしまった。

オルティのために買ってきたコーヒーは、もはや冷たくなっている。それを流し込む。暴力的な甘ったるさが、どろりと腹の底に落ちていく。
彼が作り上げた、オルティ・クラヴィアドという砂糖菓子の虚像。子供騙しのシロップ薬。
それを剥ぎ取られたオルティは、ひどく弱々しく、痛々しかった。

冬が本格的に訪れる前。オルティは通常業務に復帰した。とはいえエヴァグリーンの部屋に機材を持ち込んで働いていたわけで、休んでいたというのもおかしな話ではある。
薬を再開するときになって、エヴァグリーンは一度だけそのことを聞いた。投薬は激痛だ、とナダレが言っていたから。
点滴を受けているオルティに、痛むのか、と尋ねると、オルティは笑って、「少しだけ」と言う。

「もう慣れた。10年もやってりゃな」
「……慣れるなよ、そんなもんに」

エヴァグリーンが意外に、真面目な声を出したからか。オルティはそれ以上軽口を叩くことはしなかった。代わりに。

「俺からも、ひとつ聞きたいことがある。お前と、イーデンの関係だ。……ただ幽霊船を探すだけなら、聞かなくてもいいことだった。だが、事情が変わった。」

普段の説明の無さからすれば珍しいほどに、オルティは整然と手札を並べていく。エヴァグリーンにも分かりやすいように。

「お前に頼まれる前から、俺は訳あって、イーデンの手がかりを追ってる。多分、お前が初めに俺を殺すように依頼されたのは、それが理由だ。お前に依頼を流した奴は、お前がイーデンの関係者だとは知らなかったんじゃないか?」
「……」
「……話したくないことか?」

オルティは、エヴァグリーンが沈黙するなら、無理に話せとは言わないだろう。今のエヴァグリーンにはそれが分かってしまう。
躊躇(ためら)いながら、唇を開いた。
ごぼごぼと、泡沫の浮かび上がる音が、今も耳の奥で聞こえる気がする。

「……俺は。そこで生まれた。」

竜種は、卵として世界に産み落とされ、日を空けて孵る。それが一年二年になることもある。だから、親が子の面倒を見ないことはざらであり、それこそが、彼らが社会的な動物として発展できないことの証左でもある。
そして、誰から名付けられることもなかった竜種は、自身の生まれた場所や、育った場所を自らの名乗りとする。
エヴァグリーン。祝福の常若木。

楽園(イーデン)より来たりし、いずれ楽園(イーデン)へと帰る竜。そうエヴァグリーンは、自分自身を定義したのだ。

楽園の名を冠したその船で、エヴァグリーンは孵った。黒曜石のような立派な殻をしていたその卵は、その日、価値を失った。孵ってみれば何の変哲もない、ただの竜種であったのだ。蒐集船が載せるものは、価値あるものだけ。集めるべき、蒐めるべきものだけ。
エヴァグリーンは、波間に流される時になって、ようやくそれが世界ではないと知った。それはただ巨大な船である。楽園でなく、世界ですらない。それが都市伝説に語られる蒐集船だと知ったのは、比較的後になってからのことだ。

「あの船を沈めたい、って言っただろ。……売れる物なら何でも売る連中だ。たとえ卵の殻だろうが。奴らが今ものうのうと、何かをカネに換えてるなんざ許せねえ。」

エヴァグリーンの言葉に、オルティは頷く。オルティも船を沈めることに異存はない。
オルティの知る、イーデンの都市伝説はこうだ。
それは価値のあるものを蒐める船である。価値とは何か。初めはただ、「世界のためになるもの」を集めていたという。眉唾物のアーティファクトや、人に知られてはならない技術。それを集めて洋上に隔離することで、世界を守っているのだ。
またある伝説では。イーデンは高価で珍しいものを蒐め、オークションにかけるのだという。世界に名だたる金持ちが、珍しいものを買い漁る。その(ハク)付けのために「世界のためになるもの」や、「ありえないアーティファクト」なんて伝説を流している。その実態はただカネと欲の楽園であるのに、と。

「俺も、あんな物が実在するなら。何が何でも止めるべきだと思っている。現代の奴隷船だ。人攫いでも平気でやる。……俺の妹が、そうだった。」

オルティの妹、タリー。彼女は、『羽のある』トヲラス人であった。トヲラス人の中でも2割に満たない『天狗』(シエルトリアナ)は、基本的にトヲラスの国土から出ることはない。アルシァラのような例外はあるが、大抵は宗教的な理由から、神学の道へと進む。
しかし彼女は、兄の留学に連れ立って、アルスという国を訪れた。両親の反対を押し切ってまで。タリーはそれだけ兄に懐いていたのだった。

そして故国を離れたトヲラスの『天狗』が、彼らの目には価値あるものとして留まったのだ。

「攫われそうになったあの子は、……きっと必死で抵抗したんだろう。終いには羽を切り落とされて……発見された時には、命も危ない状態だった。それでも、生きていてくれた。」

オルティはただ、悼むように目を閉じる。頬の傷を、なぞりながら。

「俺は妹を救えなかった。……これは、タリーが俺につけた傷だ。あの子は目に映るもの全てに怯えていたから。それで、そのまま、……。あの子は人として扱われなかったせいで、自分は人として、生きる価値がないと……。」

ふう、とため息を吐いて。オルティは自分のジャケットを指差す。それは肩に穴の空いたままだったが、オルティが手元に置いておきたいと言ったので、エヴァグリーンの部屋に運ばれて、血に汚れたまま壁に架けられていた。
エヴァグリーンが言われるままにポケットを探ると、二重になった内側の袋に、小さなカードが入っていた。どこかのIDのような、顔写真の入った、擦り切れたカード。
エヴァグリーンは、それを見た時に。強く心核(しんかく)が脈打つのを感じた。その顔に、見覚えがあった。泡沫の音が一層強く浮き上がる。

「俺はこいつを知ってる……!!」
「それは、あの子が奪って、隠していたものだ。……俺の道標だ。それが、お前と引き合わせてくれた。珍品オークションは真実か……。全く……。」

オルティはくつくつと笑う。バイカラーの瞳がぎらついていた。獲物に食いつく寸前の鮫のような、凶悪な笑みだった。

「……俺は、その黒曜石の殻を見たことがある。3世のことを覚えているか。……彼が持っている。」

(続く)