カテゴリー: 本編

#1 ブラック・ドラゴン&トヲラス・ブルドッグ

小銭が少し、足りなかった。
値札を眺めて舌打ちをひとつ、自販機に硬貨を捩じ込む。ぎらついたエナジードリンクの缶の隣。つまらなさそうな黒いコーヒーの缶。そのボタンをぐっと押し込んだ。

夏の盛りを過ぎ、日が落ちるのが早くなっても。アルスの街はアスファルトの奥まで、熱を溜め込んだままだ。よく冷えて汗をかいている缶を片手に、暗い路地へと歩を進める。
どこかでカラカラと換気扇が回っている。肥えた虫が足元を逃げていく。室外機が低く唸る隙間を通り抜けて、通りの手前、ネオンの下に立つ。缶を開けて、傾ける。
通りの向こうは賑やかな繁華街だ。男も女も毳毳(けばけば)した格好で歩き回っている。脂ぎって艶々として、虫によく似ていた。
足元をうろついているそれを、爪先で踏む。
くしゃり。潰れた羽をにじる。ふと、ブーツの先が擦り切れていると気づいた。いつ手に入れたものか思い出せなかった。俯くと、被ったフードが重い。あちこち(ほつ)れた厚手のパーカーだ。それも随分、長い間使っていた。

室外機の上で、小さな窓が開く。
そこからにゅうと腕が伸びて、くしゃくしゃの小さな封筒をよこした。窓ごしに見下げる目があった。封筒を開ける。それは明らかに隠し撮りで、こちらを見ていない男の写真だ。けれど、品と身なりの良さは見て取れる。

「こいつ。どんな奴だ? 何で殺される?」

なんとなく、そう尋ねた。
窓を閉めようとしていた手がピタリと止まる。そして、嘲笑うような返事。

「聞いてどうする? ケツでも借りる気か?」

くだらない、下品な冗談を聞き流した。
コーヒーをぐっと飲み干す。空になった缶を投げ捨てれば、路地にかつんと高い音が響いた。
それは転がって、すぐに他のゴミと紛れて分からなくなった。

「……クソ不味いなァ、このコーヒー。」

唇を舐める。
ぎらり、鋭い牙を覗かせながら。

街の郊外へと至る路を、白いサンダーバードが行く。トリノ・バードと呼ばれるそれは、いわゆるクラシック・カーだ。レストモッドされた現代の足回りを得て、鋭利でエレガントな鉄の質感を外装に残しながら、鳥は夜を滑らかに駆けている。ドロドロと低い排気音は、獣の唸りのようにも聞こえた。
ガラスはどれも夜の海のように、黒くスモークされている。Tバールーフの天窓を含めて。ただし今夜は、後部座席の窓がひとつ開いていた。

“オルティ・クラヴィアド”は後部座席に座り、窓の外を眺めている。きらきらと流れていく街灯を、きらきらとした目で見上げながら。緩いパーマのふわふわとした白金の髪を風に揺らして。品の良さそうな黒のスリーピースは、ぴんと布地を張っている。覗く肌色は伽羅(きゃら)のような褐色であった。

「ったく、本当に来んのかよ……」

運転席で男が愚痴る。彼はオルティの右腕として、よくこうして運転手を勤めている。同じようにスーツを着こなしているが、ジャケットは脱いでいた。シャツの肩がはち切れそうになるほどの太い腕で、繊細にトリノ・バードのハンドルをこね回している。湯水の如くカスタム費用を突っ込まれているこのじゃじゃ馬、もといじゃじゃ鳥は、フロントが重くなりすぎている。気を抜けばタイヤを持っていかれそうになるのだ。

窓の外を眺めたまま、オルティはにっこりと笑う。

「彼が間違ってたことなんてないでしょ? まあ見てようよ!」

いやに、子供っぽい笑顔で。

「そうは言ってもなぁ……こんな作戦、」

と言いかけた運転手、ロータスが黙る。
ハイビームの向こうに人影が見えたのだ。
——来た。まさか。本当に?

「おいマジかよ!マジで来やがった!!」

贔屓のチームが逆転ホームランで試合を決めた。そんな歓声とともに、ロータスはアクセルを目一杯に踏む。トリノ・バードはぐんと加速した。

「ほらね!」

オルティも興奮したように顔を上げた。車は疾走する。巨大な鉄の刃物のように。真っ直ぐに突っ込んでいく。
衝突するその寸前に、人影は消えた。面食らったロータスはブレーキを踏み込む。悲鳴のようなスキール。車は大きくドリフトする。まるで平地に立つかのように。それは立っている。車の屋根に!
レザーのシートの上で振り回されながら。オルティは面白い出し物でも見るかのように、無邪気にガラスのルーフを見上げた。

「すごいなあ、そんなこともできるんだ」

防弾仕様のガラスが、スモークフィルムごと貫かれる。たかが、か細い拳ひとつに。割れたガラスの縁に手をかけ、それは骨からステーキを剥がすように、ルーフウィンドウを引き剥がした。
(あらわ)になった屋根の向こうで、その獣が顔を出す。見下ろす目は蛇のようにぎらついて、燐光を帯びていた。竜種(ドラゴン)だ。そして、竜種の側も、オルティを認識した。視線が交錯した瞬間、竜種は再びその拳を振り抜いていた。

つまらない仕事だった。
ぽつぽつと血糊が滴って、アスファルトにシミをつける。(むし)り取った首の、乱れた白金の髪に指を絡める。バーストしてガードレールに激突した車から離れて、ゆるゆると歩き出す。
郊外の道路のことなんか、街の人間は誰も気に留めない。遠い街の夜景は、今夜も何も起こっていないように華やかだ。

汗ひとつかかない、つまらない仕事だ。いつも通りに。こんなものだ。人間は脆すぎる。少し力を入れれば簡単に千切れる。やりがいも何もあったものではない。この首を届ければ仕事は終わる。ざっと一月分ぐらいの稼ぎにはなるはずだった。

「ほんと、つまんない仕事だね」

呆れたような声がする。
——どこから? 手元から。首が喋っている。どろりと、人間の血液ではない何かを滴らせながら。

「こんなに思い通りにいくなんて、そんなつまんないことないよね!」

掴んでいた首は、見知らぬ男のものになっていた。かと思えば一瞬で溶け、粘性の黒い液体へと変化する。それは手足に絡みつき、力強く締め上げる。(もが)く間に真深く被ったフードが外れ、人ならざる長耳が(あらわ)になった。

「何だ、お前……!」

牙を(こぼ)しながら竜種が唸る。そこに誰かがしがみつく。竜種の首を肘で固める。ロータスだ。彼はトリノがクラッシュする直前に飛び降りていたのだった。おかげでシャツはズタズタだ。

「何だ、って! 人違いだよバカ! いいぞサダル、そのまま押さえてろ!!」
「うん!」

サダル、と呼ばれた粘性の液体——”オルティ”の首だったもの。それが、まるで万力のような力で、竜種の怪力を封じている。そして動くこともままならなくなった竜種の前に。かつかつと硬いヒールの音を立てながら。その男は現れた。

「良くやってくれた」

竜種は、今度こそ、その男をしっかりと見た。
風に紫煙を燻らせ立つ、オルティ・クラヴィアド。服装や外見はそっくり同じなのに、渡された写真とも、先ほどの偽物とも、まるで雰囲気が違う。
ただの人間ではない、そう直感する竜種の腹に、強い衝撃が走る。
竜種の力の源は『心核(しんかく)』と呼ばれる、人における心臓部である。そこを思い切り蹴り上げられたのだ。見上げた視界が暗く滲む中、竜種を見下ろすオルティは、冷たい目をして吐き捨てた。

「俺の愛車がお釈迦だ、——クソッタレ!」

冷水を浴びせられて、急速に意識が覚醒する。
目を瞬き、辺りを探るように見渡す。薄暗い、窓のない広い場所だ。どこかの地下室だろうか。蛍光灯がいくつか点けてあるが、広さに足りていないせいで部屋の輪郭が判然としない。
そして、肩から先がうまく動かせない。後ろ手に縛られた上で、柱か何かに括り付けられているようだ。

目の前で腰掛け、起きたか、と小さく呟いているのが。殺し損ねたオルティという男だ。隣に控えているゴツいのが、運転手の男。ロータスという名だったか。オルティの背後にいる胸のでかい女は、初めて見る顔だ。まるで興味のない広告を見るような目で、こちらを見ている。オルティに化けていた偽物の姿はない。

「……どこだ、ここ」

質問したつもりはなかったが、オルティはチッと鋭く舌打ちをした。

「質問するのは俺だ。お前はその答えだけを話せ。それ以外は必要ない」

事務的で、冷徹な答えだった。
それが気に入らなかった。生命を狙われていてなお、そんな態度を取ることが。

「何様のつもりだ、てめえ」

牙を剥き、睨む。ただそれだけの挑発に、ロータスはぐっと息を飲み、拳を握る。
それをオルティが手で抑え、女に目配せをした。女が一歩、進み出る。彼女はその手に、植木に使うような、大きな(ハサミ)を握っていた。

「俺はこういうことは嫌いだ。だから、なるべく早く話してくれると嬉しい」

女はゆるやかに、高いヒールの音を響かせる。それが背中で止まった。オルティは膝に肘をつき、穏やかに口元で手を組んでいる。

「メリーラムはプロだ。うっかり死なせてもらえるなんて思うなよ。」

硬い刃が、指に触れる。
ぞっとするほど冷えた刃。

「——俺を殺せと、誰に命じられた?」

……誰に、だと?
まるで意味のわからないことを聞かれ、躊躇(ためら)う間に。重い刃が噛み合う音がして、見えない指先がかっと熱くなる。思わず喉から空気が漏れた。逃れられないならせめて、と握り込もうとした指にはまるで血が巡らず、うまく動かせない。どこかで血の流れを止められている。
こいつは、竜種の対処を理解している。

「誰だ?」

再び。別の指に刃を押し当てられる。
まるで何の感慨もなく、ただ、はみ出した枝を切り落とすように。オルティが命じれば、きっと彼女は全身を輪切りにするまで『やる』のだろう。そう確信できるほどの感情のない刃。思わず叫び出していた。

「……知るかよ、ッ、知るわけねえだろうがァ!!」

刃が肌に食い込む感触がした。全身が強張る。しかし、その痛みはやってこなかった。いつの間にか(つむ)っていた目を開けると、オルティがすっと片手を挙げていた。

「知らない? 本当に?」

……それは質問というよりも、意外そうな。小馬鹿にしたような口調に聞こえた。
息も絶え絶えに、牙を噛み締める。ぐるぐると渦巻く、腹の虫が収まらない。スカした態度が気に入らない。見定めるような目が気に入らない。

オルティ・クラヴィアドの全てが、気に入らなかった。

「当たり前だろバカかお前! 竜種の殺し屋にそんな事教える奴が何処にいるんだよ!!」

一度ぶつけた言葉は、止まらなかった。

「お前ら人類種(ニンゲン)が、俺たちに何かを与えた事なんか一度も無かっただろうが!! 何が竜種(ドラゴン)だ、トカゲの赤ん坊ぐらいにしか思ってねえくせに!! 何処でも切れよ、切り刻んでせいぜい時間を無駄にしろ、バカども……!!」

ぎっ、と牙を剥いて。吠える。オルティを睨みつける。視線がかち合う。意外なほどに真っ直ぐな眼に、気圧(けお)されそうになりながら。
それでも、この意地だけは譲れなかった。

「ッだが……! 俺は竜って獣だ! ——たとえこの頭だけになっても!! 俺は俺の魂を賭けて、お前を殺してやる……!!」

オルティは、咥えていた煙草を消した。
その口元は、(たの)しげに微笑んでいる。そして再び、何事か手で合図した。……背後の気配が消えた。

「お前。名前は?」

咄嗟(とっさ)に答えられなかった。
名前。あるにはある。けれど、そんな事。誰も。一度だって尋ねやしなかった。
だから。その音を唇に乗せたのは、実のところ、初めてだったのだ。

「……エヴァグリーン」
「俺はオルティ。エヴァグリーン、取引をしよう。」

オルティはエヴァグリーンに近づくと、腰を屈めて目線を合わせる。革手袋の掌が、エヴァグリーンの髪を荒っぽく撫でた。まるで子供にそうするような手つきだった。

「と・り・ひ・き、だ。意味わかるか?」
「……バカにしてんのか、お前」

唸るエヴァグリーンに、オルティは目を細めて、ますます愉快そうに語りかける。

「俺を殺す依頼を反故(ほご)にしてくれたら、俺がお前の頼みをひとつ聞いてやる。悪い話じゃないだろう?」

エヴァグリーンは考える。
しかし、選択肢があると思うのか。ここで頷かなければ、確実にこのまま殺される。依頼を無かったことにするのは難しい事ではない。竜種の殺し屋はそもそも信用されていない。仕事を飛ぶのも失敗するのも織り込み済みの、安い仕事。
泥沼のような日々。泥水のようなコーヒー。
選択肢が、あると思うのか。それでもエヴァグリーンが頷けないのは、目の前で笑っているその男の真意がわからないせいだ。

「自分で言うのも何だが、俺は優秀な情報屋さんだぜ? どうする、エヴァグリーン?」

それでも。たとえ、藁に縋るようなものだとしても。エヴァグリーンはここで溺れているわけにはいかない。泥でも何でも啜って、立ち上がらねばならない。生き延びねばならない。
名前を名乗ったせいか。それとも、呼ばれたせいか。胸の底に沈めた影が、急速に浮上してくる。海鳴りが遠く響いた、気がした。

オルティの目を、見つめる。何もかもを見透かしているような、湖水のような碧い瞳を。下弦を花蜜に浸したような、冴え冴えとした瞳を。
もしも嵐の海で溺れ、縋り、見上げた先にあるのがこの星であったなら。きっと何度でも手を伸ばせると思った。

「……高く付くぞ。」

エヴァグリーンは、精一杯、虚勢を張った声を出したつもりだった。
けれど、それはまるで泡沫のように頼りなく、融けていった。

(続く)

#2 ウェルカム・トゥ・コンクリート・ジャングル

昼下がり。オルティ・クラヴィアドは、まだ暑い日差しを見上げた。
スリーピースの黒ずくめ、ハットも黒のフェドラ。おまけに黒のレザーの手袋。サングラスは淡いブラウンで、褐色の肌と白金色の髪によく馴染む。
汗ひとつかいていない。口元にわずかに笑みを浮かべたまま、彼はコンビニエンス・ストアの自動ドアを(くぐ)った。

気怠(けだる)げに来客を眺める店員が、わずかに身を強張らせた。オルティはフェドラを少し押し上げて目配せし、ひらひらと手を振る。そのまま店奥のドアへ。関係者以外立ち入り禁止、と警戒色を塗られたそれを押し開ける。バックヤードのさらに奥。在庫に隠れるようにあるエレベーターのボタンを押せば、それはチン、と軽快な音を立てた。

短い廊下の先。小さくプレートの貼られた磨りガラスの扉。クローバー貿易商会は、雑居ビルの上階にある。
扉を開ける前に、ネクタイを締め直し、フェドラの位置を少し直す。ジャケットを脱ぎ腕で抱く。裏地のワインレッドが鮮やかに(ひるがえ)る。そして満を持してドアを開ければ、——受付嬢をしているリズは、(おび)えた目をしていた。

オルティと目が合うと、彼女は安堵したようにオルティの元へ駆け寄ってくる。彼女は聾唖(ろうあ)である。焦りながらもよくわかる、丁寧な形の手話。それは、《竜》を形作った。奥扉からはメリーラムが困惑顔を覗かせている。彼女もまた、オルティを見留(みと)めて落ち着いたようだった。
そして、エナメル質のレザーで覆われたメリーラムの指先が、つうと事務所の奥、応接室のほうを指した。

「オルティさぁん……どうしましょぉ、あれぇ……。」

何事にも動じないメリーラムが。巨漢の金玉でもよいしょの一言で潰すあのメリーラムが、である。こんなに困っているのを見るのは初めてだ。オルティは激しく嫌な予感がした。急ぎ応接室へ向かうと、ちょうど若手がドアの方へと放り投げられ飛んできた。蛙のように伸びている。
ざっと見渡しただけで、両手で足りない数の社員が呻き声を上げながら転がっているのが見えた。窓ガラスはひび割れ、テーブルはへし折れている。観葉植物は見る影もなく、棚は倒れ、飾り物は全てカーペットに散らばっていた。まるで台風が部屋の真ん中に突っ込んできたようだ。その台風は悪びれもせず、唖然としているオルティを見つけると、ゆるく眉を上げた。

「……何してるんだ、お前」

オルティはやっと、それだけを口にした。

「何って、お前が今日来いって言ったんじゃねーか」
「俺は午後3時、と言わなかったか?」

面倒そうに、エヴァグリーンはオルティを睨む。呼びつけておいてオルティが居なかったことにおかんむりらしい。……転がっている時計はまだ1時過ぎ。どうやら時計は持たない主義のようだ。オルティは彼を刺激しないように、努めて冷静な声を出した。昨夜は彼を、高層ビルのエレベーターでも支えられるワイヤーで拘束していたのだ。下手をすれば彼のブーツがカーペットを蹴るのを見るまでもなく、壁だか天井だかの染みになるに違いない。

「……何か粗相があったか? 若い連中は血の気が多いだろうし……」

そう言いながらよくよく見れば、倒れた面子にはそこそこ古参も混じっている。単なるケンカとも思えない。ロータスが外出の日で良かった。あやうく事務所ごとめちゃくちゃになるところだ。

「俺はアレ持ってきただけだ」

そう言って気怠(けだる)げにエヴァグリーンが示したのは、ぼろぼろになったドラッグストアのビニール袋だ。裂け目から血が滴っていた。オルティは深々とため息をついた。……中身は見なくてもわかる。しかし、確かめないわけにもいかなかった。屈んで、指先でビニールの端をつまんでひっくり返す。案の定、ごろりと首が転がり出る。

「おい、誰だコイツ」

それは少なくとも、オルティには見覚えのある顔ではない。

「俺に依頼を寄越したヤツ。そいつも誰かから依頼されて、俺らに仕事回してるって言ってた」

下請けの下請け。
オルティは再び、大きくため息を吐いた。曲がりなりにもこの街で情報屋をやっているオルティに覚えがないということは、一般人(カタギ)に近い人間である可能性が高い。ましてや首だけになってしまえば、誰から仕事を受けていたのかさえわからない。

「余計なことしやがって……」

つい、オルティは唇からそう漏らしていた。
それを聞き咎め、エヴァグリーンはオルティを睨む。

「それだ。全員そう言ってた。お前に何も聞いてねえからって」

オルティはようやく合点がいった。だから、古参の連中も動いたのだ。彼らは若い連中より、よほど物事の道理(スジ)約定(ルール)を重んじている。
腕を組んで立つ、エヴァグリーンの眼差しはしんと冷えている。オルティを認めていない。燐光を放つ竜種の瞳が、至極(しごく)真っ当な目でオルティを”見下して”いる。

「何でお前の許可がいるんだ。お前は俺のボスでも何でもねえだろうが。」

一理ある。
あくまで『殺しを反故(ほご)にするように』取引しただけだ。エヴァグリーンに、オルティに従う理由はない。その辺りを社員たちにはきちんと説明していなかった。それは確かにオルティの落ち度である。
……落ち度では、あるが。
これを人間の社会では、『舐められている』と言うのだ。

「……成程な。つまり、俺がお前を認めさせれば済む話だ。」

竜種の長耳がぴくりと動いた。
オルティは挑発を重ねる。

「俺が勝てば文句はない、そういうことだな?」
「お前が? 俺に勝つ?」

エヴァグリーンは鼻で笑った。
昨日の『手品』では、彼の理屈では負けたうちに入らないのだろう。確かにあれはズルだ。オルティではない偽物だった。まともにやれば、ただの人間に負けるはずはない。そう思っているのだろう。

「寝言は寝て言えよ、人類種(ニンゲン)

嘲笑うエヴァグリーンの前で、オルティはゆるりと立ち上がる。フェドラとサングラスを、ドアの影で(おび)えているリズに手渡す。それからネクタイを緩め、シャツの首を(くつろ)げ、袖を捲った。
エヴァグリーンは余裕そうにそれを眺めていた。
——この期に及んでまだ、自分のフィールドで勝負ができると思っている。その素直さがオルティには眩しく、そして、まだ青い。

大きくジャケットを広げながら投げつける。単純な目眩しだ。が、予想外だったらしい。エヴァグリーンは一瞬怯んだ。それはオルティには予想通りだ。舐められたものだと怒りを露わに、彼が爪を振るうことさえ。

「——舐めるなよ、人間ッッ!」

エヴァグリーンは血を集め、指先を鋭く硬化させた。それは竜種の『血の魔法』と呼ばれる技だ。
緋色の爪がジャケットを裂く。千切れ飛ぶ布の向こうで、オルティは笑っていた。

真っ直ぐに銃を構えて。

「舐めてなんかないさ。」

クリアな銃声がひとつ響いた。
……大きく後退ったエヴァグリーンの額に。ちょんと乗っかっているのは、吸盤でくっつく玩具(オモチャ)の弾だ。ご丁寧に小さな旗がついて、笑顔のマークが描かれている。

「……あ?」

竜種のそこに、脳はない。急所ではない。
それでも。意表を突かれ、屈辱を与えられた。その現実が貼り付いている。オルティは、エヴァグリーンの背後の壁に手を突いた。いつの間にか壁際まで追い詰められていたことにエヴァグリーンは驚き、言葉もなくオルティを見上げた。

「次は実弾でやるからな」

オルティは勝利の笑みを湛えていた。それは冗談めかした口調だが、無論、本気である。

「……えー……事務所を壊したこと……勝手に手がかりを消したこと……あと会長への暴言と反抗(ハンコー)? とか……そういうのをしました。謹んでオワビをもーしあげます」

赤くなりながら、もぐもぐと謝罪の言葉を唇で()ねているエヴァグリーンを見て、オルティは和やかに笑う。

「うん。一旦許す」
「一旦……」
「当たり前だろ、こんなに無茶苦茶にしやがって。 金だってかかる。ウチは小さな零細企業(ヤクザ)だぞ?」

怪我人が全員大したことなかったのは良かったが。もちろん、エヴァグリーンも誰かを殺すつもりはなかっただろう。それは承知している。殺意があったなら、誰ひとり生きてはいまい。エヴァグリーンはただ、彼らに喧嘩を売られたと思ったから買ったのだ。

オルティは応接室の比較的まだ無事なソファに腰掛けて、もう何本目かになる煙草に火をつける。吸わずにいられない。ぱちぱちと火花の爆ぜる音。ガラムの煙が重く、甘ったるく香った。
ため息混じりに、髪をいじくりながら。オルティはエヴァグリーンを見上げた。

「人類種の事情なんか、お前には知ったことじゃないだろうが……。俺たちはみんなトヲラス人だ。この国じゃ肩身が狭い。」

エヴァグリーンは、応接室の外をちらと見た。
確かに、この事務所に集った人間は皆、一様に色の濃い肌と淡い髪色をしている。それは海を超え、遥か東方に住む人々の特徴であるという。

「この国とトヲラスは、戦争をしたからな。だから、ここでトヲラス人が生きていくには、ただ敬虔(けいけん)に暮らすだけでは足りなかったんだ。」

やむにやまれぬ事情で、この国で生きるトヲラス人たち。この『クローバー貿易商会』は、そのための寄り合いであり、最後の砦だ。オルティはその会長として——氏族(クラン)の長として、この瀬に立ち続けているのだった。

……ふう、と。オルティが長く細く紫煙を吐き出す。ぱちぱちと爆ぜるガラム・スーリヤが、折れたテーブルに小さく火種を落とした。それは一瞬朱く光ったかと思うと、すぐに黒く燃え尽きた。
オルティはじっと、目を細めてそれを眺めていたが、ややあって、唇を開く。

「なあ、エヴァグリーン。お前、うちで働かないか?」
「なんだ、急に」

エヴァグリーンは眉根を寄せる。何かの冗談だろうとでも言いたげな顔だ。
その顔を見て、オルティは笑った。

「お互いに悪い話じゃないと思うが。俺たちは表だって武装なんかできない。下手すりゃまた戦争になるからな。その点、竜種ってのは、最高の武器だ。」

オルティの瞳が悪戯っぽく輝く。
その瞳は、星を散らしたような美しい色合いをしている。それが熱っぽく、エヴァグリーンを見つめる。
そして、柔らかく唇を開いて。オルティは、その言葉を口にした。

「エヴァグリーン。俺にはお前が必要だ。」

静寂。
時が止まったかのような、長い沈黙を経て、エヴァグリーンはようやくその言葉を反芻する。まるで知らない言葉のように、鸚鵡(おうむ)返しに唇を動かす。

「俺が……ひつよう?」

——ごぼり。泡沫の昇っていく音が、どこかで響いた気がする。
エヴァグリーンはひどく困惑していた。泣き出しそうな、あるいは笑い出しそうなその表情は、紛れもなく訴えていた。
初めて、誰かに必要とされた、と。
そんな顔をしている。何も疑わない、ただ与えられた言葉を噛み締めて。
……なんと素直で、扱いやすいのだろうか。

オルティはうっすらと、微笑んだ。そんな顔をされては、詐欺にかけたようで悪い気がする。オルティは話題を変えるように、わざとらしく明るい声を出した。

「ああ、もちろん俺の命の取引とは別な? ひとつ言うこと聞いてやるってヤツ。それも決まってるなら今聞くが」
「んえ? あ、おう」

しかしエヴァグリーンは躊躇うように、視線を床へ落とし、落ち着きなく床目を見ている。オルティにそれを告げることを迷っているらしい。先ほどとは別の沈黙が、二人を包んでいる。
ようやく開かれた唇は、ひどくしおらしい言葉を発した。

「……笑わねーか?」
「笑わないさ」

間髪を入れず。
それでエヴァグリーンも、覚悟を決めたらしい。やや口籠もりながら、言葉を続ける。

「……探してる(ふね)がある。イーデンって艦……。」

それはあまりに意外な言葉だった。
つい、オルティも返しに詰まる。

「ええと……都市伝説の幽霊船か? 蒐集戦艦、だよな?」
「都市伝説じゃねえ!」

今度はエヴァグリーンが、食い気味に声を上げた。そして、苦々しげに唇を噛む。

「イーデンは本当にある!! でも、俺じゃ見つけられなかったんだよ……!」

オルティは考えるふりをした。
この商談は、うまくいきすぎている。それはエヴァグリーンが素直で、寂しがりな子供のようだから、というだけではない。これは危険な賭けになると、オルティはどこかで直感している。

……無意識に、頬の向かい傷を撫でていたことに気づく。ひと呼吸置いて、オルティはもう一度、エヴァグリーンに尋ねた。

「それを見つけて、どうする気なんだ」
「決まってるだろうが……!!」

エヴァグリーンは声を荒げる。
よほど気に触る思い出があるらしい。吐き捨てるように言う。ぎゅっと拳を握り込んで、その手は小さく震えていた。

「沈める!! 二度と浮かんでこねえように、木っ端微塵にして沈めてやる……!!」

オルティは、サングラスを手に取る。
それを鼻梁(はなすじ)に乗せて、指で押し上げる。手で隠した口元は、歪んだ笑みを湛えていた。それから、オルティはトヲラス語で、一言だけ呟いた。

「……了解(アリアール)♡」

(続く)

#3 キックスタート・ホーム・スイート・ホーム

じゃぶじゃぶと威勢のいい水音が響いている。
エヴァグリーンも始めはそれこそ、野良猫のように元気に抗議し抵抗していた。むりくりシャワー室に突っ込まれた辺りからは、諦めたように大人しくなった。
なぜマフィアの事務所に広々としたシャワー室があるのかは、知らないほうが幸せなのだろう。
オルティはそこでため息を連発しながら、がしがしとエヴァグリーンの頭を洗っている。しっかりしたラテックスの手袋越しに。これもまた、普段は何に使うのかを知るべきではない。

「こんな時に限って、なんだってロータスは外出なんだ……。」

オルティの愚痴も文句もため息も、ひとつも止まることはない。もはや聞き飽きたエヴァグリーンは低く唸る。

「やらなきゃいいだだけろうが……。」
「うるせえな。ウチの社員になるんなら俺の方針には従ってもらう」
「だからって何で……ッおい顔にかけんな!」

無視。ざばざばとエヴァグリーンを湯で流しながら、オルティはその竜種らしく、ぴんと尖った長耳をぎゅっと引っ張る。そして、事務所中に響くような声を張り上げる。

「お前が! ひとりでシャワーも! 浴びられん馬鹿だからだろうが!!」
「ちゃんと浴びただろ!!」
「あんなもん顔を洗ったうちにも入るか!! いいから黙ってろ!!」

泡だったタオルを肌表に擦り付けられ、エヴァグリーンはぎゅっと身を捩る。泡と水滴が容赦なく飛び、オルティはそれをべっとりと浴びた。シャツもスラックスももう水浸しだ。こうなればもう、ヤケだ。

「ッ変なとこ触んなって! 聞けよお前!!」
「俺だって触りたくて触ってねえんだよ!!」

エヴァグリーンが着ていた服は、肌着から靴まで全てひん剥かれて、すでにゴミ箱にダンクされている。
竜種は社会的に何の権利も持たない。衣食住は保証されていない。橋の下に住んでいるし、河水で全てを済ませているし、生ゴミを漁り食っている。
竜種は強靭だから、それでも死にはしないだろう。生きていけるのだろう。
だから何だ。
オルティ・クラヴィアドは、自他共に認める潔癖症なのである。

「……指、治ってるな。」

ふと、オルティはエヴァグリーンの手を取って、しげしげと眺めた。メリーラムが切り落としたはずの指が、きちんと揃っていた。竜種の再生能力については知識として知っていたが、目の当たりにするのは初めてだ。
竜種は『心核(しんかく)』という臓器を中心とする循環器動物である。つまりは全身が、ひとつの巨大な心臓のような生き物だ。その血液は、もはや金属と呼べるほどに重く濃い。それこそが彼らの『血の魔法』の源であり、再生力の源でもあった。
言うなれば竜種にとって身体とは、心核に(まと)いつく、血肉でできた粘土だ。少し()ねれば形が変わる。人のような姿をしているのは擬態にすぎず、気に入った形、心の形とでも言うべきものだった。
だから、竜種は人間とは違う。橋の下だろうがどこだろうが生きていける。
——だから使い捨てられるのだ。この人でなしの(けだもの)たちは。
オルティは、暗い眼をしてそれを見る。
アルスとトヲラスの戦争が激化したのは、アルスが竜種を兵器として運用したためでもあった。
あまりに長い間オルティがじっと眺めているので、エヴァグリーンは怪訝(けげん)な顔をした。

「……また切る気じゃねえだろうな。」
「お前がちゃんと風呂に入って清潔な服を着てくれれば、切りやしないさ。」

軽口とともに、オルティは泡を流した。

夕暮れの街は燦々(さんさん)と赤い。
西日に目を細めながら、エヴァグリーンはオルティの後ろを歩く。袖の余るツナギを着せられて。それは倉庫に突っ込まれていた余り物の、コンビニの制服だった。そして下着とサンダルはコンビニの売り物だ。
オルティはといえば、事務所にいくつか着替えを置いている。まるで変わり映えのないスーツ姿だが、ジャケットだけは替えがなかったらしい。シャツにネクタイとスラックスだけの簡単な出立ちだった。

エヴァグリーンは、よほど逃げ出そうかと思った。陽の明るい時間帯に、フードも被らずに出歩くのはほとんどない事だ。長耳はすぐに竜種だと気付かれるからだ。まだ少し芯の濡れた髪が風に触れている。それがなんだか、居心地が悪い。
逃げ出さなかった理由は、ただ、単純な話で。
だって、逃げて何になる?
どうせ、何処へも行けはしないのに。

オルティは次から次へと、エヴァグリーンを服屋に連れ込んだ。店員がトヲラス人と竜種のふたりを見て、嫌な顔をするのにも構わない。フィッティングを繰り返し、しかしエヴァグリーンの意見はほとんど聞かない。
というのは、布なら良しのエヴァグリーンのセンスがあまりにも壊滅していたせいだ。季節感も色合いもあったものではない。オルティは散々呆れ、苦言を呈し、頭を抱え、最後には目が()わっていた。

「分かんねえんならマネキンのやつ、上から下まで買っときゃいいんだ。」

遠い目をしたオルティが言う。買ったばかりのマウンテンパーカーをエヴァグリーンに被せて、その目はようやく、少しだけ和らいだ。

「ほら。似合うじゃないか」

エヴァグリーンは、フードを深く被る。軽やかだった。なんとなく、肌に合っていると感じた。
ただ正直、意味がわからなかった。
仕事をさせたいから、雇うって言ったんじゃないのか。だというのに、体を洗って、服を寄越して。
なぜ、この男はこんなことをしているのか。それがわからない。
それが、パーカーの軽さとは裏腹に、何かひどく重いもののように感じた。

「今日は事務所に泊めてやる。明日には部屋を用意させよう。ああ、連絡手段も必要だな、身分証は……どうしたものかな。」

オルティは指折り数えながら、エヴァグリーンに必要なものを確認する。随分慣れた仕事のようだ。東国料理の屋台は、金さえ払えば畜生でも客だと言わんばかりだ。初めは胡散臭そうな顔をしていた店主も、オルティが少し多い金を机に乗せた時から、何も言わなくなった。エヴァグリーンのむちゃくちゃなカトラリーの使い方には、さすがに目を剥いていたが。
赤い色をした麺は、食べたことのない味がした。喉が焼けそうに辛いのに、次のひと口に手が伸びる。エヴァグリーンはそれを気に入った。オルティはその食べっぷりを眺めてばかりで、しまいには自分の分までエヴァグリーンの器に乗せた。

「お前、こんなことばっかりしてるのか」
「ウチの社員のそういう面倒は、だいたい俺が手配したな。」
「……そうじゃねえ。麺。」

オルティは肩をすくめる。
麺だけではない。風呂も。服も。部屋だって。
これまでエヴァグリーンの生活には、『与えられる』ということがなかった。それを立て続けに何度も浴びせられ、エヴァグリーンは喜ぶより先に困惑していた。

「要らなかったか?」
「だから、……もういい。ワケがわからん。」

諦めて麺を(すす)りはじめたエヴァグリーンに、オルティは慈しむような目を向けた。

「俺はただ、人間ならそれを全部、当たり前に持っているべきだと思ってるだけさ。」
「……んだそりゃ。頭おかしいぞ、お前」
「そうかもな? どうだ、頭のおかしい男に拾われた身としては?」
「さあな。お前みたいな人間ほかに知らねえし」

真面目な返事に、オルティは愉快そうに笑った。器に残った蕹菜(ようさい)を口に運び、それだけで満足そうにして煙草を吸い始める。

「投資だよ、投資。お前も早く立派になって、今日の何倍も稼いでくれよな。」

本当に変な奴だ。
ヤクザが律儀(りちぎ)に携帯灰皿なんぞ持ち歩くなよ、とは、エヴァグリーンは言わずにおいた。

それからしばらく。エヴァグリーンは用意された部屋から、ただ事務所に通い詰めるだけの暮らしをしていた。
殺しの仕事なんか、そうそう頻繁にあるものではない。オルティや社員たちの護衛をする。つまりは『そこに居る』のが主な仕事だった。

ぼんやりと、事務所の一角からそれぞれの仕事を眺める。事務所の中はのんびりとしたものだった。どういう類の仕事なのか、エヴァグリーンにはいまひとつ理解できない。帳簿というものを作ったりしているらしい。
外商や、執行、と呼ばれる社員たちが忙しなく出入りしていた。特に執行の社員は荒っぽく、見た目にも妙な迫力がある。彼らはある種の暴力に長けているのだろう、とエヴァグリーンは考えている。そして、それをまとめているのがロータスだった。

ロータスはいつも底抜けに明るい。事務所に入ってくれば大きな声で挨拶をする。エヴァグリーンの顔を見れば、いつも感心したように「御苦労さん!」と言う。……何も苦労した覚えはない。
メリーラム、あの日エヴァグリーンの全身を(なます)切りにするところだった彼女はといえば、普段はまるきり暇そうにしていた。たまに事務所の掃除をして、エヴァグリーンが座り込んでいると邪魔くさそうにする。その他の時間は雑誌を眺めているか、受付嬢のリズと無言の談笑をしている。
そのリズには、ずっと怯えられていた。エヴァグリーンもエヴァグリーンで、聾唖(ろうあ)の彼女にどう接していいかわからなかった。なんとなく手を振ってみたりした。親しくなりたいわけではないが、別に敵意もなかったからだ。その甲斐あってか、近頃はエヴァグリーンが事務所に入る時、笑顔で迎えてくれるようになった。

オルティは大抵、席に着いて何か難しい顔をしているか、どこかへ出掛けていた。他の社員を伴っていることもあった。事務所へ戻ればあちこちで社員に話しかけて、あるいは話しかけられていた。エヴァグリーンが何か賑やかだなと思う時はおおむね、オルティが社員たちと話をしている時だった。

「エヴァグリーン」

社員に囲まれたオルティが呼んでいる。
何かの箱を持っていた。甘い匂いがした。箱にはカラフルなドーナツが詰まっていて、ロータスはそれを見ては、嬉しそうな声にいくつも感嘆符をつけている。

「ひとつずつな?」

そう言われても、エヴァグリーンにはドーナツの良し悪しなど分からない。何だかカラフルなことはわかるが、それだけだ。困って顔を上げると、オルティは笑っていた。

「全部同じ味だ。色だけだよ。」

適当に選んだ甘ったるいドーナツを、もぐもぐと齧る。横にオルティがやってきて適当な椅子に腰掛ける。並んでドーナツを齧る。
事務所は甘い香りに包まれて、藹々(あいあい)としていた。

「お前らって仲良いよな」

ドーナツを腹に収めて、ふと、思ったことを口にした。オルティはちまちまとドーナツを齧りながら、エヴァグリーンに相槌を打つ。

「だな」
「仕事相手だろ。お前、雇い主だろ?」
「そうだ」
「金のやり取りだけで充分だろ。ドーナツなんか買ってきてどうすんだよ」
「コミュニケーション」
「なんだそれ」

オルティはやっとドーナツを食べ切ると、何故だか少しだけ、遠くを見るような顔をした。

「人と人が何かをしようと思っても、一足(いっそく)飛びに何でもできるわけじゃない。円滑にはすすまない。だから日頃からコミュニケーションを取るんだ。」
「それとドーナツと何の関係がある」
「それが分かるようになれば、お前も少しは人間らしくなったってことだろ」

何か馬鹿にされている気がする。抗議しようとオルティのほうを見る。その口元に笑みはない。楽しそうな声が聞こえるほうをじっと見て、ゆっくりと目を伏せた。

「……仲が良すぎるんだ。本当はお前の言う通り、仕事は仕事で割り切ってもらいたいんだが……。」

含みのある言葉だったが、エヴァグリーンは、それ以上聞かなかった。

あくる日、ロータスは、エヴァグリーンを市場へと連れていった。そこはトヲラス人のコミュニティのひとつで、クローバー貿易商会がケツを持っている。
つまり、エヴァグリーンの守備範囲でもあるというわけだ。
ロータスはどの店でも、気さくに人と関わっていた。市場のトヲラス人たちはエヴァグリーンを見ると、一瞬ぎょっとした顔をする。しかし、ロータスがひっきりなしにエヴァグリーンに話しかけて物を教えているのを見ると、警戒を解いたように表情を和らげる。
コミュニケーション。
そうオルティが言っていたのを、思い出す。

「……変な奴だよな、あいつ」

市場を歩きながら。エヴァグリーンは、ロータスにオルティのことをそう尋ねた。ロータスは豪快に笑う。

「オルティさんが拾ってきた奴って、大概そういう顔するんだよなあ!」

それが何だか、思う壺のようで腑に落ちない。
別にあいつの手の内に収まる気はない。単なる契約だ。船を見つけてもらった後、オルティを殺して逃げても構わないワケだ。
……その後どうするかは考えない。

「ま、安心したよ。とうとう竜種かよと思った割には、お前は馴染んでくれてるしな!」

ロータスはわしわしとエヴァグリーンの頭を撫でる。よせと言っているのに、ロータスは何度もエヴァグリーンにそうしたがった。しまいにはエヴァグリーンが折れて、されるがままになっている。

「思ったよりは、オルティさんの手を煩わせることも無さそうだ」

ロータスはオルティに並ぶほどの背丈だったが、体格はロータスのほうがよほどしっかりしていた。太い肩周りは隆々として逞しい。小柄なエヴァグリーンと並んでいると、まるでウルフドッグとポメラニアンが連れ立っているようだった。それで言うとオルティは毛足の長いハウンドで、メリーラムはふさふさとした中型のコリー。
ロータスのほうが群れのリーダーでも不思議ではない。大きくて、力があるのだから。

「何でお前、あいつの下に付いてんだ?」

エヴァグリーンがよほど不思議な顔をしていたのか。ロータスは大笑いした。

「お前だってオルティさんに負けたんだろ! 俺もだ!!」

ひとしきり笑って、ロータスはエヴァグリーンの背をぱんと叩く。痛い。

「殴り合いで負けた、とかそういうんじゃなくてさ。ああこの人には敵わないな、って思わされた。お前もそうじゃないのか?」
「……俺はそんな事思ってねえ。」
「はいはい、そういうことにしとく」

それ以上言い返さなかったのは、図星だったからだ。殺せるとは思う。だが、勝てるとは思えない。
ロータスはそれからも、オルティに対する尊敬の念を語り続けた。敬愛するボスがいかに凄いのか。その信念、偉業、素晴らしさ。それはまるで恋焦がれる乙女のように。

——仲が良すぎるんだ。
オルティのその言葉の意味が、少しだけ理解できた気がした。

(続く)

#4 ディスイズ・ニュー・ペインキラー

ロータスと事務所に戻ると、オルティのデスクに齧り付くようにして、アルシァラがキレていた。
彼は『外商』と呼ばれる社員だ。トヲラス人の中では偉い血統だかなんだか知らないが、エヴァグリーンは彼を嫌っていた。ケツの穴が小さいとは、こいつのためにある言葉だといつも思う。

「元はあんたの客でしょう。だからあんたが巻き取るべきだ」

そう言って、アルシァラは睨むようにオルティを見下ろす。オルティは何度か反論したが、しまいには諦めたように「分かった」と言って、アルシァラを下がらせた。

「羽なしの癖に。色違いってのは、そんなに偉いのかよ。」

アルシァラは立ち去り際にそう吐き捨てた。
エヴァグリーンにも聞こえたのだから、オルティにも聞こえただろう。オルティは涼しい顔で、それを聞き流している。そして徐に立ち上がると、エヴァグリーンの方へやってきた。

「行くぞ、仕事だ。」

オルティに連れられてやってきたのは、商会ビルからほど近い地下駐車場だ。そこも商会の持ち物らしい。
その奥に停められている車を見て、エヴァグリーンは思わず、げえ、と声を漏らした。トリノ・バード。あの日それに乗っていた……正しくは乗っていたのは偽のオルティだったのだが、とにかくオルティを殺し損ねた因縁のクラシック・カーだ。

「直したのか、これ」

あの時盛大に横滑りして、ガードレールに突っ込んでいた気がする。それに、ルーフのガラスはエヴァグリーンが叩き割ったのだ。鉄の天井に差し変わっているようだが、ボンネットも激しくひしゃげていたはずだ。
オルティは自慢げに、得意げに笑んでいる。

「あいつの部品で残ってるのはエンジンとシャシーぐらいだな。他は別の車から剥がして持ってきた。誰かさんがボコボコに壊してくれたんでな」
「……俺だって、仕事だったんだ」
「分かってるさ。だから請求したりしてないだろ? それにほら」

オルティは懐から取り出したリモコンキーのボタンを押す。ロックの外れる音がした。

「ついでだから電子ロックに変えた。窓もパワーウインドにしたんだぜ?」
「したんだぜ、じゃねーよ知らねえよ」

オルティはエヴァグリーンを助手席に乗せると、車をゆっくりと発進させた。外観は完全にクラシックだが、内装は古臭くない。オルティのガラムの匂いがする。

「……さっきの。どういう意味だ」

しばらく走ったところで、ぽつりと尋ねた。

「さっきのって?」
「惚けるなよ。『羽なし』とか『色違い』とか、あいつが言ってただろ——」

オルティが急ブレーキをかけたので、エヴァグリーンはつんのめった。赤信号だった。文句を言うエヴァグリーンに、オルティはただ、「シートベルト」とだけ言う。
それから煙草を手に取って、火を点ける。シガーソケットは旧車のままらしい。
やがて信号は青に変わり、再びゆるやかに車は走り出す。オルティも、ゆるやかに語り始めた。

「……言葉通りの意味だ。俺は羽がない。それだけだ。トヲラス人には階級制度(カースト)がある。背中に羽のある『天狗』(シエルトリアナ)がいちばん偉い」

そういえば。
アルシァラの背中には立派な六枚の羽がある。火のように赤い翼。エヴァグリーンはなるほどと思う。奴の器の小ささの理由に思い至った。

「俺にはそれがないのに、あいつより上の立場にいるから。だからあいつは気に入らないんだよ。」

煙草がゆるりと燃え尽きた後。オルティはサングラスを外し、エヴァグリーンのほうをちらと見た。
星の散ったような瞳。下弦を蜜に浸したように、碧から金蜜色へと切り替わる、冴え冴えと美しい瞳の色。

「『色違い』っていうのは、これだ。」

すぐにサングラスの下になり、その瞳は見えなくなる。確かに美しい瞳かもしれないが、それだけだ。何がアルシァラの気に触るのかわからなかった。それを聞き返さないうちに、車はゆっくりと、街の大きなレストランの裏手に辿り着いていた。
レストランのボーイが車に寄ってきて、ぎょっとする。とてもこの場にそぐわないラフな格好の、それも竜種が降りてきたからだろう。
作法のわからないエヴァグリーンがボーイを睨みつけていると、オルティは彼に車のキーを預けながら何言か会話した。すると彼は大慌てでインカムに呼びかけ、直ぐに店内から何人もの男たちが駆け出して来る。
そして彼らに見守られつつ、オルティは上着やハットを預けつつ。——サングラスも外して。店内へと導かれる。
エヴァグリーンもその後に続いた。ボーイはまだ恨めしそうな顔をしていた。

案内に従って個室へと入ると、そこには物々しい様子の、黒服の男たちがいる。エヴァグリーンは、彼らは同業者だと直感した。暴力で食ってる奴らだ。
そして、その真ん中に(きら)びやかな男がひとり座っている。金の髪、青い瞳。彫像のような均整の取れた顔立ち。艶やかな白い肌。絵に描いたような美男子である。身につけたものも上等なものばかりだ。ぶら下げた重たそうな金のネックレスや、両手の指にいくつも並ぶ金のリング。金持ち、と全力でアピールする風体。
彼はオルティを見つけると、ぱっと表情を明るくする。待ち侘びたと言わんばかりの顔で、ワインを傾けながら。

「やあ、愛しの仔猫ちゃん。待ってたよ!」

……こんなに嫌な顔をするオルティを、エヴァグリーンは初めて見た。よくもほんの少しだけ、笑みを強張らせた程度で済ませている。目がちっとも笑っていないどころか、今すぐにでも目の前の男にくってかかり、(くび)り殺しそうだ。少なくともエヴァグリーンにはそう見える。

エルドラド・ドゥ・ナスタヤーシャ・ヴィア・アマデウス3世。
それがその男の名前だった。3世、と(うやうや)しく呼ぶオルティに「エルディでいいよ」と笑いかける。オルティが不快そうにしていることは意に介さない様子である。
そのオルティも、エルドラドとは系統が異なるが美しい男である。華やかで煌びやかな男が並んで、妙に眩しい。しかし、エヴァグリーンはエルドラドの眩しさを、どこか下品なものに感じている。主張の激しい金のアクセサリーや、オルティへの秋波(しゅうは)のせいかもしれない。

「代わりの人を寄越すなんて。そんなつれないことしないでよ。ただ食事に誘っただけじゃないか。」

アルシァラの不機嫌の理由はこれか。
エヴァグリーンにもようやく得心がいく。きっと彼はオルティを連れてくるようにと再三要求して、ついにはアルシァラが爆発したのだろう。それがあのデスクでのやり取りになったのだ。

「すぐワインを持って来させよう。ほら、座って!」
「ワインは結構です。車ですから。」
「そんなの車ごと送らせるのに!」

エルドラドは、エヴァグリーンのことを完全に無視している。清々しいほどに。彼の護衛らしい黒服どもといい、人を使うことに慣れているのだろう。彼にとって、奴隷が側に控えているのは当たり前で、特別なことではない。風景と同じだから、視界に入っていても目には留まらない。

渋々、テーブルについたオルティは、全身から嫌なオーラが漂っている気がする。美麗で逞しいハウンドの面影はどこへやら、それこそ仔猫が毛を逆立てているときのようだ。
エヴァグリーンはオルティに促されるまま一歩引くと、壁際に立ち、壁に背を預けた。
そしてエルドラドは店の者を呼び、食事を出させ、オルティには何度もワインを勧めた。その都度オルティは「車ですから」と言う羽目になった。

食事は会話を交え、和やかに進む。
オルティはその殆どを口にしていないが、エルドラドは気にしていない。いつものことらしい。
話題はどれもくだらない世間話だが、お世辞にも盛り上がっているとは言い難い。エルドラドが何かを言うと、オルティは「はい」「そうですか」「すごいですね」「結構です」……これのルーチンである。しかし彼はそれで満足らしかった。

「そういえばさ、有名な女優が引退するって……あれ誰だっけ?」
「存じ上げません」
「まあいいや、俺も興味ない」
「そうですか」
「軍警は近々、大規模なドラッグの摘発するっていうし。」
「よくご存知ですね」
「あれ、仔猫ちゃんとこはドラッグ(さば)いてないんだっけ?」
「はい」
「そっか、忘れてたよ」

ずっとこの調子だ。
察するに、政財界に顔が利くスポンサー、といったところか。無碍(むげ)にできないのも頷ける。
食後のワインを傾けて、エルドラドはようやく、数軒の銘柄の株価について尋ねた。オルティがまともに答えた質問はそれぐらいだった。

「うん、ありがとう。参考になるよ」
「そうですか」

最後まで、オルティが頑なな態度を崩すことはなかった。だというのに、エルドラドは少しも萎えた素振りを見せない。それどころか、オルティがそうした反応を示す度に彼は前のめりになる。オルティを見つめる瞳にも熱が入る。
エルドラドは、青い目をすっと細める。まるで芸術品を眺め、愛でるようにオルティを見る。

「……仔猫ちゃん、やっぱり考え直さない? うちにおいでよ。それだけでいいんだけど。」
「何度も申し上げておりますが、お断りします」
「そうだよね。でも気が変わるかもしれないし。」

オルティは目を伏せる。変わるわけがないだろうとでも言いたげに。
エルドラドはそこに手を伸ばすと、オルティに上を向かせる。照明に照らされて、『色違い』の瞳がきらきらと揺れた。

「やっぱり、綺麗だね。素敵だよ。」
「止めてください」

強い拒絶だった。
これまでの会話でのらりくらりと、エルドラドの秋波を(かわ)していたオルティが。今初めて、震えるほどの嫌悪感をその唇に乗せている。エルドラドは(ひる)まなかった。その嫌悪さえも飴玉のように、舌先で転がす。

「俺は君が欲しいだけだ。金なら幾らでもある。幾らで買える?」
「売り物ではありません。放してください。」
「知ってる。……でも諦めないよ。君がうんと言ってくれるまで。」

そして、エルドラドはそっと、艶やかな唇をオルティの耳元へ寄せた。

「俺のペットになってくれるまで、ね。」

オルティは弾かれたように顔を背けた。振り上げようとした拳が途中で止まり、わなわなと震えていた。壁際に並んでいた黒服が飛び掛かろうとしたので、エヴァグリーンは彼らを睨みつけた。
——先に俺の主人を侮辱したのは、そっちだろうが。

店を出て車に乗り込んだ後も、オルティはしばらく無言でいた。エヴァグリーンも何も聞かなかった。それぐらい、あの時オルティが見せた拒絶は鋭く、冷たかった。
信号で止まってようやく、オルティは重い溜息を盛大に吐く。やっと息ができたとでも言うように。

「……頼むから経済紙でも買ってくれよ……」

いつも涼しい顔をしていたオルティが、まるでラッシュアワーに揉まれたサラリーマンのような顔になっている。エヴァグリーンは何か慰めの言葉でもかけてやろうかと唇を開いたが。それより先に。

「っっんとに死ねよあの変態!!!!!!!」

オルティが叫んだ。
信号が青になり、車がぐんと加速する。

「エヴァグリーン!付き合え!」
「お、おう。何だ、急に」
「メシを食う!!!」

……お前さっきまで何してたんだ。

オルティに連れてこられたのは、モーテルに併設の小さなバーガーショップだった。
店の終わりかけの時間らしく、人はまばらだ。オルティはチョコレートサンデーを注文した。器からはみ出て、落ちるほどに盛り付けられた砂糖の塊。それが運ばれてくると、オルティは貪るような勢いでかき込む。よほど腹に据えかねているようだ。
普段の冷静な仕事人とのギャップに、エヴァグリーンは思わず、掴んでいたバーガーを取り落としそうになった。

「……彼とはパーティで会ったんだ。まともな集まりじゃない。悪趣味なやつだ。」

ようやく気分が落ち着いたのか、オルティはそう語り始める。わざわざ注釈をつけるからには、いわゆる上流階級的な集まりではないのだろう。

「ゴールドラッシュか何かの成金の3代目だそうだ。寝転んでいるだけで金が入ってくるような連中だ。株式投資なんか、飯事(ままごと)にもならん。」

パーティで、エルドラドはオルティを見初めた。
オルティはその日のことを忘れないだろう。忘れようとしても忘れられないだろう。よく知らない金持ちがすたすたと近づいてきたと思ったら、急に小切手を切って目の前に突きつけてくる。

「君。俺のペットにならないか?」

その場でぶん殴らなかったことを、今でも後悔している。あまりに突然の申し出に、咄嗟(とっさ)に言い返すこともできなかった。ようやく事情を飲み込めた頭が、固まった身体に指示を出し始める。そしてオルティは、やっとの思いで「お断りします」と口にした。

「……『色違い』ってのは、珍しい確率でしか生まれてこないらしい。三毛猫のオスみたいなものだ。それで、……なんだか価値があるんだと。」

数万匹に1匹だけ生まれる三毛猫のオス。ひどく珍しいとされるその猫は、幸運を呼び込む象徴とされた。血統がついていれば相当な高額で取引されることもあり、時にニュースを賑わせたりもする。
オルティは、それをくだらないと言い切った。諦念(ていねん)がありありと見てとれた。

「昔からさ。『色違い』だとすり寄られて、トヲラス人だからと嫌われる。俺の努力も得意不得意も関係ない。大多数にとっては、俺に貼られたラベルの方がよほど価値を持つ」

アルシァラがその目の色を(さげす)むように。
エルドラドがその目の色を欲しがるように。
彼らはオルティという個人ではなく、オルティの目の色でその価値を測っていた。トヲラス人だから、というところもそうだ。エヴァグリーンには、それはひどく馴染みのある価値観だった。竜種だからと蔑まれ、使い捨てられる。
……だからだ。だから、オルティはエヴァグリーンの手を取った。その理不尽に抗って欲しいと望んだ。そういう意味で、彼らは同朋だったから。

「たかが目の色ひとつ、人種ひとつで。そんな事でさ……他人の人生を左右できるんだ。そういう視線を誰もが当たり前に持っている。はっきり言って異常だろ。」

深いデザートグラスに長柄のスプーンを放り込んで、オルティはまだ足りないとばかりに煙草に手を伸ばす。今朝は新品だったその箱の中身は、もうこれ一本でカンバンだった。

「お前……さ。なんつーか……お人好しなんだな。マジで。」

自分だって理不尽に振り回されているくせに。行き場のないトヲラス人を次々と迎え入れている。しまいには竜種まで抱え込んだ。ただ自分が抗っていたいから。人間を値踏みする世間に、中指を立てていたいから。
エヴァグリーンの言葉を聞き届けて、オルティはやっと、微かに笑みを取り戻した。

「お前を拾ったことを言ってるなら、俺はそんな大した奴じゃない。ただ都合の良いところにお前がいたからだ。」
「充分だろ。……じゃあ俺が勝手に有り難がってるって、そう思っとけよ。」

オルティは意外そうに目を丸くする。エヴァグリーンは、そっぽを向いてバーガーに齧り付く。美味かった。充分だった。その味だけで。オルティのその表情だけでも。

——初めて、この男が案外、手近な所にいるのかも知れないと思い始めた。それだけで、良かった。

(続く)

#5 グレート・ギグ・イン・パラダイス・シティ

夜景をバックに、煌々(こうこう)とライトアップされた建物が(そび)え立つ。宮殿かと思うほどの馬鹿でかい建物をはじめ、街のあちこちが鮮やかなネオンで飾られている。看板には白熱電球がいくつも並ぶ。ちかちかと明滅が切り替わり、まるで光が流れているようだ。光の洪水のような街だ、と思った。もう日が落ちているのに、ここだけはいつまでも明るい。
エヴァグリーンは自分がまるで場違いな場所に居ると感じていた。道ゆく者たちもみな一様に上品な装いで、かつて見たことのある繁華街とは違った風景に見える。車の窓に張り付くようにそれを眺めているエヴァグリーンを、隣に座るアルシァラは鼻で笑った。

「やめろよ、みっともない。金がないって丸わかりだ。」

アルシァラを睨みつける。事実だろ、とそっぽを向く彼とは、やはり仲良くなれそうになかった。そんな後部座席の様子をミラー越しに眺めて、オルティは楽しそうに笑っていた。

眠らない街。11区。
クローバー貿易商会が拠点にしている、アルス7区と隣接している行政区だが、雰囲気はまるで違う。7区は都会ではあるが、このような派手さはない。どちらかといえば無機質で、働く人間の街という印象だ。しかし、11区は完全に娯楽の街という顔をしている。派手で、愉快で、いつまでも眩しい。その中心にあるのがこの巨大なカジノホテル、『キングスパレス』だ。
行き交う人波を避けながら、車は大きく張り出した(ひさし)の下へと入っていく。そこでは際どい格好をした女たちが手を振っていた。
……なんだろう、あの、ウサギの耳の被り物は。メリーラムが身につけている手袋のような、エナメルの艶々したボディスーツを纏っている。
その女たちを押しのけて、ひとり、ボーイが車へ近づいてきた。オルティは車から降りて、彼に笑顔を見せた。

「元気そうだな。安心した。」
「はい、おかげさまで。なんとかやっています。」

そう言いながら車の鍵を受け取るボーイは、褐色の肌に淡い髪色をしている。トヲラス人だろうか。

アルシァラに続いて車を降りたエヴァグリーンは、普段のパーカーとは違う服装をむずがっていた。
昔のような厳しい規定はない。とはいえ、カジュアルでラフな服装はマナーとして避けるべきだとオルティは言った。この間のエルドラドとの会食には、そのままの服装で連れて行ったくせに、である。
落ち着いた色味のジャケットとスラックス。動きづらくて仕方がない。革靴も硬くて歩きにくい。果たしてこれで、護衛の用が務まるのだろうか。エヴァグリーンはため息を吐く。

エントランスの回転扉には、真鍮(ブラス)の細工が(まと)い付き、派手さよりも繊細な高級さを感じさせている。古い作りだが古ぼけてはいない。
建物の中も、外の賑やかさとは違う落ち着いた雰囲気をしている。毛足の長い絨毯に深く靴が沈み込む。……これでは敵の足音も聞き取れないだろう。それ以前に、メダルゲームのマシンがけたたましい音を発している。どのみち、耳に頼るのはよしたほうが良さそうだ。

辺りをきょろきょろと見渡していると、オルティに呼ばれた。お前の為に調べてるんだぞ、こっちは。
胸元に小さな花のコサージュをピンで留められる。

「何だこれ」
「おまじない」
「……はぁ?」
「あんまり気にするな。無いよりマシ程度の物だ。」

何を言っているのかさっぱりわからない。難しい顔をしているエヴァグリーンに、オルティは声を落として囁く。

「この街では、他人をあらゆる意味で『買う』のが合法なんだ。全員が買い手であり売り手だ。その花は、もう売約済みって意味になる」
「俺はお前の所有物ってワケかよ」
「嫌味に取るなよな。3世みたいな、どうしようもない趣味のヤツだっているんだ。身を守る手立ては多い方がいい。」

それはあくまでも『おまじない』なのだ。
この街で合法なのは、合意の上でのやり取りの全てである。合意形成していれば何をしても良い。命のやり取りさえも。
そんな法を敷く街で、悪事を働こうというなら。強引に合意を形成してしまえばいい。そうすれば、法のお咎めがないのだから。そんな(ゆが)んだ発想を持つ相手には、どう防御したとて徒労に終わる。オルティはそれを、嫌になるほど良く、知っていた。

「だから、外したければそうしろ。でも、絶対に安売りするなよ。ここは本当に、怖い街なんだ。」

クロークでコートやサングラスを預けて、オルティは堂々とした足取りでカジノを進んでいく。ホールの壁面には彩り豊かな魚たちが踊っていた。中央には浮島のようなバーカウンターがあり、給仕が蜜蜂のように忙しなく飛び交っている。各テーブルではトランプやルーレットや、種々のゲームが行われ、チップの山が積まれては崩れる。
エヴァグリーンはそれをしげしげと眺め、はたと気づいた。従業員の中に、トヲラス人の特徴を持つ者が多い。ドリンクや軽食を給仕したりしているようだが……たまに、ドリンクではなくチップの山を持って現れる。

「置いていくぞ」

アルシァラが苛立ったように急かす。
エヴァグリーンはチップを積んだトレーを運ぶ給仕を指差す。

「あれは?」
「お前本当に何にも知らないんだな! カジノで現金賭けることなんかしないんだよ。ああやってチップにしておけば、自分がいくら突っ込んでるかわかんなくなるだろ」

何と、あのチップの1枚1枚が、凄まじい金額であるという。

「……それって」
「バカだって言うのか? でも、あれが俺たちの稼ぎ(シノギ)になってるんだぜ」

カジノを訪れた目的は商談だ。
オルティはアルシァラを連絡員として、このカジノの主人・シュワルツに引き合わせたいのだ。シュワルツはこの街の主人でもあり、このカジノの運営母体『パンドラ・ボックス』の首領でもある。オルティたちクローバー貿易商会と、パンドラ・ボックスは同盟関係にある。
この街は、人間の欲望を効率よくカネに変える装置なのだ。そして、その掛け金が足りない者には、クローバー貿易商会が金貸しを(ささや)く。もちろん暴利で。
彼らはうまくやっていた。そして、パンドラ・ボックスはトヲラス人の雇用も生み出している。まさに切っても切れない仲であった。

問題があるとすれば……このシュワルツという男のことだ。
この街は、すべての欲望を肯定する。
ギャンブル? いいとも。
暴飲暴食? 最高だ。
色に狂ってカネをスるのもいい。もっとディープで、人に言えないようなことだって。カネで合意がなったなら、何でもしていい。それが唯一無二のこの街のルール。
それを牛耳るのがシュワルツ・フォン・ロードクロサイトという男。ロードクロサイト家はこの国の古参の財閥家である。それが街ひとつを娯楽のためだけに運営しているのだ。その上に立つ王がただの男なはずもなく。

彼はシャンパンを片手に、自らの城を練り歩いている。両腕に美女を携えながら。そして、オルティを見つけると、驚いたように、楽しげに笑った。

「四ツ葉の魔法使い! VIPラウンジから入ってくれば良かったのに! まったく意外な事をするな、君は!」

そして美女軍団を退がらせて、シュワルツはオルティに手を差し伸べる。その胸に柔らかく抱かれても、オルティは嫌がる素振りを見せない。エルドラドの時とはえらい違いだ。

「キング。ご壮健で何よりです」
「ははあ、分かったぞ。その子たちは君の連れだな。それで私の招待状を使わなかったね。真面目な男だ。」

シュワルツは目を細めて、アルシァラとエヴァグリーンを見やる。アルシァラは慌てて居住まいを正した。あのアルシァラが。
エヴァグリーンはといえば、闖入者(ちんにゅうしゃ)であるシュワルツを観察していた。エルドラドと同じ、金の髪、青い瞳。なのにそこから漂う気品も色香も、奴の比ではない。若々しく見えるが、歳は50を越えるか越えないかというところだろう。しかし、顔に刻まれた皺でさえも美しく、彼に深みを増して見える。

「彼らは私の部下です。アルシァラとエヴァグリーン。とても良く働いてくれています。」
「ああ……とても若々しく瑞々しい。これから熟れていくのが楽しみだね。」
「はい」

オルティは嬉しそうに笑った。
アルシァラが進み出て礼をする。先程までぴしっと固まっていたとは思えない、(うやうや)しく優雅な礼だった。シュワルツもにっこりと笑顔を見せる。

「知的そうな良い子だね。さぞ高い値がつくだろう。美しい羽だ。手入れを怠っていないのがよくわかる……。いい話し合いができそうだが、少し若すぎる。舐められないようにする、というのは大切なことだけど、君はもう少し人の胸を借りても良いな。」

ぎくりとしたように、アルシァラが愛想笑いを浮かべる。
そして、シュワルツはエヴァグリーンに向き直る。

「この竜の子は護衛か? なかなか精悍な良い目をしている。体力があるからって、竜種を好む客もいるよ。どうかな、君が望むならそういう店を斡旋してもいい。……竜はペニスが2本あるというのは本当かね?」

最後のは小声だった。エヴァグリーンは首を横に振ることしかできなかった。

「少し早く着いてしまいましたか?」
「いいや、大丈夫だよ。……しかし、護衛の子は中には連れて行けない。君のところの子がオイタをするとは思わないが、決まりだからね。」

中で、と言いながらシュワルツが指したのは、警備が厳重に固めているドアだ。商談用のエリアだろうか。いくらオルティがVIP客だからといっても、特別扱いはできないのだろう。
オルティはエヴァグリーンに歩み寄ると、小さなカードを手渡す。

「好きに使って良いぞ。少し遊んでこい」
「遊んで、って……何すりゃ良いんだよ」
「何でもさ。それがこの街だからな。」

オルティはひらひらと手を振って、シュワルツと連れ立って歩いていく。アルシァラもその後に続く。エヴァグリーンはぽつんと取り残された。
途端に、胸につけたコサージュが重く感じた。

仕方なくバーカウンターに寄って、席に着く。高価そうな飲み物の名前は、どれもエヴァグリーンには縁遠く、どんなものなのか想像がつかない。

「何でもいい。飲める物。」

注文を聞いたバーテンダーは目を丸くした。それからエヴァグリーンが突き出したカードを見て、もう一度目を丸くした。
それでエヴァグリーンもようやくカードをよくよく見た。黒くマットな質感のそれは、金のエンボスで会員番号か何かの番号が刻印されている。その横には加えて『VIP』と描かれていた。……あの野郎、何てモン置いて行きやがる。

テーブル面はタッチパネルの画面が嵌め込まれていて、そこでも簡単なゲームが楽しめるようだった。隣の客がドリンクを片手に一喜一憂している。
本当に、徹底して娯楽のために作られている空間だ。人を、カネを逃さないように。

エヴァグリーンはバーカウンターから、オルティたちが消えていった扉の方を眺めた。その門扉を、竜種ががっちりと立ち塞いでいる。護衛として生きている竜種もいる。自分と同じように。それを初めて実感した。
バーテンダーが差し出したドリンクは、何かのカクテルらしい。何かの木の実のようなものが沈んでいる。ひどく辛口で、竜種はほとんどアルコールに感応しないとはいえ、喉が焦げそうになる。……この木の実は食べるものなのか? わからん。
考えあぐねているエヴァグリーンの思考を断ち割り、突然、軽快な音楽が響き始めた。観客たちも顔を上げる。彼らの視線は、ホールの入り口の方へ向いていた。

「——迷えるギャンブラーの皆様、大変長らくお待たせいたしました! 今夜のキングス・レビューを開演致します!」

アナウンスが響く。派手な羽飾りを付けて、煌びやかなスパンコールの衣装を纏った女たちがぞろぞろとやってきた。彼女たちはテーブルの間を縫うように進みながら、客に手を振り、キスを飛ばしている。客も彼女たちに歓声をあげて、口笛を鳴らしつ追っていく。人波が奥へと移動していく。
それと同時に。反対側のテーブルでは男たちが口論を始めていた。金のやり取りで揉めているらしい。
……エヴァグリーンは、何かきな臭いものを感じた。視界を広く取る。人の動きを見つめる。

男たちの口論は加熱し、ついに片方が手を上げようとした。悲鳴が上がる。ディーラーがすっ飛んでいく。奥の扉を固めている竜種の護衛も、さすがにそちらを注視している。
そして、流れる人波に沿わずに、そのドアの方へと移動していく男がいた。エヴァグリーンは咄嗟(とっさ)に、手にしていたグラスを振りかぶる。それは男を(かす)めて扉で砕け散った。男は素早く反転した。その手にはサイレンサーの付いた短銃が握られている。発砲。エヴァグリーンの頬を裂き、弾は天井に突っ込む。ようやく、護衛の竜種が不審者に気づく。

「てめえ! どこに目ェ付けてやがる!!」

エヴァグリーンは椅子を蹴り飛ばし、その男まで一気に飛びかかった。体ごと突っ込まれた男と共に、トランプゲームを薙ぎ倒す。ホールは一挙に騒然とした。カードとチップが散らばる。
エヴァグリーンはその男の腕を蹴り付けた。鈍く骨が砕ける感触がして、男の手から銃が滑り落ちた。

エヴァグリーンは護衛の竜種に目配せして、その場を任せる。そして、扉を蹴り開けて奥へと走った。奥にも扉が並んでいた。仕方なく、声を張り上げ叫ぶ。

「——おい! どこだ! 無事だろうな!?」
「ここだ。何があった?」

小さく扉を開けて、オルティは声だけを聞かせた。エヴァグリーンはそこに駆け寄る。

「分からねえ。だが、銃を持ってるヤツがいて……こっちに向かってた」
「始末したのか?」
「いや、俺は……」

ホールの方でひときわ大きな悲鳴が上がった。舌打ちをして振り返る。とにかく安全を確保するまで籠っていてもらうか。そう判断したエヴァグリーンの前で、オルティは扉を押し開けた。

「おま、バカ、出てくんなよ!!」
「ヒットマンが怖くてヤクザが務まるかよ。それに、お前が護ってくれるんだろ?」

オルティは微笑んで、エヴァグリーンの頬に手を伸ばす。そこは弾丸に切り裂かれていたが、もう治ってしまっていた。今はただ滲んだ血糊だけが、エヴァグリーンが懸命であったことを示している。

「それに、ウチの護衛も優秀だよ。——スペイド、説明しなさい。」

シュワルツがそう呼びかける。いつの間にやら、背後に例の護衛が突っ立っていた。彼は気怠(けだる)そうに、掴んだ男の死体をぶら下げている。

「すみません、キング。毒を飲まれました。」

オルティは、シュワルツが用意したスイートのソファに深く沈んでいた。エヴァグリーンとスペイドの証言から、おそらく口論をしていた男たちもグルだろうと考えられた。
だが、現場が騒然としている隙に、彼らは逃げ出したらしい。結局、捕まることはなかった。人相にもこれといった特徴がなく、この後探し出せるかも分からない。
エヴァグリーンは、オルティの部屋に就くことになった。アルシァラには、スペイドが付いている。彼が優秀というのは本当らしいが、エヴァグリーンはいまひとつ信用しきれず、自らオルティの側にいることを望んだ。

「……誰を狙ったかは、分からず(じま)いか。」
「俺は、お前が狙われてると思った」

そう溢すオルティに、エヴァグリーンは率直な意見を述べる。単なる直感だ。

「そうさな……お前も俺の殺しを依頼されてたワケだ。その首謀者もまだ分かっていない。可能性が高いのは、俺だろう。」

オルティは、ため息を吐く。

「キングに迷惑をかけたな……。」
「別に、お前が悪いんじゃねーだろ。」
「キングにもそう言われたよ。だが、俺の見込みの甘さには違いない。……本当に頭が上がらない。」

珍しく落ち込んでいる。エルドラドに言い寄られた時だって、苛ついてはいたが落ち込んではいなかったのに。……それを『珍しいな』と思えるほどには、オルティを見てきたのか、と。今更ながら、エヴァグリーンはどきりとした。
エヴァグリーンは、ソファの前にしゃがみ込んだ。

「大事になる前に止めたんだぞ。(ねぎら)いの言葉ぐらいねーのかよ、お前は。」
「……グラスぶん投げたって聞いたぞ」

オルティはまだ、むすっとした顔をしていた。

「たまたま手元にあれしか無かったんだ」
「なら仕方ないか、とはならねえんだよなぁ」

あーーー、と呻いて。オルティはすっと立ち上がった。そしてジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。エヴァグリーンがそれをじっと見ているので、オルティはぺろりと舌を出した。

「シャワー浴びるんだよ。こっち見るなよ、スケベ」

なんだよ、元気じゃねえか。
エヴァグリーンは背を向けた後で、少しだけ安堵したように笑った。

(続く)

#6 ストレンジャーズ・ラン・トゥ・ザ・ヒル

カジノでの襲撃事件以降、エヴァグリーンはオルティの行く先々に、何処へ行くにも付き従った。夜間も泊まり込みの方が良いのでは、と社員たちは相談したが、オルティは「気持ちだけ受け取る」と笑顔を見せた。
そもそもとしてオルティは、住所をロータスにしか(しら)せていないのだ。そして、朝晩はロータスが送迎を務めている。こうも徹底していれば、もはや『知っている人数』を増やすだけでもリスクだ。

「心当たりとかあんのか?」

エヴァグリーンの質問には、オルティは顰め面を見せた。

「心当たりなんか山のようにある。お前は俺の仕事を何だと思ってるんだ?」
「あーはいはい。ケツの毛の数まで知ってる情報屋さんだったな。悪かったよ」
「下品な奴め。どれ、お前の尻の毛の濃さも見てやるか」

そんな軽口を叩き合いながら。何の手がかりも掴めないままに、ただ日々だけが過ぎていった。

事実として、オルティは情報屋としてひどく有能らしい。シュワルツをして『魔法使い』と呼ばせる、その手捌(てさば)きと推理は卓越(たくえつ)していた。さぞ政治家先生や軍警察を困らせているに違いない。
逆に言えば、オルティが有能な情報屋であるために。クローバー貿易商会は、マフィアのシンジケートで強く中立を保っていた。シュワルツの率いるパンドラ・ボックスとは同盟の関係にあるが、その他の組織とも敵対している状態、というわけではない。無論、その中立状態をこそ邪魔だと考える組織も、なくはないだろう。

()いだ世界は、不気味なほど静かで。
しかし、商会の誰ひとりとして、その静けさを信じてはいなかった。何かが起こる前から、どこかひりひりとした焦燥(しょうそう)感のようなものが、社員たちには(まと)いついていた。だというのに。それは起こった。

——その社員は、事務所のビルの壁面に貼り付けられた状態で見つかった。

アルウェズンという名の彼は、まだ若い『執行』のメンバーであった。商会への加入も、エヴァグリーンより少し早い程度だ。喧嘩っ早く、頭に血が昇りやすい。衝動的に暴力を振るうこともあった。だからこそ、そんな自分を拾い上げて育てようとしてくれた、オルティへの忠誠心は非常に強かった。
そう、あの日。商会を初めて訪れたエヴァグリーンが、依頼人の首を持って現れた時。真っ先に食ってかかり、殴り飛ばされたのがアルウェズンだった。

それが、ビルの高い壁面に貼り付いている。無数の黒い鉄杭のようなもので、まるで縫い止められるように。滴った血が滝のように流れ落ち、1階のコンビニまで届いていた。
朝一で出勤してきたメリーラムがそれを見つけ、オルティに連絡を取ったのだった。そして今、続々とやってきた社員たちが互いに涙を(こら)えながら、必死に足場を組んでいるところだ。

「こんなの、人間技ではあり得ない。」

彼らは口々に、そう言った。
人間技でないのなら、それが出来るのは。

彼らの涙に濡れた視線は、エヴァグリーンに注がれていた。

やがて、ロータスが車を飛ばし、オルティを連れて来た。オルティはその惨状を見上げると、(いた)むように目を閉じた。

「……俺への当てつけのつもりか。」

低い(つぶや)きは、失望と怒りを(にじ)ませている。こんなやり方は到底フェアではない、とでも言いたげに。
状況から見ても、これがアルウェズン個人の怨恨(えんこん)関係だとは考えにくい。彼が問題児であることに違いはない。しかし、下手人(げしゅにん)はわざわざ現場を選んでいる。それも、商会のビルを、極めて目立つ形で利用した。これを見せつけたい相手が居ると、高らかに(うた)っている。

オルティは、エヴァグリーンを呼ぶ。

「どう思う。お前ならできるか?」

そう尋ねるオルティに、エヴァグリーンは舌打ちで返した。この空気に。自身を包む不躾(ぶしつけ)な視線に。耐えかねていた。牙を剥き出して応じる。

「お前まで俺を疑ってんのかよ……!」
「そういう意味じゃねえ。ただ、竜種なら出来るかと……」

そこまで言って、オルティは苦い顔をした。自分が尋ねていることの意味に気づいたからだ。
——社員たちの手が止まっていた。誰も彼も、オルティとエヴァグリーンのやりとりを注視していた。

エヴァグリーンは、一歩、後退る。その瞳はひどく揺れて、まるで迷子の子供のように狼狽(うろた)えていた。
訂正しようと、オルティが唇を開きかけたとき。エヴァグリーンは既に、泣き出しそうな声で叫んでいた。

「クソッタレが! 今すぐお前をあれにしてやっても良いんだぞ!!」

言ってしまってから、はっとする。
その場にいた商会のメンバーは、オルティを除いて皆一様に、エヴァグリーンを睨みつけた。大なり小なり、オルティを敬愛する彼らにとって、その暴言は度し難く、許し難い。彼らの眼差しは突きつけている。お前は『違う』と。
仲間のような顔をしていても、所詮は人でなしの怪物(けだもの)だ、と。

「ッ、……!!」

「エヴァ……!!」

背を向けて走り去るエヴァグリーンを、ロータスが呼び止める。彼を追おうと、身を(ひるがえ)す者も居た。

「放っておけ!!」

オルティは、既に遠ざかりつつあるエヴァグリーンにも届くように、一喝した。
握りしめた拳を震わせながら。

「……彼を下ろして、弔うのが先だ。」

がむしゃらに街中を駆け抜ける。
行くあてなんかは何処にもない。行きたい場所も、何処にもない。エヴァグリーンの居所はすべて、オルティが与えたものだった。商会も。部屋も。着ている服も何もかも。何処へ走っても、あのガラムの甘ったるい香りが追いかけてくる気がした。足取りは勝手に、商会へ向かおうとする道を選ぶ。それに気がつくたびに、エヴァグリーンは血が滲むほど唇を噛んで、別の道へ折れた。
結局、いつの間にか彷徨(さまよ)っていたのは、路地や河川敷だった。けれど、そのどれも最早、自分の場所ではない。ネズミや虫や、あるいは浮浪者が、エヴァグリーンを怪訝(けげん)そうに眺めていた。

橋の上から、川が流れていくのを、ただ見ていた。
ふと、指先が、ポケットに突っ込まれたままの携帯端末に当たる。オルティの連絡先だけが入っているそれを、強く握りしめる。振りかぶり、川面(かわも)へ叩き込もうとして……その腕はやがて、力無く垂れ下がった。

目深(まぶか)くフードを被ったまま、項垂(うなだ)れる。誰かが近づいてくることには気づいていたが、あえて無視した。仮にこの件の首謀者が、次の犠牲者にエヴァグリーンを選んでいたとしても、それはそれで好都合だと思ったからだ。

「ねえ、ちょっと」

その人物は、意外にも気さくな口調で、エヴァグリーンに声をかけて来た。

「あのー……君さ。竜種、だよね?」
「……だったら何だ、」

殺すぞ、と続けなかったのは、振り返ったそこにいたのが、人ではなかったからだ。
長く尖った耳が真っ赤なヘッドホンから溢れている。笑いかける唇からは、牙が覗いている。そしてサングラスを押し上げれば、蛇のような金色の瞳。おなじ、竜種である。
彼は人懐こそうな笑顔で笑った。

「ねえ、いっしょに来てくれない? 当方、ボーカル募集中。」

その竜種は、カマロと名乗った。
カマロ・アルヴァルソン・ルカヤルヴィという大層な名前があるそうだ。竜種で苗字があるのは珍しい。大抵は、物好きな人間に家族として迎えられ、養子にされた事を意味する。彼もその(たぐい)らしい。
カマロが借りているというガレージへは、しばらく歩いて辿り着いた。
シャッターを押し上げると、少々(ほこり)っぽい、散らかった部屋が現れた。物の配置は極めて乱雑だった。バイクがベッドの真横に停められていた。スチールが剥き出しの棚にはシリアルの箱が幾つも並んで、腕組みをした虎が微笑んでいる。この分では冷蔵庫の中もぐちゃぐちゃに違いない。そして何らかの機材が並んでいて、その一角だけはやけに丁寧に埃を払われている。

「いやー、ほんと。良かったよ見つかって。なかなか居なくてさ。俺の基準が厳しいのかもしれないけど、やっぱ心核(しんかく)の音のペースはこうじゃないと。俺の求める音楽性っていうのかな」

カマロは手拍子で再現してくれるが、エヴァグリーンにはさっぱり意味がわからない。自分の心核の鼓動がどうだとか考えたことはない。というよりも。

「……聞こえてるのか、この距離で」
「俺、耳は良いからね。足音だけで誰が来たかもわかるよ」
「へえ、すごいな」

エヴァグリーンは純粋に賞賛を送った。
竜種は聴覚や嗅覚で、ヒトよりもはるかに優れた感覚を持つ。しかし、カマロのそれは竜種の基準からも逸しているようだ。

「ま、なので耳栓は手放せないのです。聞こえてるから安心してね」

どうやら、ヘッドホンはイヤーマフ代わりにしているらしい。ガレージに入ってからは外していた。
ベッドに座るように(うなが)される。硬いスプリングに乗っかると、それは深く(きし)んだ音を立てた。カマロは電気ケトルに水を入れていた。もしかして、それはキッチンか? 棚で仕切っただけの洗い場にしか見えないんだが。

「それで、何だ……ボーカル? 俺、歌なんかやったことねーぞ」

カマロは本当によく聞こえているようだった。エヴァグリーンは隣で話すような音量で話しているのに、キッチンもどきから声が返ってくる。

「ほんとー? 音楽ってあんまり聴かない?」
「……そういう暮らしじゃなかったんでな」
「そっか、ごめん!」

あっけらかんと笑いながら、カマロは湯気の立つマグカップをふたつ手に取って戻ってきた。それをひとつエヴァグリーンに手渡す。インスタントコーヒーの香りが立つ。
カマロはいつもそうしているのか、機材の前の木箱に座った。そこにはクッションが乗せられていた。

「未経験者大歓迎。ぜんぜん構わないよ。……ね、今、なかった、って言った?」

耳ざとい奴め。

「………まあ」
「詳しく聞いても良い?」

カマロはまるで人好きのする、賢い犬のようだった。

カマロとの会話は退屈しなかった。
しかし、エヴァグリーンは全てを話さなかった。クローバー貿易商会は後ろ暗い組織である。だから、その部分はかなり曖昧(あいまい)にした。カマロの金の瞳は陽のように柔らかだったから、話す気になれなかったのだ。
ただ、居場所を失ったこと。今はそこに帰りたくないと思っていること。それだけを簡潔に説明した。
カマロはうんうんと(うなず)きながら聞いていた。それがひと段落して、マグカップの底が見えた頃。カマロはシリアルの並んだ棚から、小さなパッケージをいくつか選び取り始めた。それはCDという、音楽を記録するものらしい。

「落ち込んでる時はやっぱりね、ドラネスです」
「俺は落ち込んでねえ」
「じゃあ単にドラネスです」

そう言いながらカマロが見せたのは、おどろおどろしい絵の描かれた紙のパッケージだ。鋭い線で描かれたロゴは『DRÄDDIGÜN’S NEST』とそう読める。……意味のわからない記号が乗っかっている。

流れ出した音楽は、知っている音楽とはまるで違っていた。音程に乗ってはいたが、歌というよりも(うな)り、叫びのようだ。歌詞の意味はよく聞き取れないがかなり中指がおっ立っていることはわかる。旋律は低く地を揺らすように響いていて、リズムは細かく刻んでいる。
エヴァグリーンが呆気(あっけ)に取られているのを見て取って、カマロは深々と頷いていた。

「わかるドラネスってマジでうるさいんだけどそこがいいんだよねギター抜きのスリーピースでKingsは5弦ベースっていうガチで意味わかんないの弾いててこの早弾きでベースなのにギターみたいな味わいが出ててTigerもほとんどスネアしか使ってないのにビートめちゃくちゃ正確でマジで機械なのみたいな所にJOExxxのこのシャウトよ神か?」

本当に何を言っているかわからん。
カマロはとにかく早口で、とにかくそのドラネス——ドラディガンズ・ネストというロックバンドについて熱弁する。それは竜種3人によるロックバンドで、アンダーグラウンドなミュージックシーンでナントカがカントカらしい。エヴァグリーンには未知の物語すぎる。
とはいえ、嫌いではなかった。彼らの音楽も。カマロの熱の入った語りも。音楽なら、竜種と人の違いはそこまでない、とカマロは力説する。

「俺は本当にジョーを神だと思っています」

JOExxxはそのバンドのリーダーで、例の叫ぶボーカルだ。どう見てもジョーとは読まんだろうという文字列である。

「なら何でお前はギターなんだよ」
「俺はギターの方が好きなの」
「んだそりゃ」

カマロは赤いV字のギターを大事そうに抱えていた。
Kingsはこれをベースでやってるんだよと実演してくれたが、エヴァグリーンには、それをギターで完コピしているお前も充分凄いだろとしか思えない。なお、Kingsはケーイングスと読むし、Tigerはティガーと読む。素直に字面を読んだら死ぬ連中なのかもしれない。
カマロは、自作の音楽も聴かせてくれた。彼本人が弾いているのはギターだけで、あとは打ち込みやサンプリングという機械の音声らしい。ドラネスとはまた系統が違う。気持ちの良い音を意識して鳴らしている、というそれは、カマロの感性に沿った新しいミュージックだった。うねり、流れ、響き溶ける。エヴァグリーンは、それを気に入った。そう言えばカマロは、照れくさそうに笑った。

「なかなか売れなくてさー。やっぱ竜種ってだけで、売る方にはリスクなんだろうね。」

とはいえガレージを借りて自活できているわけで。その点で、全く無名というわけでもないのだろう。
金のやり取りができれば身分は問わないというのが、資本主義社会のいいところだ。
……と、オルティが言っていた。エヴァグリーンは、微かに胸が痛むのを感じた。

「スプラウス・ファミリーはこんな(こす)っからい真似はしないだろう。奴らはもっと正面切って乗り込んでくるタイプだからな」

オルティはタバコを揉み消した。クローバー貿易商会と同盟を結んでいるパンドラ・ボックス、そこと長く敵対している『スプラウス・ファミリー』の名を挙げながら。彼らもかつての貴族が率いる血盟であり、伝統や掟というものを重んじている。だからこそ、シュワルツの『眠らない街』を敵視するのだ。

九龍(クーロン)の爺さんとか、ですかね」

ロータスの勘は悪くはない。しかし。

「確かに九龍の爺は、俺たちがドラッグの販路を潰してるのが気に入らないだろうが……。トヲラス人にドラッグが売れないからといって、彼らの稼ぎに問題が出るとは思えない。」

商会は彼らのポリシーとして、違法なドラッグには手をつけないことを掲げている。彼らの主な稼ぎ口は人材派遣と金貸し業、そしてオルティの握る情報である。一大ドラッグ・カルテルを組むことを目論む『九龍植物園』とは真っ向から反発しているが、だからといって利益の取り合いにもなっていないのが現状だ。
他に大きな組織といえば運び屋集団『須藤(すどう)飛蝗(ばった)衆』が挙げられる。しかし彼らは彼らの業態上、クローバー貿易商会以上に強硬な中立派である。特別に敵視される理由はないはずだ。 

「……ライドウが乗り出してきたのかもしれない。」

ロータスが呟く。オルティもそれには同意見だった。
結論としては、その線がいちばん硬い。
『ライドウ一門』はスプラウスから袂を分かったファミリーだ。過激なメンバーが多く、暴力沙汰をよく起こしていたために、あの女傑に切り落とされたのだ。だが、問題は。

「……脅す理由は、何だ?」

わざわざ脅しをしてくる。脅す側が何に手を出してほしくないのか、それが脅される側にわからないのでは意味がない。考えられるのは、そう。

「……疑心暗鬼か」

走り去るエヴァグリーンの、小さな背中。
クローバー貿易商会を、シンジケートの中で孤立させ、全てを疑わせる。ちょうど、あんな風に。

ライドウとクローバーには、少なからず遺恨がある。
例えば、サダルメリクを元々飼っていたのは彼らだ。不死者にしてシェイプシフターである彼は、倉庫に閉じ込められ『人を食う怪物』として運用されていた。決して証拠を残さない、人を消す機構。それを潰したのが他ならぬクローバー貿易商会である。そのためサダルメリクは今、商会に身を寄せている。
他にも、構成員同士の衝突や暴力沙汰は枚挙にいとまがない。
トヲラス人は結束が固く、誇りを尊ぶ。それは(かえ)って、過剰な排外主義に変わりがちだ。エヴァグリーンの件でもそうだったように。だからライドウ一門との関係は、お互いに加熱しやすいせいで、ますます悪化していく一方だ。
それでも大規模な抗争へと至っていないのは、オルティが必死でとりなしてきたためだった。加えてライドウ一門にも、スプラウスに泥を塗る真似はできないと考える古参が居るのだろう。事実、破門されたとはいえ、彼らはスプラウスという蛇の縄張りではおとなしかった。

ライドウ一門が竜種と繋がりがあるとは、聞いたことがない。人力では難しい殺しを、わざわざ竜種を雇うなりなんなりしてやらせる。そのことには必ず意味がある。

「……ロータス。エヴァグリーンを探させろ。探すだけでいい。まだ彼奴(あいつ)が疑われていると、社員にも相手方にも信じ込ませられる程度にだ。……ライドウの事は、まだ誰にも知らせるな。」

ロータスは頷き、そしてオルティの隠れ家を出て行った。オルティは煙草に火を点け目を閉じた。深く吸い込んだ煙が、ゆっくりと思考を(ほぐ)していく。
命を狙われたきっかけは何だ。どこかでオルティが虎の尾を踏んだのに違いないだろう。しかし、相手はこれまでオルティのことだけを狙ってきていた。それがいよいよなりふり構わず、商会そのものに手をつけ始めている。アルウェズンは運悪く、その最初の犠牲になった。誰がそうなってもおかしくなかったはずだ。
ぱちぱちと、ガラムが爆ぜる。短い一本を吸い終えて、オルティは深々と息を吐いた。
商会。竜。……エヴァグリーン。

契約。

「……イーデンに、手出しをするな、と?」

キーを回して、ほんの少し戻す。
どこか接触がズレているのか、そのバイクはそうしなければ点火しなかった。ドバッと吠え立てて、パイルダーという名のそいつは一気に覚醒する。ハイオクが血のように巡って、ドッ、ドッ、と低く鼓動を打つ。……落ち着いて、左手のクラッチを操作しようとしたつもりだった。繋がりかけたエンジンが、途端に噛み付くように唸る。思わず手を離した。それでバイクは不満げにガツンと舌を叩いて、マフラーはチリチリと音を立てながら熱を引いていく。

「クラッチはもっと優しく繋いで! 手を繋ぐだけで良いんだから」

背後からやかましいヤジが飛ぶ。カマロは一度、タンデムシートから立ち上がった。エヴァグリーンの左手を包むようにして、クラッチ操作を確認させた。

「このデカブツが見た目の割に繊細すぎるのが悪い」
「もうっ。エヴァってば、この子は俺の大事な足なんだから、優しくしてよね。」

カマロは愛おしそうにパイルダーのハンドルを撫でる。それからエヴァグリーンの後ろに跨って、ぽん、と自身の太腿を叩く。

「ほら、もう一回やって! 次はできるから!」

数日の間、エヴァグリーンは一度も商会に顔を出さず、そのことで電話が鳴ることもなかった。カマロと過ごす日々は、その痛い記憶を忘れさせるほどに楽しかったけれど。それでもエヴァグリーンは、毎日毎晩、連絡がないかだけはきちんと確認した。

「誰かから電話が来るの?」

カマロはギターの弦を爪弾きながら、エヴァグリーンに問いかけた。

「恋人?」
「そんなんじゃねえよ」
「だってまるで、気になる彼女から連絡もらえなくてソワソワしてる男の子って感じだよ」
「うるせえなあ、違えって」

エヴァグリーンは携帯端末を置く。カマロを足先で軽く蹴る。カマロは大袈裟にのけぞって見せた。

「はは、じゃあ彼女とか居たことないの?」
「ねえよ、悪いかよ」

別に、とにやにやと笑うカマロ。

「俺は君のこと好きだけどな、面白いから」

面白いのはお前だろうと思う。
カマロはなんとかヒーローとかいう、慈善事業が性癖の男のドラマを、携帯端末でずっと見ていた。それを流し見て、ギターを爪弾き、曲を作っている。そしてそのドラマで好きなキャラクターがくたばったとかで、昨日は目を真っ赤にしていた。馬鹿馬鹿しいが、見ていて飽きない。
小さなコンロで乾麺を茹でながら、アルミホイルでガチガチに巻いた冷凍のブリトーを蒸気で温める。それが1日の食事だった。湿気(シケ)ってフニャフニャのベタベタになった皮を掴むと、まだ半解凍のチリビーンズが皮を破いて零れ落ちる。スパイスを(まぶ)された麺もブリトーの中身も、馬鹿みたいに茶色くて味が濃かった。それをキンキンに冷やしたサイダーで流し込むと、カマロはあーあ、と盛大に肩をすくめるのだ。

「貧乏の味だあ。食えてるだけマシだけどさあ。」
「電子レンジぐらい買えよ、つか俺が買ってやる」
「いいの!? あ、でも、悪いよさすがに。めちゃくちゃ売れたらそのお金で買うし……」

そんな日がいつ来るか分からない。それまでに芯の冷えたフニャフニャのブリトーを何本食べる気なのだろう。いーんだよ、とサイダーの缶でカマロを小突くと、彼は困ったように眉を垂らしていた。背後で小さく流していたスラッシュメタルは、ギターのディストーションを残して、すう、と消えて行く。
カマロはCDをプレイヤーから取り出しながら、エヴァグリーンに尋ねる。

「エヴァは売れたら何買うの?」
「んー……いまいちこれが欲しいってねーんだよな。俺もバイクでも買うかな」

カマロは目を輝かせて、いくつもバイクの名前を挙げた。そのどれひとつピンと来なかったが、カタログスペックを聞くだけでも、楽しい時間だった。
ガレージのシャッターの向こうは、街向こうに星が瞬いている。
ずっと、このくだらない時間が続けば良い。
エヴァグリーンは自分でも気づかないうちに、そう願っていた。

携帯は、まだ鳴らなかった。

(続く)

#7 ノベンバー・レイン・フォー・ユー

雨が降っている。
カマロの狭いガレージに寝泊まりして、何日になっただろうか。バイクの乗り方も板についてきたところだ。そのパイルダーで、今日は少しだけ遠出をしてみようと言い合っていたのに、空気の読めない雨。

「止みそうにないね。今日は諦めだ」

ガレージの屋根を叩く雨の音はずっと激しいままだ。屋根が薄いせいで余計に響く。

「何か温めるよ」

カマロは冷蔵庫を漁りにいく。もう、「食べる?」とも「泊まってく?」とも尋ねない。
それが身に染みている、とエヴァグリーンが静かに自覚しているとき。
携帯端末が、突然鳴りだした。

「……今更、何だ」

電話口のオルティは何も言わない。

「クビにするってんなら、好きにしろよ。」
『仕事だ』

歯噛みするエヴァグリーンに、オルティは淡々と告げた。

「……あ?」
『彼奴を殺した奴が分かった。お前、知ってるだろう、カマロってガキ』

雨音が屋根を激しく叩く。
何も言い出せないエヴァグリーンに、オルティは言葉を続ける。

『彼はライドウという組織に借金がある』
「………」
『それをチャラにする条件で殺しを請け負ったと、メリーラムがライドウの奴を吐かせた』

衝撃で掻き回された頭はカッと熱くなる。しかし、ふとオルティの言葉に引っかかりを覚えたことで、エヴァグリーンは意外に冷静だった。

「……待てよ、何でお前がカマロのこと知ってる」
『……』

声が震える。
それほどまで。それほどまでに、この男は。

「なんとか言え! てめえ、俺に監視付けてたのかよ……!」
『そうだ』
「ッざけんな! クソが、……そんなに俺が信用できねえのかよ!」

オルティはそれ以上、何も答えなかった。それがエヴァグリーンを衝動に走らせる。全身の毛を逆立て、深く長い息を吐く。牙を剥くその姿は、まさしく竜というけだものだった。

「 カマロを殺れってのか、上等だてめぇ、てめえからブッ殺してやる……!!」

勢い、ガレージのシャッターを開ける。雨が激しく降っている。エヴァグリーンはその中へ、駆け出そうとして。
しとどに注ぐ雨の中。目の前に立つ、オルティと鉢合わせた。

オルティは、数人の部下を連れて、全く似合わないビニール傘の下で、まさに通話を切るところだった。その中にはロータスも居たが、大多数はエヴァグリーンのよく知らない顔だ。
咄嗟のことに息も継げないエヴァグリーンの背後から、誰かが飛び出した。

カマロだった。

ナイフを手にしていた。カマロは刹那のうちにオルティに組み付くと、その首筋に刃を当てた。銃口が一斉にそちらを向くが、誰ひとり撃たなかった。オルティに当たるからだ。ビニール傘が雨の中に転がる。

「……カマロ!!」
「ごめん。……電話聞こえちゃった。エヴァって、ここの社員さん、だったんだね」

雨に煙る世界の中で、カマロは吹っ切れたように笑っている。小さな果物ナイフの刃をきつく握りしめて。

「お前、」
「……お金なくてさ。仕方なかったんだよ。俺ほんとに売れてないから。でも、君に嘘つく気もなかった。俺は本当に、知らなかったんだよ」

刃先が震えていた。カマロの頬に伝っているものが、雨粒だけだとは思えなかった。

「ただ、殺せば借金はなかったことにするって言われただけだ。君に声かけたのだって、本当に、俺の理想だったから、それだけなのに」

雨はますます激しさを増す。晩秋の雨はひどく冷たい。カマロは、乾いた笑い声を立てた。

「どうしてこんなに何もかも上手くいかないのかな。俺が、君が、竜だからなのかな」

エヴァグリーンとの日々で、いつだって楽しそうに、嬉しそうに揺れていた、陽のような金の瞳。それが今は、豪雨の中消えそうな灯火のようで、痛々しい。
カマロは、腕の中のオルティに語りかけた。

「……あなた、偉い人なんでしょ。すごいね。こんな状況なのに、すごく落ち着いた音がする。ごめんなさい、俺はまだ死にたくないです。」

怯えた声音ではあったが、その言葉にはしっかりと交渉のテーブルに上がろうとする意思があった。凶行はこの場を切り抜けるためのことだと理解したロータスが、社員たちに銃を下ろさせる。

カマロは、エヴァグリーンを呼んだ。

「エヴァ、一緒に来て。俺、君に嘘は言わなかった。……好きだよ、本当に。だから……」

雨の中に、足を踏み出す。
何を選べば良いのか。エヴァグリーンにはまだ、分からずにいる。カマロを連れて逃げればいいのか。オルティを守り、カマロを殺せば良いのか。

わからない。

それでも、今自分が背を向ければ、カマロはひとりになるだろう。それだけは、確かだから。
雨音が、一瞬小さくなった。張り詰めた世界の中で、動いたのはエヴァグリーンでも、カマロでもなく。

オルティの(てのひら)が、カマロを力いっぱいに突き飛ばしていた。そして、鋭い弾丸がどこからか、オルティの肩口を貫いた。
水たまりに鮮血が広がって、激しい雨がそれを洗っていく。弾丸だけではない。カマロが向けていたナイフの先端は、しっかりとオルティの首筋を切り裂いてしまっていた。
ロータスが駆け寄ってくる。誰を狙ったにせよ、続きが来るはずだからだ。ガレージの方へ全員を退がらせる。カマロは唖然として、血濡れたナイフを掴んだまま、雨の中に座り込んでいる。ロータスは彼の首根っこを引っ掴み、ガレージの中へと放り込む。すんでのところで、弾丸はアスファルトを叩く。

エヴァグリーンは、2発の狙撃の角度をしっかりと見ていた。
ちらと見たオルティは、まだ生きている眼をしている。行け、と言われた気がした。全力で水たまりを蹴る。まだ撃ってくるが、方角さえ分かっていれば致命傷は避けられる。弾丸が頬を裂く。雨の中、この狙撃だ。相当腕のいいスナイパーなのだろうが。エヴァグリーンは、通りの向かいのビルに飛ぶように駆け上り、その屋上でそいつと対峙した。
ライフルの銃口が、まだ中空のエヴァグリーンを睨んでいる。それを蹴り飛ばし降り立つ。即座に両腕をへし折ると、そいつが何かを咥えているのが見てとれた。

「やらせるか……!!」

カジノでの襲撃の際。護衛の竜種、スペイドが取り押さえようとした襲撃者は毒を飲んだのだ。エヴァグリーンは咄嗟(とっさ)に、そいつの口へ手を突っ込んだ。歯が砕け、口腔が裂ける。反射的に噛み締められた(あぎと)に、エヴァグリーンの手は千切れるほど軋んだ。しかし、ぐっと力を込めて、エヴァグリーンの拳は毒のカプセルをしかと掴んでいた。

狭いガレージは騒然としていた。
ロータスは必死に、オルティの傷口に自分のシャツを押し込み、出血を止めようとしている。しかし、だくだくと流れ続けるそれは止まらない。太い動脈を貫いたのかもしれない。ロータスは、その赤ら顔を蒼白とさせていた。

「オルティさん……!!」
「……ナダレを、呼んでくれ」

オルティは苦痛に呻いていたが、明確にその指示を出した。それはロータスもよく知っている闇医者の名である。オルティとは(ふる)い仲らしく、親しくしていた。控えていた部下に、ダイヤルした携帯端末を投げ渡す。彼らもお互いに顔を見渡しあって、不安そうにしている。

「クソっ、止まんねえ……!」

オルティはロータスに(もた)れるように身を預けている。ジャケットとベストは脱がされ、黒いシャツは例の果物ナイフで裂かれていた。褐色の肌に赤黒い血が滝のように流れている。その背には物々しい、翼のようなトライバルが描かれている。左肩を貫通した銃創が肉を弾き飛ばして、見事な彫り物を削り取っていた。
急速な失血が、意識を朦朧(もうろう)とさせているのか。オルティは譫言(うわごと)のように何か呟く。ロータスはそれを聞いて、ぎゅっと眉を寄せる。彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「そんなこと……できるわけないでしょうが!!」
「頼む……やってくれ」

そう言うと、オルティは完全にぐったりとしてしまった。ロータスは低く唸り、まだ躊躇(ためら)っていたが、オルティのジャケットの内ポケットを探った。銀のジッポライター。震える手でそれを握りしめ、懐の短銃から弾丸を抜き取る。
薬莢を強く噛み、弾頭を引き抜くと、ロータスはオルティの肩の傷に火薬を振りかけた。
部下を呼び、オルティを押さえつけさせる。その肌は血の気を失い、冷え切ってがたがたと震えていた。歯には誰かのベルトが噛まされた。ジャケットで頭を覆い、火が髪を焦がさないようにする。
ロータスは意を決したように、ジッポの火を点けた。
わなわなと震える手が、そっと傷に近づく。ロータスはぐっと目を閉じた。

「オルティさん……すみません!」

勢いよく閃光が走る。薄暗いガレージに人の群れの影が立つ。悲鳴はオルティの喉の奥だけで鳴った。
ロータスは(はな)(すす)りながら、オルティを仰向けにさせた。弾が貫通しているためだ。まだ、鎖骨の下を貫いた入射口の傷が残っている。そちらの傷は出口に比べれば小さいものの、今もオルティの命を垂れ流し続けている。
ロータスは同じ手順を繰り返した。再び炎が閃いた。それから果物ナイフをジッポで炙ると、首筋の傷へと押し付ける。それでようやく、全ての傷口を塞ぐことができた。
全てが終わった後、ロータスはその場にしゃがみ込んだ。体の震えが止められなかったのだ。哀咽(あいえつ)がガレージに響き、雨音と混じり合った。
横たわったオルティは、(ねぎら)うようにロータスの名を呼んだ。

がらがらとガレージのシャッターが上がる。身構える社員たちの前に現れたのは、狙撃手を担いで戻ったエヴァグリーンだった。
オルティは薄目を開けてそれを視認する。その唇が、まるで「よくやった」と言うかのように微かに笑んだ。かと思うと、オルティは目を閉じて、その首は力無く項垂(うなだ)れた。
社員たちは慌ててオルティに駆け寄ったが、何のことはない。彼は激痛と失血で気を失っただけだった。

雨はまだ降り止まない。
外の血糊をよく洗ってくれるだろうと、エヴァグリーンは思った。

(続く)

#8 シンパシー・オル・シチュエーション

薄暗いガレージで悪態をつきながら。
呼びつけられたナダレは、必死にオルティの傷口の除去洗浄(デブリードマン)をしていた。抗生剤と輸血を山のようにぶち込みながらである。

「何をどうしたらこうなるんだよ死ぬか死ぬのか大馬鹿者じゃあとっととくたばれよ俺の身にもなれよふざけやがって!!」

暴言が止まらない。しかし、作業の手も止まらない。
元々、軍医として前線で務めていた男だ。頼りなさげなのは顔だけで、手技は神業である。
連れてこられた時は、使い物になりそうもない顔で指先を震わせていた。しかし、オルティの状態を目視して、火薬が焦がした肉の臭いを嗅ぎ取ると。ナダレは懐に忍ばせたスキットルから酒を一口飲んだ。それで手の震えはぴたりと止まった。今そこにいるのは震えるアル中ではなく、()わった目をした職人のような男だ。

「どーーーせコイツが焼けって言ったんだろ、っんとにこの大クソ馬鹿ヤクザめ……!」

社員の何人かにみっちりと3周ほど手を洗わせて、ナダレは彼らにオルティを押さえているように指示をした。

「これだけの傷だ、気ィ失ってても反射は出るからな。……お前らのボスを片腕(カタワ)にしたくなきゃ、死ぬ気で押さえとけよ!!」

ロータスは、エヴァグリーンが担いできた狙撃手を検分していた。そちらも両腕が砕けて顔面をボロ雑巾のようにされていたが、オルティに比べればよほど軽傷である。そのため、暴れ出さないように拘束されて放置されている。

「ライドウ一門の奴だろう、腕のいいスナイパーがいると聞いたことがある……。」

カマロは相変わらず震えていた。部屋の主人であるのに、隅に追いやられて膝を抱えている。
エヴァグリーンははたと気づく。

「……お前ら、カマロを殺しに来たんじゃねえのか」
「あのなあ。何にも知らない実行犯(パシリ)を殺してなんの意味があるんだよ。」

ロータスは呆れたように、エヴァグリーンの深い草色の頭を小突いた。

「俺は、てっきり……。」
「とはいえ、やったことはやったことだ」

ロータスはカマロの方へ向き直った。

「利用されただけで、理不尽と思うだろうけど……君、田舎に引き取ってくれた人が居るんでしょ。そこに帰りなさい。当分、そこで隠れていた方がいい」

驚くエヴァグリーンに、ロータスは小声で耳打ちする。「オルティさんもそう言いに来たんだよ」、と。エヴァグリーンは、未だ治療中のオルティのほうを見た。何でそういうことを始めに言わないんだ。
カマロは膝に頭を埋めたまま、ぼそぼそと話す。

「……俺がその、ライドウの人たちと手を組んだりしたら。って思わないんですか。」
「君にそんな度胸があるとは思えない」

ばっさり。カマロは不貞腐れたように、何も反論しなかった。

それからオルティは、エヴァグリーンの部屋に担ぎ込まれた。ガレージよりは良いだろうというナダレの判断だ。どのみちナダレはこの後数日、つきっきりでオルティの傷を洗い続けなくてはならない。吹きっさらしのガレージよりは、まともな屋根とバスルームのある環境のほうがよほどマシだということだ。
そして、今度はエヴァグリーンのほうが、自身の部屋の隅でうずくまる羽目になった。

「知らねえぞ、部屋ごと爆破とかされても」
「そんな手を使ってくる奴なら、もう事務所ごと爆破してるだろ」

それもそうだ。意外にナダレは頭も回るらしい。

オルティが目を覚ましたのは、狙撃からまる2日後だった。
それを見たナダレは深々とため息を吐くと、床の上で小さく丸まった。

「何かあったら起こせ、俺はちょっと寝る」

言うなり寝息を立て始める。よほど疲れたらしい。

「……医者ってみんなああなのか」
「ナダレだけだぞ」

オルティは痛みに顔を顰めていたが、エヴァグリーンが心配そうに覗き込んでいるのを見ると、唇の端だけで笑みを作って見せた。

「心配をかけたな」
「ロータスに言ってやれよ。ガキみたいに泣いてたぞ」
「怪我のことだけじゃない。お前には謝らないとな、と思ってたんだ。」

オルティは目を伏せた。

「すまなかった。……それと、ありがとう」

長雨の過ぎた外の陽光が、カーテン越しにその横顔を照らす。少しやつれてはいたが、オルティは相変わらず美しかった。白金の髪がはらはらと、空調に揺れて零れ落ちる。
それは生命の(またたき)でもあったが、もっと死に近い、静謐(せいひつ)な美しさだと、エヴァグリーンは感じていた。——こいつはどれだけ、他人のために自分を削れば気が済むのだろうか。

「……悪いと思ってんなら、とっとと治って出てけよ。つか、お前の部屋でもいいだろ」
「俺にもプライバシーがあるんで……」
「どのツラ下げて言ってんだよ」
「それに、お前は俺の護衛でもある。きっちり仕事してもらうぞ」

軽いやりとりは、エヴァグリーンにカマロを思い出させる。カマロはあの後、ロータスが送って行った。須藤(すどう)飛蝗(ばった)衆、という運び屋を使って、彼の田舎に届けるらしい。業界一の信用を誇る運び屋だというが。

「そんな顔するなよ。運び屋は信用商売だからな。荷主(にぬし)を裏切るようなことはしないさ」
「……俺まだ何にも言ってねえぞ」
「全部顔に書いてある。お前、本当に分かりやすいよな」

カマロも、そう思っていただろうか。彼は手荷物だけを持って帰って行った。連絡先も聞けなかった。そのほうが、彼を商会とは繋がりのない者だと思わせられて、安全だから。
彼のバイク、パイルダーといくつかのCDは、エヴァグリーンが貰い受けることになった。

ベッドには怪我人であるところのオルティを寝かせて。エヴァグリーンは夜中じゅう、ぼうっと目を覚ましていた。竜種は、厳密には睡眠を必要としていない。眠るのはなんとなく、そうしないと座りが悪い気がするからだ。オルティが微かに呻き声を上げた気がして、エヴァグリーンはベッドのほうを見た。呼吸が荒い。傷のせいか、少し熱があるらしい。

竜種なら、撃たれても。仮に本当にカマロが撃たれていたとしても。心核を外していれば、それは致命傷にはならない。オルティの負傷は、完全に無駄な事だったかもしれない。もしもの話だというのは分かっている。オルティは最悪を見越して動いていると理解している。同じ竜種であるエヴァグリーンだけが、『竜種は撃たれても簡単に死なない』と知っている。オルティがそれを知ってなおカマロを庇ったのなら、それはオルティがよほど、自分の命を軽く見ているということになる。
汗を拭ってやっていると、オルティは目を開けた。

「……悪い、喧しかったか」
「別に」

ベッドの縁に腰掛ける。水のボトルを渡してやると、オルティは器用に起き上がってそれを飲んだ。

「……大丈夫なのか」
「なに、……しばらく肩が上がらないだけだ。心配ない」
「そうじゃねえよ。怪我のことじゃねえ……クソッ、うまく言えねえ」
「なんだ、心配してくれてるのか? 俺をブッ殺してやる、んじゃなかったのか?」

電話のことを根に持たれている。
……そうやってすぐに、会話の筋道をずらしてくる。エヴァグリーンは、それが分かるほどオルティに馴染んでいた。

ナダレは往診に切り替えて、ロータスに伴われて毎日やってきた。オルティはその折に仕事の指示をしていた。ナダレは往診にぐちぐちと文句を言いながら、ガーゼを変えた。お前が来いよ足は無事だろうが、と。平和も平和で、驚くほど何事も起こらない。
ナダレは後ろで見ている、エヴァグリーンとロータスを叩き出した。邪魔だとか、不衛生だとか言いながら。そして、ふたりきりになってようやく、苦々しげにオルティに告げた。

「ダメだな、経過が悪い。遅すぎだ。」
「やっぱりか」
「熱は?」
「少しだけ」

許容範囲だ、とナダレは頷く。敗血症を引かなかっただけでもありがたい。

「……薬は、いつまで断てるかな」
「まあもう、2、3日様子を見る。吐き気とか、どこか痛いとかは?」
「むしろ痛みは治まってる」
「だろうな。休薬中みたいなもんだ」

ナダレはてきぱきと処置を済ませる。珍しく、彼は酒もドラッグも入れていないらしい。ガーゼを替えて、包帯を巻き直す。首の傷も同じように。ナダレは作業をしながら、ためらうように尋ねた。

「あの竜には、言ってあるのか?」
「エヴァグリーンに? ……何でだ?」
「何でって……まあ、言ってないんだな。商会の連中にも言ってないんだろ。あのなあ、そういうの止めろ」

オルティは、同じことを何度も聞かされている。ナダレはいざという時、オルティが誰のことも頼れないと心配しているのだった。

「……妹さんのことか」

ナダレは確認するでもなく、呟いた。

「復讐なんか望んでないと、そう言いたいのか」
「さあな。俺なら復讐してほしいと思うかも。けどオルティ、お前が無理するのはあの子のためじゃないだろ。だから俺は気に入らない」

オルティは何も答えない。ナダレが伊達や狂酔ではなく、真摯(しんし)に、医師として話していると分かっているからだ。それでも。オルティは左頬の向かい傷を、そっと親指でなぞる。

「……やっと手がかりを掴めたんだ。まだ、始まってもない。俺の仇討ちはここからなんだよ……。今やっと、幽霊船に手が届くところなんだ」

ナダレは、オルティの鋭利で静かな横顔を見ている。今にも命を使い果たして、燃え尽きそうな眼差しを。それ以上、ふたりは何も話さなかった。

「歳食うと、何でも治りが遅くなるよな」

数日もすれば、片腕が使えない割には、オルティはかなり活力を取り戻していた。
仕事に滞りのないように、オルティは幾らかのデバイスを事務所から運ばせた。医療機器も含めて、エヴァグリーンの部屋は要塞のようになってしまっている。機材が普通に邪魔だ。このガジェットオタクめが。
早く治して、出て行ってもらいたい。冗談抜きで。エヴァグリーンは機材の向こうのオルティに声をかけた。

「……おい、メシ買ってくる。何がいい」
「栄養バーでいいよ」
「却下」

片手なんだからしょうがないだろ、とオルティは我儘を言っていたが、無視した。前にロータスが奢ってくれたサンドイッチにしてやる。甘ったるいコーヒーつきで。

街は随分と肌寒くなった。
エヴァグリーンがオルティと出会ったばかりの頃は、まだ夏の熱気が残っていた。けれど、今はもう上着なしではいられない。羽織ったジャケットの首元までチャックを引き上げ、耳が見えないように、フードを被る。じきに街には雪も降り出すだろう。
どうしていたか、思い出せない。
以前はどうやって、この寒い日を乗り切っていたのか。こうして暖かいコーヒーを買うことなんて……それも他人に分け与えるためにそうするだなんて、一度も考えたことはなかった。

それも全部、オルティと出会ったせいだ。

出会って良かったなんて言う気はない。そんな事を言っても調子に乗らせるだけだろう。
帰ってドアを開ける。相変わらず機材の低い稼働音がしているが、オルティの姿がなく、水場のほうの灯りが付いていた。

「おい、メシ」

呼びかけても返事がない。コーヒーが冷めるだろうが、と覗きに行くと、オルティはそこで(うずくま)って、小さく呼吸していた。

「どうした……傷、痛いのか」

近づくと、オルティの手元が濡れているのに気づく。そこには血と、なんだかわからない液体でぐしゃぐしゃに濡れて(しお)れた、羽毛のようなものが握られている。

「……何だ、それ」

オルティは微かに笑った。

「クソ……よりによって帰るのが早い……」
「寒かったんだよ。で、何だそれ」

答えはない。ただ、オルティの呼吸は浅く早い。何かが喉に(つっか)えているような、呻くような咳だけを繰り返す。エヴァグリーンは、なるほど、と思う。そしてオルティの頬に触れると、弱々しく抵抗する口の中に、指を突っ込む。

「出せ」

オルティはまだしばらく抵抗していたが、結局、そのままエヴァグリーンの服を汚すことになった。

その後、ナダレを呼びつけて面倒を見させ、オルティの容態は落ち着いた。水場で脂汗をかいていたころに比べれば、ではあるが。相変わらず呼吸は浅く、()せるような咳を繰り返す。それが傷に障ったのか、首筋も肩口も、血を滲ませている。
エヴァグリーンは、ナダレ以外の誰も呼ばなかった。他人に隠したいのは、倒れていた時の態度で分かる。

「あれは、何だ」

エヴァグリーンはナダレを問い詰めることにした。ナダレは少し躊躇(ためら)ったようだが、観念したように唇を開く。

羽化症(うかしょう)って病気だ。……皮膚表面の細胞が羽毛の芽に置き換わる。内臓もだ。……これ以上良くはならない」

それは、死病である。
羽を持たないトヲラス人は、遺伝的にこの病を発症しやすい。現代では、翼に変わるはずだった遺伝子が狂った結果だと考えられている。しかし、トヲラス人は伝統的にこれを、罪科(つみとが)への罰であると。そうでなければ理不尽だと認識していた。それはまさに、血の呪いであった。
投薬は身体への負担も重く、ただ命をわずかに長引かせるだけだ。いずれにせよ、いつかは苦しんで死ぬことになる。

エヴァグリーンはそれを聞く前から、なんとなく、そんな気がしていた。ずっとおかしいと思っていた。どれだけの覚悟をしていても、虚勢を張っても。死に際した人間は、わずかでも生きようと(もが)くものだ。それは欲求というよりも、反射のようなものだ。エヴァグリーンは、殺し屋としてそれをよく知っている。
オルティにはそれがない。量り売りするように淡々と自分を切り取り、誰かのために使う。単なる献身とは違う。ただその方が命を有効に使えるから、そうしている。

ゆっくりと、柔らかく死に続けているから。

オルティにとって、死に向かうことはもはや、異常事態ではなくなっている。それだけのことだ。驚きはしなかった。むしろ、納得がいった。

「あいつは、普段は薬で症状を抑え込んでるだけだ。だが、……ええと、副反応じゃわかりにくいか。その薬は、血を止まりにくくしたり、代謝、つまり身体が治ろうとするのを遅くする力もある。だから今は傷の治療を優先して、薬を止めてる。それで病気のほうの症状が活発なんだよ。」

ナダレは頭を掻いた。エヴァグリーンが黙りこくっているので、意味が伝わっていないと思ったのか。それとも、責められていると思ったのか。

「本当に、治療の甲斐のない病気だ。投薬は激痛だし、患者は死ぬと決まってる。……悪いが俺には何もできない。治してやれないし、休薬も投薬の再開もあいつの意思だ。俺にできるのは、薬の量を適切にするぐらいのことだ」
「……そうか。」

エヴァグリーンは、それを肯定も否定もしなかった。ナダレはいつものように悪態をつかず、神妙な顔つきのまま、黙って帰って行った。

静かになった部屋で、エヴァグリーンは横たわるオルティを眺める。
怪我をしていないほうの右肩を下にして、薄くタオルケットを羽織って。その背には、トライバルの翼が畳まれている。それは、翼を持たずに生まれてきた子どもたちのために贈られるものだ。年齢を重ねるたびに描き足され、彼らが無事に大人になれば、その背には立派な翼が備わる。そうして羽化症を遠ざけようと、トヲラス人は連綿と祈り続けている。
そっとベッドに近づいても、オルティは身じろぎひとつしなかった。それほど体力を失っているのか、それとも、エヴァグリーンを警戒することをやめたのか。白金の髪を手に取る。それはさらさらと流れて、エヴァグリーンの指をすり抜けて行った。

首筋にそっと、鼻先を寄せる。
いつものように、香水や煙草の(かおり)はしない。ただ、薬品と血の匂いがするだけだ。……香水は、治療薬の匂いを誤魔化すためだったのだと、その時ようやく気がついた。

食事が嫌いなのかと思っていた。純粋に、食べられなかったのだ。甘いものが好きなのかと思っていた。機能を失いつつある舌が、味の濃いものしか判別できないだけだった。手袋で指先を覆っているのは、治療薬で爪や手指が荒れてしまうからで。潔癖でいようとするのは、風邪程度でも死にかけるからで。——崩れ落ちそうな身体を必死に、ボスとして相応しく見せようとしていたのだと、知ってしまった。

エヴァグリーンは、それを暴いてしまった。

オルティのために買ってきたコーヒーは、もはや冷たくなっている。それを流し込む。暴力的な甘ったるさが、どろりと腹の底に落ちていく。
彼が作り上げた、オルティ・クラヴィアドという砂糖菓子の虚像。子供騙しのシロップ薬。
それを剥ぎ取られたオルティは、ひどく弱々しく、痛々しかった。

冬が本格的に訪れる前。オルティは通常業務に復帰した。とはいえエヴァグリーンの部屋に機材を持ち込んで働いていたわけで、休んでいたというのもおかしな話ではある。
薬を再開するときになって、エヴァグリーンは一度だけそのことを聞いた。投薬は激痛だ、とナダレが言っていたから。
点滴を受けているオルティに、痛むのか、と尋ねると、オルティは笑って、「少しだけ」と言う。

「もう慣れた。10年もやってりゃな」
「……慣れるなよ、そんなもんに」

エヴァグリーンが意外に、真面目な声を出したからか。オルティはそれ以上軽口を叩くことはしなかった。代わりに。

「俺からも、ひとつ聞きたいことがある。お前と、イーデンの関係だ。……ただ幽霊船を探すだけなら、聞かなくてもいいことだった。だが、事情が変わった。」

普段の説明の無さからすれば珍しいほどに、オルティは整然と手札を並べていく。エヴァグリーンにも分かりやすいように。

「お前に頼まれる前から、俺は訳あって、イーデンの手がかりを追ってる。多分、お前が初めに俺を殺すように依頼されたのは、それが理由だ。お前に依頼を流した奴は、お前がイーデンの関係者だとは知らなかったんじゃないか?」
「……」
「……話したくないことか?」

オルティは、エヴァグリーンが沈黙するなら、無理に話せとは言わないだろう。今のエヴァグリーンにはそれが分かってしまう。
躊躇(ためら)いながら、唇を開いた。
ごぼごぼと、泡沫の浮かび上がる音が、今も耳の奥で聞こえる気がする。

「……俺は。そこで生まれた。」

竜種は、卵として世界に産み落とされ、日を空けて孵る。それが一年二年になることもある。だから、親が子の面倒を見ないことはざらであり、それこそが、彼らが社会的な動物として発展できないことの証左でもある。
そして、誰から名付けられることもなかった竜種は、自身の生まれた場所や、育った場所を自らの名乗りとする。
エヴァグリーン。祝福の常若木。

楽園(イーデン)より来たりし、いずれ楽園(イーデン)へと帰る竜。そうエヴァグリーンは、自分自身を定義したのだ。

楽園の名を冠したその船で、エヴァグリーンは孵った。黒曜石のような立派な殻をしていたその卵は、その日、価値を失った。孵ってみれば何の変哲もない、ただの竜種であったのだ。蒐集船が載せるものは、価値あるものだけ。集めるべき、蒐めるべきものだけ。
エヴァグリーンは、波間に流される時になって、ようやくそれが世界ではないと知った。それはただ巨大な船である。楽園でなく、世界ですらない。それが都市伝説に語られる蒐集船だと知ったのは、比較的後になってからのことだ。

「あの船を沈めたい、って言っただろ。……売れる物なら何でも売る連中だ。たとえ卵の殻だろうが。奴らが今ものうのうと、何かをカネに換えてるなんざ許せねえ。」

エヴァグリーンの言葉に、オルティは頷く。オルティも船を沈めることに異存はない。
オルティの知る、イーデンの都市伝説はこうだ。
それは価値のあるものを蒐める船である。価値とは何か。初めはただ、「世界のためになるもの」を集めていたという。眉唾物のアーティファクトや、人に知られてはならない技術。それを集めて洋上に隔離することで、世界を守っているのだ。
またある伝説では。イーデンは高価で珍しいものを蒐め、オークションにかけるのだという。世界に名だたる金持ちが、珍しいものを買い漁る。その(ハク)付けのために「世界のためになるもの」や、「ありえないアーティファクト」なんて伝説を流している。その実態はただカネと欲の楽園であるのに、と。

「俺も、あんな物が実在するなら。何が何でも止めるべきだと思っている。現代の奴隷船だ。人攫いでも平気でやる。……俺の妹が、そうだった。」

オルティの妹、タリー。彼女は、『羽のある』トヲラス人であった。トヲラス人の中でも2割に満たない『天狗』(シエルトリアナ)は、基本的にトヲラスの国土から出ることはない。アルシァラのような例外はあるが、大抵は宗教的な理由から、神学の道へと進む。
しかし彼女は、兄の留学に連れ立って、アルスという国を訪れた。両親の反対を押し切ってまで。タリーはそれだけ兄に懐いていたのだった。

そして故国を離れたトヲラスの『天狗』が、彼らの目には価値あるものとして留まったのだ。

「攫われそうになったあの子は、……きっと必死で抵抗したんだろう。終いには羽を切り落とされて……発見された時には、命も危ない状態だった。それでも、生きていてくれた。」

オルティはただ、悼むように目を閉じる。頬の傷を、なぞりながら。

「俺は妹を救えなかった。……これは、タリーが俺につけた傷だ。あの子は目に映るもの全てに怯えていたから。それで、そのまま、……。あの子は人として扱われなかったせいで、自分は人として、生きる価値がないと……。」

ふう、とため息を吐いて。オルティは自分のジャケットを指差す。それは肩に穴の空いたままだったが、オルティが手元に置いておきたいと言ったので、エヴァグリーンの部屋に運ばれて、血に汚れたまま壁に架けられていた。
エヴァグリーンが言われるままにポケットを探ると、二重になった内側の袋に、小さなカードが入っていた。どこかのIDのような、顔写真の入った、擦り切れたカード。
エヴァグリーンは、それを見た時に。強く心核(しんかく)が脈打つのを感じた。その顔に、見覚えがあった。泡沫の音が一層強く浮き上がる。

「俺はこいつを知ってる……!!」
「それは、あの子が奪って、隠していたものだ。……俺の道標だ。それが、お前と引き合わせてくれた。珍品オークションは真実か……。全く……。」

オルティはくつくつと笑う。バイカラーの瞳がぎらついていた。獲物に食いつく寸前の鮫のような、凶悪な笑みだった。

「……俺は、その黒曜石の殻を見たことがある。3世のことを覚えているか。……彼が持っている。」

(続く)

#9 デビルズ・ダンス・ヘブン・アンド・ヘル

冷たい潮風が、雪と共に吹きつける。晩秋の港は、都会よりも随分と寒い。
積み上げられたコンテナの間は、まるでビルが建ち並ぶ、大通りのようになっている。ライドウ一門は、スプラウスから破門を食らった後、みじめな仕事に落ちぶれた。運搬中の電化製品を奪い、倉庫を襲い、街中で車を盗んではスクラップを剥がす。盗品でできた都市鉱山こそ彼らの労働場所であり、それを(さば)くのがこの港だ。あちこちのコンテナの影で、ニット帽とダウンの男たちが火を焚いて、きつい酒を片手に談笑している。彼らは皆、ライドウの配下である作業者、すなわちチンピラだ。
オルティはエヴァグリーンとロータスを伴い、そこを堂々と歩いていた。アイボリーのナポレオンコートが雪風に(ひるがえ)り、コートの飾り羽は孔雀(くじゃく)のように揺れる。
いかにも学もカネもなさそうなチンピラたちは、オルティを見留(みと)めると次々に、ぎょっとしたように固まった。

オルティが狙撃されてから3週間が経っていた。しかし、肩を貫く銃創がそう簡単に癒えるはずがない。だというのに、目の前のその、四ツ葉の魔法使いときたら! まるで凍った路面を意に介さず、軽やかな足取りでいるのだ!
まさか。奴は当面動けないはずじゃなかったか。あり得ない——。口々の囁きを聞き取り、オルティは微笑み、ロータスは苦い顔をして、エヴァグリーンは声の主を片っ端から睨む。

「おい、サダル。あんまりはしゃぐな……。」

ロータスは、前を歩くオルティに小さく耳打ちした。

「あはは、ダメだよ。今はぼくのこと、『オルティさん』、て呼ばなきゃじゃないの?」

オルティ——もとい、彼に化けた不死身のシェイプシフター、サダルメリクが小声で言い返す。
サダルメリクの変身は、外見は完璧に模倣できる。本物のオルティが、まるで怪我なんかしていないように、踊るようにやってきたと。ライドウの連中は恐怖していることだろう。
とはいえ、だ。

「オルティさんが! こんな所で! そんな浮かれてぴょこぴょこ歩いてるわきゃないだろ!」

ロータスが小声でツッコミを入れる。
外見は完璧に模倣できる。外見は。……中身に関しては、サダルの『なりきろう』という気分によるところが大きい。結果、雪の港で大はしゃぎのオルティが爆誕しているワケだ。ロータスは胃でも痛めていそうな顔で、当たり散らすように周囲のチンピラを睨んだ。
そのやりとりを眺めながら。案外、本物もこうな気もするが、とエヴァグリーンは首をかしげる。

彼らの正面には、積み上げたコンテナを足場にして、簡素なプレハブが建てられている。雑に溶接された階段を登ろうとすると、チンピラたちも(おもむろ)に前に出てきた。(いま)だ彼らはオルティに怪訝(けげん)な眼差しを向けてはいるものの、いくら何でも無条件に通す、というわけにはいかないらしい。ニットの下から、闖入者(ちんにゅうしゃ)たちをきつく睨め付ける。

「おい」

エヴァグリーンは、手近な男を捕まえる。そして、思い切りその男の(あご)に、頭突きを喰らわせた。哀れにも歯が砕け飛んだ。よろめき足を滑らせる男をぎゅっと掴んだまま、エヴァグリーンは牙を剥き出しにして、チンピラたちを見渡した。

「てめえら三ン下じゃ、話にならねえんだよ。邪魔だ。話の分かるヤツ出せ。」

すると、プレハブ小屋に突き刺さるように備え付けられているスピーカーが、ハウリングの唸りを発した。

『構いません。通しなさい。』

ざらついた音質の悪い放送だったが、それはまだ幼い、凛とした少女の声を響かせた。

外では室外機がスノーマシンの様に、降り積む雪を吹き散らかしているのに。プレハブの中は風がないだけで、寒さは外とさほど変わらない。ストーブの電熱線が真っ赤に熱を発していたが、冬に手向かうには小さすぎる代物だ。
小屋の中は真ん中で二部屋に仕切られている。奥がボスや幹部の執務室になっているのだろう。ガラス越しに部下に指示を飛ばすためか、室内に向けたスピーカーも設置されている。奥は暖房が効いているのか、ガラス面はところどころ曇り、結露していた。

「四ツ葉のおじ様。お久しぶりですわね。大怪我されたと伺いましたけれど、もうお加減はよろしいの?」

ライドウの頭、ライカ。
彼女はまだスクールに通うような年頃の娘だ。まるでスクールの制服のような愛らしい服装で、ガラスの向こうで大きな椅子に沈み込むように座って、鈴を転がすような声を響かせている。
彼女の隣には、むくつけき巨漢が立っていた。小山のような体格の、ライカとは親子ほども歳が離れた男だ。ライカの側近だろうか。おそらく外の連中程度なら、彼は赤子の手を(ひね)るように黙らせることができるだろう。エヴァグリーンは彼を注視した。……戦闘になれば、あれを押さえるのは自分だ。

「おかげさまでね。心配には及ばないよ。」

サダルメリクはいつの間にか、すっかりオルティになりきっていた。全てのギアがなめらかに噛み合ったかのように完璧だった。不気味の谷だった『オルティもどき』が、今は四ツ葉の王の威容を保ち立っている。その圧倒的な『変身』は、それと知らなければエヴァグリーンでも見抜けないだろう。サダルメリクはサングラスを外し、ライカに余裕そうな笑みを送ってみせた。瞳のバイカラーの輝きまで完全再現だ。

「これ以上、腹の探り合いは不要だろう。今日は快復のご挨拶に来たわけじゃないんでね。」

サダルメリクに促され、ロータスは、懐からタブレット端末を取り出した。そして、灯された画面をライカの方へと向ける。ライカは平静を保とうとしていたが、その画面を見た時には微かに身体を強張らせた。

「お嬢さん。この男のこと、ご存知ですよね?」

そこに映し出されたのは、あの時オルティを撃ち抜き、エヴァグリーンに制圧された狙撃手だった。3週間経ったとはいえ、簡単な添木だけを施された腕は、快癒とは程遠い状態だった。それに加え、エヴァグリーンが顎も叩き折ってしまっている。食べることもままならず、彼の頬はげっそりと削げ落ちていた。
ロータスはライカの反応を見て、にやりと笑った。彼女は身を固くしたが、何も画面に映った男の凄惨な有様に恐怖したからではない。あれは、身内がどれほど悲惨な状況でも『生きている』。それ自体を喜ぶ眼差しだ。だからこそ、揺さぶり甲斐がある。

「ご存知ですね」

もう一度、ロータスは念を押すように言った。
ライドウ一門は荒くれ者の集まりだ。そんな彼らが頭として、まだ若く、いっそ幼いライカを担ぎ上げているのには理由がある。彼女は先代の実の娘だ。一門のものは彼女が幼い頃から、己が娘のように彼女を可愛がってきた。先代への血の誓い、そして家族のように強固な絆が、彼女を神輿(みこし)に座らせている。彼女は導き手であり、アイドルだ。何の力も持ちはしない。しかし、周囲の男たちは彼女をこそ戴く。一門が紛れもなく、『家族』である証として。
それは、オルティの在り方と、似ているようで異なっていた。

「……知りません。知っていたから何だって言うの。」

それでもライカがそう言い返したのは、彼女なりの矜持(プライド)あってのことだろう。彼女は自分が飾り物であることを知っている。飾り物だからといって、逃れられない境遇であることも。ライカは椅子にかけたまま、ロータスを睨みつける。

「そんなくだらない見世物をしに……」
「メリーラム」

ロータスはライカの言葉を遮り、端末越しに呼びかけた。端末のカメラが動く。それはメリーラムの手持ちである。椅子に縛られて、ぐったりと項垂(うなだ)れている男にカメラが寄った。
エナメルの手袋に覆われた指が、そっと彼の壊れた腕を握る。ただそれだけの行為で、男は身を(よじ)って暴れようとする。歯の抜けた唇から、血膿が(よだれ)と共に滴る。それをカメラはじっと見つめる。
ライカは、ほとんど蒼白になっていた。

「お嬢さん。俺たちが、あんたに何をしに来たと思ってるんですか? 面白い手品でも見せてもらえると思いましたか?」
「……っ、」
「俺たちは、あんたを脅しに来たんだ。あんたが知らないって言う度に、彼の指を潰します」
「おじ様!!」

ライカはオルティに向かって、助けを求めるように声を張り上げた。が、サダルメリクはあくまでオルティらしく、肩をすくめて見せるだけだ。画面の向こうが激しく揺れる。ライカは目を背け、ぎゅっと(つむ)った。小さな肩が震えている。
不意に、ばん、とガラスが強く叩かれた。ライカの隣に控えていた巨漢が、憤怒の形相で睨んでいる。まさしく怒髪天を突こうという有様だった。みしみしと厚い強化ガラスが軋み、亀裂が広がる。
エヴァグリーンは低く構えた。ライカは半泣きで叫ぶ。

「だめ!やめて!トール!ナルカミが殺されてしまう——!!」

がしゃん、と砕けたガラスが注ぐ。まるで(いわお)のようなごつごつした肉の塊が突っ込んでくる。交錯の刹那、エヴァグリーンが前に出る。ふたりは犬のようにもつれ合い、転がった。
交渉を小屋の外で見守っていたのだろう。ライドウのチンピラたちが次々と小屋に(なだ)れ込んでくる。彼らの目に映るのは、(おび)えるライカの姿だけだ。各々、スクラップに使うバールや溶接トーチで武装している。ロータスも懐の短銃を抜いた。

「……どうしますか、オルティさん」

ロータスは小声で、インカムに向けてそう呟いた。

「仕方ないな……メリーラム、一旦止めだ。そいつ死なせるなよ。まだ使うから。」

インカム越しに指示を飛ばしながら、オルティはため息を吐いた。
相手方の護衛も護衛だ。ボスを守るのが仕事だろうに、自分が挑発に乗ってどうする。

「エヴァグリーン、お前はそいつを引きつけとけ。ロータス、あんまり雑魚と遊ぶなよ。サダル、まだしばらく『俺』でいろ。」

そして、蜂の巣を突いたように騒がしくなったインカムの音量を下げる。オルティは呆れたように、柔らかな椅子に沈み込む。

「どうかね、首尾は。上々、というようには見えないね。」

そっとグラスが差し出される。それは水を注いであった。オルティが仕事の最中であることを(おもんぱか)ってのことだ。それを差し出したのは、華麗なるカジノの王、シュワルツだ。愉快そうに微笑んでいる。

「キング。どうか、お構いなく。部屋を貸していただいただけでも、充分すぎるほどです……。」
「そっけない事を言うものじゃないよ。お前には、随分と怖い思いをさせてしまった。警備体制を見直したから、安心してくれたまえ」

カジノの入り口には、まるで空港のような金属探知機が設けられていた。そればかりではなく、黒服の人数も増やしているようだ。VIPラウンジから直接、ホテルの一室に入ったオルティは、それをちらとだけ見ていた。シュワルツも、あの日の襲撃はよほど腹に()えかねたらしい。相当、金を注ぎ込んだと見える。
ふと、インカムが通知を鳴らす。ロータスだ。

「どうした?」
『俺のほうは良いんですが、その……エヴァが帰ってきません』

オルティは苦笑して、手元のラップトップの画面を切り替えた。それはエヴァグリーンの襟元に付けたミニカメラだ。どうせ(はぐ)れると思って、別個にしておいたものだった。
トール、と呼ばれていた巨漢と楽しげに殴り合っている。竜種にしてみれば、自分たちのじゃれあいに付いてこられるだけで、人類種を認める理由になるのだろう。是が非でも、始めに力関係をはっきりさせておいて良かったと、オルティはエヴァグリーンと出会ったばかりの頃を懐かしむ。
画面の中では、激しく風雪(ふうせつ)が吹き付ける。馬鹿でかい男と何度も組み合っては殴り合い、互いに血糊を飛ばしている。何してるんだ、全く。

「エヴァグリーン、もう充分だ。ロータスの所へ戻ってやれ」
『だとよ、デカブツ!』

言うなり、エヴァグリーンは巨漢の太く逞しい脚を踏み台にして、身を捻る。鋭く振り抜かれた膝が、トールの蟀谷(こめかみ)を強かに撃ち抜いた。そのまま彼は凍った路面を転がっていった。

『おい! 今の見たか! テレビで見たやつだ、上手くできたぞ!!』
「はいはい、あんよがじょうずで大変宜しい。分かったから早く戻れ。転ぶなよ。」

うるせえな、と威勢のいい返事がインカムに返る。その直後、カメラは突然空を映していた。だから言ったのに。

ライカを孤立させてしまえば、後はなんとでもなるだろう。オルティは続けて、アルシァラに向けてショートメールを打った。健闘した彼らに迎えを出させるため、それから、人質を運ばせるために。アルシァラにもインカムを付けるように言ったのだが、彼はむさ苦しい殴り合いの音なんか聞きたくない、とそっぽを向いた。反抗的な態度はともかく、話し合いで済むわけがない、と見抜いていたところは大幅な加点である。
すぐにショートメールに返事が入る。サムズアップの絵文字だけの簡潔なレスポンス。全員が無事に帰るまでは気を抜けないが、オルティは深く安堵していた。……自分が現場に居なくとも、彼らは立派にやっている。
オルティの纏う空気がふっと和らいだためだろう。隣の椅子にかけていたシュワルツは、顔を上げてオルティを見た。

「まるで、我が子を見守る父親の心境だな。私にも息子が居るからね、よく分かる」
「私は彼らの父になったつもりは無いのですがね……でも、彼らの成長を見るのはとても楽しい。」

シュワルツは、自分のグラスにシャンパンを注いだ。金の泡が浮かんでは弾ける。それを手に取り、シャンデリアの灯りへと透かす。美しく、そして、儚いもの。飲み干せば消えてしまうひとときの夢の、さらにその中を迸る、小さな泡粒。シュワルツはそのひとつひとつを愛でるように眺めた。

「君が寄越してくれた、可愛い坊や。アルシァラは、よくやってくれているよ。」

オルティの後任として、アルシァラはシュワルツとの商談を担当していた。シュワルツがオルティを評価していたのは、その目利きの正確さだ。
街の飲食店や娼館などは人数的な需要が高いので、オルティも積極的に求職中のトヲラス人を斡旋(あっせん)してきた。シュワルツは基本的に否定をしない。どの店だって、オルティが差し出す人員にこれまで不満が出たことはないからだ。それぐらい、オルティという男は、自身が関わる人間への評価が適切だった。そのオルティが後に据えたのだから、彼の目利きはオルティの眼鏡に叶う程度に正確なのだろうと信頼した。事実、アルシァラはオルティと同じか、それ以上に素晴らしい目の持ち主だった。

「アルシァラはまだ若く、至らないところがあるでしょう。どうぞ、指導してやってください」
「お前は、彼とはあまり折り合いが良くないのだろう? 何故、彼を重用している?」

シュワルツの疑問は(もっと)もだ。
アルシァラはオルティに当たりが強い。アルシァラのプライドの高さは、優秀であるがゆえのものだ。そして、生まれつき翼持つ『天狗』(シエルトリアナ)であるがゆえのものだ。その彼が祖国であるトヲラスを出たのには、止むに止まれぬ事情がある。
オルティは、アルシァラを第二のタリーにしたくはなかった。

「私が彼に何かしてやれるとすれば、それは彼の生命と自由の保証だけです。この国で生きる方法を身につけること。それを教える事だけです。」
「それで、私のところへ?」
「あなたは、とても優しい方ですからね。それでいて、私はあなたほど厳格に、ご自身の枷鎖を守っておられる方を知りません。」
「おいおい、褒めても何も出せないぞ。四ツ葉の魔法使いめ。」

シュワルツは上機嫌に、シャンパン・グラスを傾けた。オルティは、目を細める。

「それに、クローバー貿易商会というのは、仕事場なのです。彼らが私を、それこそ父親のように慕う気持ちは嬉しい。けれど、いつまでも家族ごっこではいけない。……アルシァラは、見込みのある男ですよ。」

その微笑みは、わずかに自嘲に寄っている。
シュワルツは、その種の笑みを頻繁に見る。それは、後先がない者の顔だった。

「……お前は、もう、私に会いにくる気はないのだね。」

オルティは何も答えなかった。その沈黙こそが、明白な答えであった。

「それほど、悪いのかい」
「……春までは保たないと、医者には言われています。」
「そうか。寂しくなる。」

シュワルツはそっと、オルティの黒い手袋に包まれた手の甲に、自身の手を重ねた。オルティはわずかに躊躇ったが、結局、それを避けはしなかった。シュワルツが決して無理強いをする相手ではないと知っていたからだ。

「最後の記念、というわけではないが……一度ぐらいは、口説かせてくれないか?」

シュワルツは、オルティ自身を深く気に入っている。それは、仕事の良し悪しとは関係ない。純粋にこの男の仕草や佇まいが、花のように力強く、美しいからである。シュワルツは美しいものを愛しているのではない。美しかろうが醜かろうが、強く咲き誇るものをこそ、愛していた。

「私では駄目かな?」
「駄目です」
「いつもながら、つれない男だ。私はお前をこんなに高く評価しているのに……一度ぐらい私と寝てくれてもいいじゃないか? そんなに私は魅力がないかね?」

くつくつと笑いながら、拗ねたように、シュワルツは唇を尖らせた。この華やかで過激な夜の街の王は、決して個人を寵愛することはない。彼の愛情は広く街中に注がれるものだ。そうでなくては、不夜の主人は務まらない。シュワルツは遊びのつもりで、本気のつもりでもあるのだった。オルティもそれをよくよく理解している。

「キング」
「ああ。こうもきっぱりと断られては仕方がない。まさに高嶺の花というものだ。お前を忘れるのは骨が折れるだろう……」

そう言うシュワルツの側に寄り、頬に手を添えて。オルティはそっと、唇を重ねるだけのキスを与えた。

「これで、貸しにしていただけませんか」

ほんの一瞬のことだ。柔らかな唇も、清涼なムスクの(かおり)も、シュワルツのもとへは留まらなかった。ただ眩しい余韻だけを遺していく。咄嗟(とっさ)のことにシュワルツは、自身の唇を指先でなぞると、してやられたと言うように笑った。

「何てこった。お前は本当に、魔法が使えるのだね」

「結局、ライドウも利用されただけのようですね。金で釣られるとは、落ちたものです。」

ロータスは報告しながら、ターキーを齧っていた。外の寒さがよほど骨身に沁みたのか、ウイスキーが止まらないらしい。寒々しい港から一転、カジノのVIPラウンジへ横付けされたバンは、スペイドが運転していた。ナビはアルシァラだ。彼らは人質の運搬と、ロータスらカチコミ班の護送を見事にやってのけた。

「そんな事だろうとは思っていた。それを確かめに行ったんだ。何も問題はないさ」

珍しく、オルティもシャンパン・グラスを手にしている。それはこの感謝祭ディナーをプレゼントしてくれた、シュワルツへの敬意だった。甘酸っぱいクランベリーソースも、シュワルツの手製だという。
彼は豪気なことに、社員一同を招待してくれたのである。文化圏の違うトヲラス人たちは、馴染みのない感謝祭のディナーに、それぞれ顔を見合わせていた。早かったのはロータスだ。彼は本当に、場に溶け込むのが上手い。
かつて偉大なカジノ王を目前に固まっていたアルシァラは、今はもう堂々とシュワルツと話せている。シュワルツの甘やかな人心掌握の(すべ)を学べば、彼はますます成長できるだろう。
メリーラムはどこか気怠(けだる)げではあったが、満足そうにしていた。彼女は食事が好きではないものの、賑やかな場所は好きなのだ。以前は笑いもしなかった彼女が、そうして穏やかに過ごせていることが、オルティには嬉しかった。
サダルメリクは、社員たちとディナーを楽しんでいる。かつて怪物と呼ばれた彼と親しみ、笑い合う者がひとりでも多く増えればいい。そう願わずにはいられない。
群れからぽつんと離れて、エヴァグリーンが突っ立っている。これは自分の群れではない、とでも言いたげに。目が合うと、エヴァグリーンは困ったように眉を下げた。
仕方ない、声をかけに行くかと思ったところへ、ロータスが割り込む。

「エヴァあ! お前ぇ、ちゃんと食ってるのかぁ!?」

だめだこりゃ、もうベロベロになっている。
酒臭い酔っぱらいに肩を組まれ、エヴァグリーンは鬱陶(うっとう)しそうに牙を剥いたが、それだけだった。そのまま引きずられるように料理の前へ運ばれていく。それはまるで、輝かしい夢のように、愛おしく、いじらしい。オルティは静かに目を閉じる。この光景を、いつまでも憶えていられるように。

「えーーと、自分一言良いですかぁ!?」

ふいに、ロータスが声を張り上げた。まばらな拍手が起こる。ロータスはいつのまにか、高らかにグラスを掲げて皆の中央に立っている。

「まず本日のディナーはぁ、我らがカジノ王様からの賜り物でぇす!! はい拍手! お礼して!! ありがとうございます!!」

先ほどよりは気合の入った拍手。調子のいい連中が指笛を鳴らし、ありがとうございまーす、と合唱する。笑いが起こる。シュワルツは貴族らしく、優雅に礼をした。
それからロータスは、勢い、オルティのほうへ向き直った。

「それからぁ、我らがボスぅ! オルティさんの快復を祝して……」

社員たちの中から、おずおずと、受付嬢のリズが進み出た。手に紙袋を持って。オルティは何事かという顔で彼らを眺めている。

「ちょっと過ぎちゃいましたけどお、オルティさんのぉ、お誕生日でした! おめでとうございました!! ほら拍手!!」

割れんばかりの拍手が、ラウンジを包み込む。エヴァグリーンですら、小さく手を叩いている。リズはオルティに紙袋を差し出した。
リズはにこやかに微笑むと、手話で《みんなで》と形作った。——カンパ。オルティはすっかり、自分の誕生日のことなど忘れていたのに。くらくらした。滅多に飲まないシャンパンのせいかもしれない。

「はい、それじゃ、乾杯!! ご清聴ありがとう!」

拍手。拍手。拍手。
オルティは立ち尽くして、紙袋も受け取れずにいる。気を利かせたリズが袋を開けて、丸いハットボックスを取り出す。黒の化粧箱に、金の箔押し。オルティが好んでいる、ハットメーカーの名門の印章。
自由になる右腕で、箱を開けて。艶やかなアイボリーに、バーガンディのリボン。そっと手に取って、頭に乗せる。羽のように軽い。似合うよボス、と誰かがヤジを飛ばした。

「……ありがとう」

ハットを押さえたまま、(うつむ)いて。オルティは、声が震えるのを止められなかった。

(続く)

#10 ローズ・ハズ・ボムトラック・ソーン

聖誕祭が、日に日に近づいている。
建物は金や銀や、赤や緑のモールを巻きつけられて、街はすっかり賑やかに飾られた。あちこちでモミの木が売りに出されて、緑の香りに(いぶ)される。時には雪が静かに街に降りて、路面をシャーベットに変えていく。町中が今か今かと聖誕祭を待ち侘びている。その最中(さなか)のことである。

エヴァグリーンは大量の荷物を持たされて、オルティの後ろを付いて歩いていた。紙袋を両手に十()はぶら下げている。オルティは上機嫌だ。紙袋の中身は、すべて社員たちへの聖誕祭の贈り物だった。
オルティの頭上には、彼らから贈られたフェドラが乗っかっている。これだけの物を貰ったのだからと、オルティは俄然(がぜん)気合を入れて贈り物を選んでいた。

「こんなに買い込んでどーすんだよ」
「聖誕祭なんだから、プレゼントはあって然るべきだろ。大人でもな。」
「そーいうモンなのか」
「そーいうモンだ。ほら、次行くぞ」

今日のエヴァグリーンは完全に荷物持ちだ。
オルティの左肩は少しずつ良くなってきてはいるものの、まだ動かすだけでも相当痛むらしい。かろうじて肘を曲げて腕を持ち上げることはできる。
それでも車の運転はかなり無茶だと、主治医を務めるナダレは言った。しかしオルティは、どうしても愛車に乗りたがった。尋常ではない金と熱意をかけられたトリノ・バードは、久しぶりの主人との外出を、こころなしか喜んでいるようにも見える。

車に荷物を積み込み、地下駐車場を這い出ると、いつの間にか外は雪模様だ。ちらちらと小さな雪の粒が舞う。オルティは白い空を見上げて、白い息を吐き出して笑った。やっぱりこいつ、雪見てはしゃぐタイプじゃないか。

エヴァグリーンは、これほど楽しそうなオルティを久しぶりに見た。

そういえば、自分を連れて服を買いに出た時も、こんな風だった。まだ街に熱が籠る残暑の、西日が赤く照らす風景を思い出す。オルティと並んで歩いたことを。あの日も山のように紙袋を持たされた。それは随分と遠い思い出になったような、それでいて鮮明なような気がする。

オルティが足を止めたのは、いかにも高級そうなテーラーだった。老舗(しにせ)らしい、重く古めかしい造りの店構えだ。ガラス戸を鈍い金色の真鍮(ブラス)で装飾しているのは、11区のカジノの外観に通じるものがある。クラシックでありながら、ちっとも古ぼけてはいない洗練された芸術。それが、オルティの愛する世界観なのだろう。
ガラス戸を(くぐ)ると、顔馴染みらしい老いた店主が、オルティに微笑みかけた。

「今日は、彼のを作ってもらいたくて」

オルティはエヴァグリーンを指す。

「……俺の?」
「ちょっと要り用なんだ。」

エヴァグリーンは不審そうに眉を吊り上げた。オルティはそれにウインクで応える。老職人は頷くと、ふたりを奥のプライベートなショールームへと案内する。

「長いことこの仕事をしていますが……竜種のお客様は初めてですな。まるで(ヒョウ)だ、良く締まった美しい筋肉をしておられる」

老職人は、手際良くエヴァグリーンの採寸を進めていく。オルティは革張りのソファに深くかけたまま、優雅にそれを眺めていた。エヴァグリーンは落ち着かない様子で、きょろきょろと部屋中を見渡す。ウールやレザーの生地見本(バンチブック)が、壁の棚に所狭しと並んでいる。それをじっと眺めていると、老人に頭の位置を戻されるのだ。

「なるべく動きやすく、軽く丈夫にしてやってほしい」
「それでしたら、こちらの生地で……」
「なるほど、色は……」

布の生地と色でオルティはかなり長いこと悩んでいたが、最後には店主の後押しもあり、ネイビーに決めた。
エヴァグリーンは正直、あの時も今も。何でも変わらない、布は布だと思っている。けれど、オルティがそれを自分のために選んでくれるのは、気分がいい。

「貴方は、少し痩せられましたな。新しくお仕立てしましょうか」

老職人の申し出に、オルティは首を横に振る。これが気に入ってる、というのは嘘だ。オルティにはもう、その仕上がりを待つ時間も、肌に馴染ませる時間もなかった。
老職人は目を細める。本来なら少なくとも六週間かけて作り上げる、最高級のスリーピースだ。オルティはそれをこの四週間に満たない、聖誕祭までの時間で仕上げてほしいと言う。そして、自身の服の仕立ては不要だと。常ならぬ物を感じ取ったのだろう。深々と頷いた。

「かしこまりました。必要になる前に、少しお時間を取って、おいで下さい。少し生地をつまむ程度なら、すぐにお直しできますから。」

テーラーを出たころには、辺りは薄暗くなりかけていた。気の早いイルミネーションが点灯しはじめ、どこからともなくクリスマス・ソングが流れている。ホリデーシーズンは始まったばかりで、まだ人々が浮かれだすには尚早だ。けれど街ゆく人々は嬉しそうに、楽しそうに。イルミネーションを見上げて笑っている。

「少しだけ……歩かないか。」

オルティがぽつりと言う。
エヴァグリーンは、彼の後に続いて歩き出した。
あちこちで、巨大なモミの木が飾られている。(こずえ)にさまざまな形のオーナメントをぶら下げて、それがイルミネーションを反射してきらきらと光っている。まるで雪の結晶を纏ったように。

「……聖誕祭の日に、ぜんぶ、決着をつけよう。それまでは俺も、何がなんでも生きる。」

それまで、なんて、言ってほしくなかった。
エヴァグリーンは、たとえこの契約が終わったとしても。もう、オルティを手に掛ける気なんか無くなっている。代わりにどんな言葉をかければいいのか、エヴァグリーンには少しもぴんとこなかった。
それが顔に出ていたのか。振り返ったオルティは、エヴァグリーンの顔を見て笑った。

「なんだよ、難しそうな顔して……」

その顔が、途端に険しくなる。エヴァグリーンは咄嗟(とっさ)に脚を振り上げた。鈍い感触がして、それから金属音。ナイフがアスファルトを滑る音だ。

「なんだ、てめえ」

エヴァグリーンは蹴り飛ばした男を睨みつける。しかし、周囲で悲鳴のひとつも上がらない。こいつら、全員敵だ。エヴァグリーンはそう判断した。
——二度も三度も同じ手を食うか。即座にオルティに飛びつく。銃弾が背を掠めていく。そのままオルティを抱き抱え、エヴァグリーンは地面を蹴る。……腕の中のオルティは、重いのに、軽かった。

次々と飛びかかってくる暴漢たちを、脚だけでいなしながら。エヴァグリーンは駐車場へ飛び込んだ。運転席にオルティを放り込み、なお追い縋る相手を蹴り飛ばす。
さすがにそこまで来れば一般人(カタギ)の目にも触れて、悲鳴のひとつやふたつも上がった。しかし相手の諦めは悪く、銃弾がフロントガラスに突き刺さる。

「防弾ガラスにしといてもらって良かったなぁ!!」

エヴァグリーンは牙を剥き出して笑った。オルティはきっと、また愛車に傷が入ったことを気にしているだろう。続けて、エヴァグリーンも車に飛び込んだ。オルティは既にエンジンをかけていた。案の定苛ついた様子で、勢い、アクセルを底まで踏む。バックミラー越しに料金所へとコインを投げ込んで、トリノ・バードは全速力で、車止めのバーを突き破る。

「ライドウの所の連中には見えなかった。」

エヴァグリーンはそう言いながら、額を拭った。弾が掠めて、血が滲んでいた。
それにはオルティも同意見だった。オルティの狙撃に発端したこととはいえ、彼らの家族である狙撃手を捕らえて拷問にかけた。最終的には命を取らずに返したものの、二度と銃を握れない体にした。それは事実である。ライドウ一門は単なるイーデンの使い走りであったが、だからといって彼らとの軋轢だらけの関係が終了したわけではないのだ。それはきっと、これからもずっと続いていく。
しかし、ライドウのチンピラたちが報復に来たというならば。彼らは名乗りのひとつも上げるだろう。それに、オルティたちを仕留めるためだけに、街を貸切りにするような資金力も彼らにはない。
目出し帽で顔を隠した連中が、バイクでぞろぞろと追ってくる。市街地だというのに、それを気にするそぶりもなくマシンガンを撃ち放しながら。エヴァグリーンはリアウインド越しにそれを眺めていた。なぜだかワクワクした。
車は狭い路地を抜けようとしていた。片腕だというのに、オルティのハンドル捌きは大したものだった。建物の壁スレスレに何度も急ハンドルを切る。曲がりきれなかったバイクが何台もクラッシュした。

広い通りへと出たところで、売り物のモミの木を文字通り木っ端微塵に蹴散らしながら、そいつはやってきた。
軍警察の装甲車だ。戦車かと思う見た目のくせにすばしこい。小回りのきく全輪駆動で、エンジンを二基積んでいるのだ。それがけたたましいクラクションを鳴らしながら、四輪を軋ませ、猛った暴れ牛のように追ってくる。エヴァグリーンは口笛を鳴らした。オルティは苦笑いをして吐き捨てる。

「いよいよなりふり構わなくなってきたな……!」

白い弾丸と化した車は、法定速度を無視して突っ走っている。オルティの手は忙しなくシフトレバーとハンドルを行き来していた。このトリノ・バードがクラシックなのは、その見た目だけだ。V8エンジンは激しく燃え、レーシングカー並みに太いハイグリップタイヤをぶん回していた。ハンドルも指先ひとつで回せるほど軽やかなのに、オルティのステアリングの繊細な機微を、ひとつ漏らさずタイヤへ伝えている。

「ふん、こっちだってアクティブ・サスに替えてんだよ! こいつにいくら掛けてると思ってやがる!!」
「はは、めちゃくちゃ追いかけられてるぞ」

エヴァグリーンは爽快に笑う。いざとなったら車から飛び出して、自分が装甲車に突っ込む気でいた。どんな頑丈な車だか知らないが、どうせ運転手は人間だ。殺せば止まる。
オルティはスタンドに刺さった携帯端末を操作しようとしていた。自由にならない左腕でハンドルを押さえて。形の良い唇から、微かに苦痛の息が漏れた。エヴァグリーンは、オルティの手から携帯を奪い取る。オルティは一瞬、呆気に取られた顔をしたが、エヴァグリーンの意図を察して微笑んだ。

「かけてくれ」
「ロータスか?」
「いや。ダレンって奴だ」
「誰だそれ」
「いいから。ハンズフリーにしてくれよ」

数回のコールの後、電話は誰かに繋がった。繋がるなり、電話口の相手は大声で叫ぶ。

『これは緊急回線だって言っただろ!!』
「緊急だからかけてんだよ! ダレン、今日7区に装甲車、出してるか!?」
『7区? 出してない。オルティ……君いったい、何してるんだ?』

それを聞くと、オルティはにんまりと笑った。

「上等だ。後始末は頼む」
『おい! まさか、よせ、オルトヴィン——』

通話終了。エヴァグリーンは指示された通りにそうした。まさかとは思うが、今こいつ、軍警察の緊急回線にかけなかったか?

「ちょっとしたツテでな。旧い友達だ」

そしてオルティは、グローブボックスを開けた。そこには短銃が突っ込まれている。あの化け物装甲車相手にそれは無茶だろ、と鼻で笑おうとしたエヴァグリーンは。グローブボックスから取り出された『それ』を見て、言葉を飲み込んだ。何てモノ積んで走ってんだ。
トリノ・バードはいつの間にか、湾岸道路を疾走していた。

「掴まってろよ!」

急なドリフトターンで、甲高いスキール音が上がる。タイヤは白煙の悲鳴を上げながら、なんとか主人の指示に従っていた。大きく尻を振り反転したトリノ・バードの運転席で、オルティは手投げ弾のピンを咥え抜く。

「マジかお前おい、」
「ハンドル!」

エヴァグリーンは言われるがままにハンドルを取った。
オルティは走行中のドアを開けて、すれ違った装甲車の股下にそれを投げ込む。それから、再びの急加速。

「ちょっと早いが、クリスマスプレゼントだ」

背後で響く爆発音と、上がる黒煙。大横転する装甲車。エヴァグリーンは恐る恐る振り返って、見なかったことにした。それから、ハンドルを取り戻したオルティを見た。
……か弱い振りして、おっかない男。

すっかり夜になっていた。
トリノ・バードのエンジンは疲労困憊だったが、あのドロドロと低いアイドリング音を、まるで猫が喉を鳴らすように響かせていた。あちこち弾丸に切り裂かれ、(すす)けていたが、どこか誇らしげに見える。
車を高台に停めて、オルティは一度、湾岸道路のほうを見下ろした。赤いパトランプが方々から、次々に集まっていく。冷たい風に身をすくめて、すぐに窓を閉める。

「あいつらに感謝しなくちゃな。愛車にこんな晴れ舞台を用意してもらえるとは」

痛烈な皮肉も、どこか嬉しそうに聞こえる。
エヴァグリーンはオルティの煙草を咥えて、火を入れてやった。紫煙が喉に辛い。そうしろと言ったくせに、オルティは差し出された煙草を見て、眉を顰める。

「煙草噛むなよ。(しつけ)の悪い。」
「文句あんならてめえでやれ」

渋々、オルティはそれを咥え直した。

「……お前。オルトヴィンって言うのか。」

エヴァグリーンは、窓の外を眺めながら尋ねた。オレンジ色の街灯がスモークごしに、ゆるやかに流れていく。ぱちぱちと、ガラムは火花の音を立てている。

「隠してるつもりはないんだがな。今でもそう呼ぶのは、旧い付き合いの奴だけだ。」
「旧い付き合い、ねえ。お前にガキの頃とかあんのかよ。」
「あるに決まってるだろ」

微睡(まどろ)むように目を閉じて、エヴァグリーンは少しだけ笑った。想像がつかない。赤子として泣いていた時期が、この男にあるだなんて。

「……話せよ。聞いといてやる」
「話してくださいお願いしますって言え。俺の可愛い坊や時代は安くねえんだよ」

悪態をつきながら、オルティは、ぽつぽつと昔語りをした。どれもこれも、くだらない話ばかりだった。カーステレオは、ありきたりなクリスマスソングを流していた。エヴァグリーンは始終、満足げにそれらを聴いていた。

(続き)

#11 ミストレス・オンザ・クリスマス・エッジ

聖誕祭の前日。
見事に仕立てられたネイビーのスリーピースが、商会に届けられた。時折テーラーに通っては、仮縫いの状態も確認していたものの、完成品は明らかに別物だった。艶やかな高級ウール地もさながら、隠しプリーツ、滑りの良い裏地など、身体の動きを制限しない工夫がこれでもかと盛り込まれている。どうりで顔を合わせる度に、老職人は目がギラギラしていたわけだ。よほど骨を折ってくれたに違いない。
エヴァグリーンはファッションショーを強要され、オルティはそれを眺めて満足そうに笑う。

「これで、準備は整ったな」
「準備?」
「……イーデンは明日の聖誕祭に、近くの港に寄港する。船上パーティが開かれる。金持ちを集めた、例の悪趣味なやつだ」

エヴァグリーンの瞳が、すっと鋭さを帯びた。

「ドレスコードがあるらしくてな。それで、仕立てを頼んだ。似合ってるじゃないか、なかなか」
「……おい待て、どうやって潜り込む気なんだ」

金持ちのパーティなんか、警備も厳重だろうに。(いぶか)しがるエヴァグリーンに、オルティは不敵な笑みを見せる。

「正面から、招待客として行くんだ。」

オルティはエヴァグリーンのネクタイを丁寧に締めて、そこに小さなネクタイピンをあしらった。イエローゴールドのクリップに一粒、無色透明の石があしらわれていた。

「スーツは必要経費みたいなものだからな。聖誕祭の贈り物はこっち。俺からのほんの気持ちだ。」

小さな石粒が、きらりと室内灯を反射する。その輝きが目に眩しい。オルティらしい洒落た小物のチョイスだが、自分ばかり贈り物を貰うのが、エヴァグリーンは少しだけ不満だった。

「明日……どうせあいつらには内緒なんだろ」

あいつら、とエヴァグリーンが言うのは。商会の面々だ。今は応接室の向こうで、オルティからの聖誕祭のプレゼントに沸いている。エヴァグリーンは声を(ひそ)めた。

「……何でそこまで、お前はひとりで全部やろうとするんだ」
「プライベートだからさ。イーデンは、商会とは関係ない。あくまで俺とお前の個人的な契約だ。だから、あいつらには頼れないだろ。」

エヴァグリーンは眉根を寄せた。
彼らはそんな風に思っていない。オルティのことを、仕事だけの相手だとは思っていない。それがもう分かっているからだ。きっと、助けてくれと一言、声をかけるだけで。彼らはオルティのために命を張ると知っている。
だから、話せない。頼れない。彼らの事を想うからこそ。彼らの自由を願うからこそ、オルティは。

「本当に、大事なんだな。あいつらのこと」
「ああ。俺の宝物だ。……お前もそのひとつなんだよ。」

そう言って照れ臭そうに、オルティは煙草を咥えた。

聖誕祭、当日の夕暮れ時。早い日の入りである。
オルティはいつものスリーピースに、ほんの少しだけめかし込んだ、カフスや小物をあしらっている。アイボリーのナポレオンコートに、同じアイボリーのフェドラ。それにいつものサングラスの出立ちで、港へ降り立つ。
エヴァグリーンは仕立てられたばかりのネイビーのスーツでいた。イエローゴールドのネクタイピンが、その胸元で輝いていた。

そして。

「さあ、行こうか仔猫ちゃん!」

——エルドラド・ドゥ・ナスタヤーシャ・ヴィア・アマデウス3世は、ド派手な金色のジャケット姿でそこに立つ。

「まさか仔猫ちゃんからお誘いがあるとは思わなくてさあ、奮発しちゃったよ。なんなら仔猫ちゃんの分の服も仕立ててあげたのに。でもその服もシンプルで似合うね♡」
「ありがとうございます、3世」
「今日ぐらいエルディって呼んでよ、もう」

エヴァグリーンは、よくオルティが引き()りもせずに笑えている物だと感心していた。(たお)やかな笑みを崩さずにいる。
エルドラドも遠慮なくオルティの腰を抱こうとする。オルティはその都度うまく躱していた。並んでいると確かに、彼らは系統の違う美男子同士で、似合いに見えなくもないのだが。

滞りなく受付を済ませて、3人は呆気なく船に乗り込んだ。船上には既に、眩しいほどに着飾った金持ちが並んでいる。それぞれに酒を酌み交わして、談笑に高じていた。上品なアレンジを加えられたクリスマスソングは、バンドの生演奏だ。

「それにしてもさあ、そんな趣味だっけ、仔猫ちゃんて。けっこうグロい出品とかあるよ? 例えばほら、和彫っていうの? 東の方の国の彫物。あれが全身入ってる人皮とか。」

エルドラドは事もなげに、大声でそんな話をする。けれど、その場に集った誰も気に留めない。そういう趣味の集まりだからだ。むしろ、彼らはエルディを見るとにこやかに微笑んでいる。顔が利く業界人への態度だ。エヴァグリーンは彼らを、腹の中でエルドラドと同じカテゴリに入れた。つまり、嫌な奴カテゴリだ。
オルティは笑みを崩さず、あくまで客と商人としてエルドラドに接する。

「オークションについては、別のクライアントから頼まれたんですよ。それで、あなたなら顔が利くかと……ご不満ですか?」
「まあね! 利用されてるだけってのは、俄然(がぜん)燃えるよ。」

……オルティは、この男のことを嫌っている。だからこそ、この男の扱いはよく分かっている。(なび)いてはいけない。(おもね)るのもいけない。
3世は、自分に冷たい相手が好きなのだ。
カネを積めば誰でも振り向かせられるエルドラドにとっては、自分に目が(くら)む人間よりも、軽くあしらう相手の方がたまらない。オルティには理解できないことだが。オルティがエルドラドを嫌えば嫌うほど、エルドラドがオルティを欲しがるのは、そういうわけでもあるのだ。

「オークションは港を出て20時ごろだそうだよ。どう? それまでふたりで熱い夜を過ごすっていうのは……」
「はは、ご冗談を。オークションまでに全部済ませられるわけないでしょう、そんなの」
「あちゃー、それもそうか!」

エルドラドにとっては、極上の餌。オルティは自分を釣り餌に、恐ろしい(サメ)を釣り上げようとしている。ちらと目が合った時に、オルティはエヴァグリーンに目配せをした。早く行け、と目で訴える。

船に乗り込む前に、ふたりは作戦を決めていた。
エルドラドは非常に傍若無人な金持ちである。大抵の相手は金で黙らせることができるエルドラドに、そうそう喧嘩を売る者はない。彼の「所有物」に手を出そう、などというのは()れ者だ。護衛がいようがいまいが、オルティがエルドラドの同伴者として振る舞っていれば。まず近づく者はない。

「それでも襲われたら、どうするんだ」
「その時は、3世を盾にする。」

珍しく心配するエヴァグリーンに、オルティは笑って、物騒な答えを口にした。

イーデンは大戦期に徴用された、豪華客船の成れの果てだ。そこまでは、オルティが調べをつけていた。かつての船の設計図が手に入ったのだ。おそらく船は艤装(ぎそう)を繰り返し、複雑に層が折り重なっているだろう。最も上の層は、オークションなどのパーティが行われる階層。そして、中間層にはおそらく、客たちに提供する品物を溜め込んでいるはずだ。さらに下にはコントロール層があり、そのもっと下が機構の層である。

設計図を広げながら、オルティは色々と説明したが、エヴァグリーンの結論は簡単だった。

「なんだ、じゃあ、とりあえず下に降りてきゃいいんじゃねーの?」
「それはそうなんだが……少し探して欲しいものがある。例のIDカード、覚えてるだろ。」

オルティの妹が、彼女を傷つけた者から奪い取ったIDカード。そこにはひとりの男の写真と、識別を示す簡単なプロフィールが載っている。
その男の名は、ラドンと言った。不気味に薄ら笑む顔写真は掠れてしまっていた。しかし、エヴァグリーンは確かにその男を知っている。彼をこの船から海へと放り出したのは、その男に相違なかったのだ。

「こいつが今も船に乗ってるとは限らない。IDを失くすような奴だ、更迭(こうてつ)や処分を食らってないとも限らん。だから、確証を得たい。乗船者名簿でもなんでも良い。」

エヴァグリーンは、強く頷いた。

艦内の構造は、ほとんどオルティの予想した通りだった。オークション会場となる華やかなエリアを一歩飛び出せば、鉄板が剥き出しの内部だ。それは無骨な冷たさで侵入者を拒もうとしていた。
エヴァグリーンは、まずとにかく下を目指した。乗船者名簿に限らず、乗組員についての何らかの情報が得られるとすれば、それはコントロール層だ。要所要所は見張りが立ち塞いでいたが、エヴァグリーンは声ひとつ上げさせずに、彼らを昏倒させた。武装しているが、動きは素人だ。銃口を向けてはくるが、相手は撃つのを一瞬躊躇(ためら)う。当然だろう。狭い船内でむやみに撃てば、どこに当たるか分かったものではない。その一瞬があればエヴァグリーンには十分だ。
武装の質に比べ、この手応えの無さ。街中で襲ってきた連中によく似ている。はっきり言って相手にならない。ただ手際よく相手を伸しては、銃口をぐんにゃり曲げておく。使い物にならなくしておけば、後で拾われて使われることもないだろう。そういう映画を見た。刑事が拾った武器でどんどん強くなっていくのだ。あれも聖誕祭の日の話だったな、なんて思いながら。

迷路のような船内を軽やかに駆ける、エヴァグリーンの足がふと止まった。相も変わらず無骨で飾り気のない、ハッチのような扉。そこに、『保管庫』と記されている。そっと扉を押し開けようとすれば、がちりと鍵の鳴る音がした。扉の脇に古めかしい、磁気テープ式のカードリーダーが取り付けられている。エヴァグリーンは信じられないという顔でそれを見る。
船に乗り込む少し前。オルティは真っ白な、何も刻印されていない磁気カードを取り出すと、エヴァグリーンに手渡した。

「なんだ、これ?」
「ラドンのIDから吸い出した磁気情報を、そのカードに入れてある。もし、磁気カードのリーダーがあったら試してみてくれ」

エヴァグリーンは難しい顔をした。磁気カードのリーダー、というものを見たことがなかったのである。正直にそう言うと、オルティはぺちんと額を叩いた。ジェネレーションギャップ。
とにかく目の前の小さな箱は、オルティが説明した通りの骨董的な代物だ。本当に20年、稼働し続けていたのだ。
オルティ曰く。イーデンはその身を隠すために、必要がないときには洋上で佇み、寄港の頻度を減らしている。大掛かりな改修工事や艤装は時間がかかる。下手をすれば、外装は金持ち向けに飾り立てていても、内側は骨董品のようなシステムを使い回しているかもしれない。

「中身は20年前に吸い出した、本物の鍵だ。オープン・セサミになれば良いが、まあ、期待はするな。」

そっと白いカードを、リーダーに通す。

——ピッ

小さな電子音が鳴る。一拍置いて、ガチャリと錠が回る。それはオルティの執念が、本物の魔法になった瞬間だった。

そうしてエヴァグリーンは、見覚えのある空間に辿り着いた。アーティファクトの保管庫。かつての故郷である。まるで変わっていないと感じるのは錯覚ではなく、本当にシステムや管理体制が20年間もの間、一切更新されていないのだろう。
荷が、所狭しと棚に並んでいた。積荷としての番号をつけられ、これから値をつけられるもの。その奥で動き回る白衣の人間。積荷の検品や手入れをしている者だろう。つまりは雇われではなく、船側の人間だ。エヴァグリーンはそれを羽交締めにして、蟀谷(こめかみ)に指を突きつける。

「おい、脳味噌ぶち撒けたくなきゃ言うこと聞け。——この船の乗員名簿を寄越せ。」

哀れな研究員は命乞いをしながら、手近なコンピュータを示した。お前がやるんだよ、と続けて脅し、ファイルを探させる。オルティからは20年分もあれば良い、と言われたが、そんな古いものはないと彼は泣きそうな声を出した。

「んなの見つかる範囲でいいっての! ぐちゃぐちゃ言ってねえで、さっさと……」

そう叫んだ刹那、竜の耳はかちりと小さな、しかし聞き慣れた引き金を引く音を聞いた。咄嗟(とっさ)に掴んでいた研究員をその方向へ向ける。散弾がはじける。白衣は一瞬で赤黒く削り取られ、無惨に崩れ落ちた。飛び散った鉛のかけらは、エヴァグリーンの腕にも食い込んだ。痛みはあるが、この程度大した事はない。即座に再生可能だ、と唇を噛んだエヴァグリーンは、しかしその場から動けなかった。
負傷した右腕が異常に重い。まるで鉄の塊でも(まと)い付いているかのように。

「ッ、なっ————!?」

それを知覚したのと同時に、引き絞られるような心核(しんかく)の痛みが襲う。再生できていない。血が流れない。それで理解した。これは、金属ほども重く凝縮している竜種の血を『固める』ものだ!
心核は激しく打った。負傷した部分に血を届けようと躍起(やっき)になる。それなのに、血が巡らない。結果、心核に重い負担がかかり、この痛みを与えているのだった。
心核が押し潰される苦痛に、声もなく(うずくま)ったエヴァグリーンを、その男は無機質な目で見下ろした。いまさら竜種のひとりふたり、殺したところで何とも思わないという視線。
……その目に覚えがあった。波間に攫われる前の、幼いエヴァグリーンは。その男を確かに見たのだ。

「まさか、生きているとは。そのうえ、戻ってくるとは。」

ラドンは多少、驚嘆したようにそう口にした。

「お前たちが我々を探っているのは分かっていた。乗り込んでくるというなら、好都合だと思っていたが。それが20年も前に廃棄したゴミとはな。」

記憶の中よりもいくらか歳を重ねた顔で、ラドンは邪魔くさそうに、研究員だったものを蹴り飛ばす。そして爪先で、エヴァグリーンを仰向けに転がした。
睨み付けるエヴァグリーンを淡々と見下ろして、ラドンはショットガンを突きつける。それは明確に、エヴァグリーンの心核に向けられていた。

「……俺もお前が、ッ……20年もこんなボロ船にしがみついてるとは、思わなかったぜ……!!」

やっと。
やっと手が届きそうだったのに。
エヴァグリーンは激しい苦痛の中で喘ぎ、息を詰まらせ、(もが)くこともできずにいる。それでも絞り出すように喉を動かし、ラドンを睨む。まだ足掻こうとする爪が鉄の床を叩く。火花が散る。薄紙のように鉄板を裂く。
このまま終わりたくない。終われない。必死に頭を巡らせる。何か。なにか。まだ、何かきっと。何も。畜生。畜生!
——俺が諦めたら、オルティはどうなるんだ。

「……っさ、最後だ、ひとつ……聞かせろッ……」

いよいよ、痛みの感覚すら薄れ始める。エヴァグリーンは、ラドンを見上げた。

「どうして俺を…ッ……捨てたんだ……!!」

ラドンは溜息を吐いた。くだらない、ひどくつまらない質問だと感じたからだ。ラドンはショットガンの先端を、エヴァグリーンの胸へぐっと押し当てた。オルティが贈ったネクタイピンが、銃の先端に押される。それはまだ、光を失っていない。だというのにこの会話は、せめてもの時間稼ぎにもなりやしない。
ラドンはエヴァグリーンを見下したまま、吐き捨てるように答えた。

「……ここは俺だけの楽園(イーデン)だからだ。」

指が、ゆっくりとトリガーへ向けられていく。
時間が過ぎるのをひどく遅く感じた。ぎゅっと目を(つむ)って、その時を待つ最中(さなか)——

「エヴァグリーン!!」

凛とした、呼び声が聞こえた。

きっとお前は知らないだろう。
俺をそう呼んだのは、お前が初めてだった。

初めてだったんだ。

(続く)

#12 ファイト・ファイア・ウィズ・ポラリス

立て続けに銃声が響く。その度にラドンはぐにゃりと形を変えて、肉片と鮮血を飛び散らせた。磁気ロックの扉の向こう。息を荒げたオルティが、片腕で短銃を構えたまま飛び込んでくる。

「てめッ……さては、盗聴してたな……。」
「当たり前だ、バカ!」

そしてオルティは、倒れたラドンを睨みつける。ラドンはあちこちに穴を開けたまま、暴れることもなく、虚な目でオルティを見上げていた。

「……憶えちゃいないだろうな、20年も昔に暴行した女の子のことなんか。これはあの子の意志だ!! お前が踏み(にじ)ったものの報いだ!!」

叩きつけるように、擦り切れた IDカードをラドンに投げつけ。オルティは再び彼に銃口を向けた。(はげ)しい憎悪と嫌悪、怒りを込めて引鉄(トリガー)を引く。

「……精々、地獄でその裁きを受けろ……!」

ラドンの脳天を弾丸で貫き、オルティは即座にエヴァグリーンの状況を探った。血が巡らずに詰まっているとわかるや否や、ジャケットを脱がせる。そして、その固まった右腕をぐっと押さえつけ、二の腕に銃口を押し当てる。

「悪い。……これしか思いつかない。」

エヴァグリーンは、黙って頷いた。
そして、銃声がもう一発響く。
腕が千切れ飛び、鮮血が吹き出す。それが、ふたりを濁々(だくだく)と濡らした。エヴァグリーンは急激に循環する血流に大きく息を吸った。オルティは安堵したように、あるいは体力の限界か、力が抜けたように座り込んだ。
——その背後で、脳天を撃たれたはずの男がゆらりと立ち上がっている。

ラドンがその鋭い爪を、オルティに向けて振るう瞬間。体の自由を取り戻したエヴァグリーンは、考える間もなく、ラドンに飛びかかっていた。
そして確信する。こいつは竜種だ。耳を短く切り、牙を削り、人に似せていたのだ。脳天を撃ち抜かれて死ぬはずがない。竜種だからだ。血の魔法がその生命を守っている。心核を貫くしかない。エヴァグリーンは弾け飛んだ右腕の代わりに、その牙を奮って男の喉笛に喰らい付いた。
いつか、首だけになってもお前を殺すと、オルティに告げたことがあった気がした。

「おまえが、おれに敵うと、本気で思っているのか!!」

ラドンは喉を裂かれ、ごぼごぼと血糊を吐きながら。曇った声で嘲笑した。事実、ラドンの身体は1ミリたりとも動いていない。エヴァグリーンでは体格が足りない。ましてや片腕を奪われ、力の源である血も、大量に失っている今。エヴァグリーンを闘わせているのは、ただその闘志だけだった。
単純な竜種同士の比べ合いならば。力が強い方が勝つのが道理だ。それでも両脚を精一杯踏み締め、懸命にラドンを食い止める。今のエヴァグリーンはひとりではない。オルティなら、必ずなんとかする。

——オルティの腕が、背後からエヴァグリーンを抱き留めた。ほとんど上がらない左腕で、柔らかく、力強く。あとひと押しを担うかのように。銃を握る左手・・に、エヴァグリーンは自身の左手を添えた。
そして、エヴァグリーンは全力を込めて、ラドンの喉を噛み砕く。銃が咆哮する。体に大穴を開けて、ラドンは蹌踉(よろ)めいた。
しかし、それは心核を外していた。
歪に曲がり、あり得ない方へ向いた頭で、ラドンはニタリと笑う。相手は片腕のない竜種と、死に体の人類種が一匹ずつ。これ以上何ができる。そう言わんばかりに、ゆらりと幽鬼の如く立つ。さぞ絶望しているであろう獲物の顔を一目見ようと、見開いた目に映ったのは。

勝利を確信し、中指を立てて笑む、エヴァグリーンの姿だった。

オルティの右手には、手投げ弾のピンだけが、ぬらりと血の色に光っている。ラドンが彼らと離れる直前、その黄金の果実は。銃弾が抉ったラドンの腹へと、置き去りにされたのだ。

手投げ弾の爆発から、オルティを庇う。当たり前のように、そうしていた。瓦礫と(ほこり)が降り注いだ。それらは、全てエヴァグリーンが受け止めた。鉄の床には大穴が空いた。
やっと、静かになった船内で。オルティは、ようやく人心地ついたように、呟く。

「……実感が、湧かない」
「俺もだ」
「……終わってくれると思ったんだ。20年……タリーの、妹の仇……でも、はは……何も変わりやしないじゃないか……!」

オルティは、泣き笑いの表情で、エヴァグリーンの腕の中にいた。
俺もだ、と繰り返す。何も終わらず、何も変わらなかった。ただ何の実感も、感慨もない。ただ竜種をひとり殺した。それだけで。
それでも、腕の中のオルティは、暖かく、生きていたから。エヴァグリーンは、深く息を吐いて。ジャケットを掴んで立ち上がる。それは散弾に裂かれ、血と埃で汚れてしまっていた。けれど、せっかくの贈り物を置いて行きたくなかった。
右腕はまだ再生が間に合っていない。片腕で、ふらついているオルティを支えて、ゆっくりと歩き出す。怪我した腕で銃を撃つなんて、無茶しやがって。けれど、その無茶のおかげで助かった。

……静かすぎる、と思った。
船内で爆発が起こったんだ。沈むほどの衝撃でなかったとはいえ、警報すら鳴らないうえに、誰も駆けつけてこない。
その答えは、デッキまで上がって明らかになった。

大扉を押し開けたところで、彼は待っていた。
エルドラド・ドゥ・ナスタヤーシャ・ヴィア・アマデウス3世。彼は優雅に微笑みながら、オルティを見つめた。

「ずいぶん長いお手洗いだったね、仔猫ちゃん?」

そして、パーティ客たちはいつの間にか銃器で武装して。エヴァグリーンとオルティに、その銃口を向けている。こいつら、全員グルだったのか。

「仔猫ちゃん、もうネズミちゃんとの追いかけっこは終わったかな。気が済んだ? 楽しかった? 俺が何も知らないって、本当にそう思ってた?」
「ッ、てめぇ…!」

食ってかかろうとするエヴァグリーンを、無数の銃口が制する。そして、誰よりもオルティ自身が。

「いい。エヴァグリーン。」

そして、エヴァグリーンの手を離れ。
オルティはふらふらと、エルドラドの方へと歩き出す。

「3世。……この艦の資金提供者は、貴方だった。そうですね」
「その通り。もうずいぶん長い間、懇意にしてる。その彼らが、竜種を連れた情報屋に探られてるって泣きついてきた。」

緊迫した空気の中、エルドラドはあくまで楽しげに語る。

「俺にとっては小遣い程度の投資だけど。玩具(オモチャ)箱を漁られるのは好きじゃない。それで詳しく調べさせた。ライドウって言うんだっけ? あのコたちもお金でよく動いてくれたよね。」

返り血と煤で汚れたオルティを、エルドラドはそっと抱き寄せる。その汚れも(いと)わずに。頬の泥を指で拭い、お気に入りの玩具を見つめるように、きらきらと愛おしげな目を向ける。

「どうして仔猫ちゃんがここまで頑張るのか、不思議だったんだよ。仇だったんだ。ありがちな、つまんない理由。でももう、全部終わったでしょ?」

すっと、エルドラドの青い目が冴える。形の良い唇が、弑逆(しいぎゃく)的な、嫌な笑みを作った。

「結局全部、俺の思い通りになった。……そっちのトカゲは死んでくれなかったけどさ……。もう、俺のモノになる時間だ。」

オルティは、答えない。バイカラーの瞳が、今にも泣き出しそうに揺れる。
有無を言わせない状況だった。オルティが何を答えようと、エルドラドはエヴァグリーンを殺すだろう。オルティにできる懇願はひとつだ。その手を取る代わりにどうか、エヴァグリーンを見逃してくれ、と。

けれど。
エヴァグリーンは察している。オルティが今、何を迫られ、何を答えようと——言わされようとしているのか。オルティが守ろうとした全てを、エルドラドは踏み(にじ)ろうとしていた。
それは、不快だと思った。嫌だと、思ってしまった。
オルティは望んでいるはずだ。どうか逃げて欲しいと。(はかり)にかけているはずだ。どうせ短い自分の命を。それが、エヴァグリーンには何よりも許せなかった。だって。

「オルティ!!」

エヴァグリーンは叫ぶ。全力でその名を呼ぶ。全員がそちらを向く。そして、空白ができる。

「——来い! 俺にはお前が必要だ!!」

その手を掴んで、駆け出す。もう、どこへ逃げれば良いかわからない。ただ、駆け出す。しっかりと、その腕の中にオルティを抱く。
オルティは少しだけ驚いた顔をして、バカ、と呟いた。

「エヴァグリーン……どうする気だ」

鉛の雨をかいくぐり、鉄の階段を駆け降りる。オルティに当たることを恐れたのか、撃方(うちかた)はエルドラドが途中で止めさせた。何十もの足音に追い立てられながら、エヴァグリーンは自分がかつて、この船を離れた時のことを思い出していた。

「俺が捨てられた時……船の下の方から、小さな穴みたいのに入れられたんだ。だから、どっかに出口があるはずだ」

オルティは少し考えて、はっとしたように顔を上げる。

「魚雷の発射口!」

そして、何本かの鉄の階段を駆け降りる最中、あれだ、とオルティが指し示したのは、薬莢に尾鰭がついたような姿の、馬鹿でかい弾丸だ。天井に開いた大穴のせいか、それは棚から外れて転がっていた。オルティはそれを見て息を飲んだ。

「旧式のインパクトタイプだ……誘爆してたら、危うくラドンと心中だったぞ……。」

そして、その瓦礫の奥のほうに、埋もれたハッチが見えた。このままでは使えそうもない。歯噛みするエヴァグリーンとオルティの頭上から、嫌味な声が降ってくる。

「仔猫ちゃん、どうして逃げるかなぁ?」

かつかつと、鉄の床に足音を響かせながら。冷たい銃口を幾重にも重ねて、エルドラドは高みから、ふたりを見下ろしていた。
オルティは心底からの軽蔑を、その男に向けた。それはエルドラドを喜ばせるだけだと知っていたが、言わずにはいられなかったのだ。

「……貴方が大嫌いだからです、3世」

エルドラドは目を細めて、オルティを見た。

「そう。でも、俺は愛してるよ。愛してる、初めて会った時からずっとだ。これからもずっとずっとずっと愛してあげるよ。愛してるよ、オルティ。本当に、心から!」

オルティは、笑っていた。何か、糸が切れたような笑いだった。けれど、その目はエルドラドの腕に抱かれていた時とは違う、ひとつも何も諦めていない目をしていた。

「エヴァグリーン、」

オルティの呼びかけに応じて、エヴァグリーンは右腕の鮮血を固める。
血でできた剛腕が、転がった魚雷の鯨のように太い胴をぐっと掴んだ。

「——やっちまえ!」

そして、全力で投擲する。それは唸りを上げ、船倉をかっ飛んだ。
厚い艦の壁を突き破り、魚雷は船外で爆音を(とどろ)かせた。艦は大きく(かし)ぎ、海水が勢いよく流れ込む。濁流が何もかもを押し流す。エルドラドの黄金色のジャケットが、流れの中に浮かんで消えた。

「ははッ! 見たかよ!! 最っっ高!!」

オルティは爽快な、はしゃぐような歓声をあげた。

(続く)