昼下がり。オルティ・クラヴィアドは、まだ暑い日差しを見上げた。
スリーピースの黒ずくめ、ハットも黒のフェドラ。おまけに黒のレザーの手袋。サングラスは淡いブラウンで、褐色の肌と白金色の髪によく馴染む。
汗ひとつかいていない。口元にわずかに笑みを浮かべたまま、彼はコンビニエンス・ストアの自動ドアを潜った。
気怠げに来客を眺める店員が、僅かに身を強張らせた。オルティはフェドラを少し押し上げて目配せし、ひらひらと手を振る。そのまま店奥のドアへ。関係者以外立ち入り禁止、と警戒色を塗られたそれを押し開ける。バックヤードのさらに奥。在庫に隠れるようにあるエレベーターのボタンを押せば、それはチン、と軽快な音を立てた。
短い廊下の先。小さくプレートの貼られた磨りガラスの扉。クローバー貿易商会は、雑居ビルの上階にある。
扉を開ける前に、ネクタイを締め直し、フェドラの位置を少し直す。ジャケットを脱ぎ腕で抱く。裏地のワインレッドが鮮やかに翻る。そして満を持してドアを開ければ、——受付嬢をしているリズは、怯えた目をしていた。
オルティと目が合うと、彼女は安堵したようにオルティの元へ駆け寄ってくる。彼女は聾唖である。焦りながらもよくわかる、丁寧な形の手話。それは、《竜》を形作った。奥扉からはメリーラムが困惑顔を覗かせている。彼女もまた、オルティを認めて落ち着いたようだった。
そして、エナメル質のレザーで覆われたメリーラムの指先が、つうと事務所の奥、応接室のほうを指した。
「オルティさぁん……どうしましょぉ、あれぇ……。」
何事にも動じないメリーラムが。巨漢の金玉でもよいしょの一言で潰すあのメリーラムが、である。こんなに困っているのを見るのは初めてだ。オルティは激しく嫌な予感がした。急ぎ応接室へ向かうと、ちょうど若手がドアの方へと放り投げられ飛んできた。蛙のように伸びている。
ざっと見渡しただけで、両手で足りない数の社員が呻き声を上げながら転がっているのが見えた。窓ガラスはひび割れ、テーブルはへし折れている。観葉植物は見る影もなく、棚は倒れ、飾り物は全てカーペットに散らばっていた。まるで台風が部屋の真ん中に突っ込んできたようだ。その台風は悪びれもせず、唖然としているオルティを見つけると、ゆるく眉を上げた。
「……何してるんだ、お前」
オルティはやっと、それだけを口にした。
「何って、お前が今日来いって言ったんじゃねーか」
「俺は午後3時、と言わなかったか?」
面倒そうに、エヴァグリーンはオルティを睨む。呼びつけておいてオルティが居なかったことにおかんむりらしい。……転がっている時計はまだ1時過ぎ。どうやら時計は持たない主義のようだ。オルティは彼を刺激しないように、努めて冷静な声を出した。昨夜は彼を、高層ビルのエレベーターでも支えられるワイヤーで拘束していたのだ。下手をすれば彼のブーツがカーペットを蹴るのを見るまでもなく、壁だか天井だかの染みになるに違いない。
「……何か粗相があったか? 若い連中は血の気が多いだろうし……」
そう言いながらよくよく見れば、倒れた面子にはそこそこ古参も混じっている。単なるケンカとも思えない。ロータスが外出の日で良かった。あやうく事務所ごとめちゃくちゃになるところだ。
「俺はアレ持ってきただけだ」
そう言って気怠げにエヴァグリーンが示したのは、ぼろぼろになったドラッグストアのビニール袋だ。裂け目から血が滴っていた。オルティは深々とため息をついた。……中身は見なくてもわかる。しかし、確かめないわけにもいかなかった。屈んで、指先でビニールの端をつまんでひっくり返す。案の定、ごろりと首が転がり出る。
「おい、誰だコイツ」
それは少なくとも、オルティには見覚えのある顔ではない。
「俺に依頼を寄越したヤツ。そいつも誰かから依頼されて、俺らに仕事回してるって言ってた」
下請けの下請け。
オルティは再び、大きくため息を吐いた。曲がりなりにもこの街で情報屋をやっているオルティに覚えがないということは、カタギに近い人間である可能性が高い。ましてや首だけになってしまえば、誰から仕事を受けていたのかさえわからない。
「余計なことしやがって……」
つい、オルティは唇からそう漏らしていた。
それを聞き咎め、エヴァグリーンはオルティを睨む。
「それだ。全員そう言ってた。お前に何も聞いてねえからって」
オルティはようやく合点がいった。だから、古参の連中も動いたのだ。彼らは若い連中より、よほど物事のスジやルールを重んじている。
腕を組んで立つ、エヴァグリーンの眼差しはしんと冷えている。オルティを認めていない。燐光を放つ竜種の瞳が、至極真っ当な目でオルティを”見下して”いる。
「何でお前の許可がいるんだ。お前は俺のボスでも何でもねえだろうが。」
一理ある。
あくまで『殺しを反故にするように』取引しただけだ。エヴァグリーンに、オルティに従う道理はない。その辺りを社員たちにはきちんと説明していなかった。それは確かにオルティの落ち度である。
……落ち度では、あるが。
これを人間の社会では、『舐められている』と言うのだ。
「……成程な。つまり、俺がお前を認めさせれば済む話だ。」
竜種の長耳がぴくりと動いた。
オルティは挑発を重ねる。
「俺が勝てば文句はない、そういうことだな?」
「お前が? 俺に勝つ?」
エヴァグリーンは鼻で笑った。
昨日の『手品』では、彼の理屈では負けたうちに入らないのだろう。確かにあれはズルだ。オルティではない偽物だった。まともにやれば、ただの人間に負けるはずはない。そう思っているのだろう。
「寝言は寝て言えよ、人類種」
嘲笑うエヴァグリーンの前で、オルティはゆるりと立ち上がる。フェドラとサングラスを、ドアの影で怯えているリズに手渡す。それからネクタイを緩め、シャツの首を寛げ、袖を捲った。
エヴァグリーンは余裕そうにそれを眺めていた。
——この期に及んでまだ、自分のフィールドで勝負ができると思っている。その素直さがオルティには眩しく、そして、まだ青い。
大きくジャケットを広げながら投げつける。単純な目眩しだ。が、予想外だったらしい。エヴァグリーンは一瞬怯んだ。それはオルティには予想通りだ。舐められたものだと怒りを露わに、彼が爪を振るうことさえ。
「——舐めるなよ、人間ッッ!」
エヴァグリーンは血を集め、指先を鋭く硬化させた。それは竜種の『血の魔法』と呼ばれる技だ。
緋色の爪がジャケットを裂く。千切れ飛ぶ布の向こうで、オルティは笑っていた。
真っ直ぐに銃を構えて。
「舐めてなんかないさ。」
クリアな銃声がひとつ響いた。
……大きく後退ったエヴァグリーンの額に。ちょんと乗っかっているのは、吸盤でくっつく玩具の弾だ。ご丁寧に小さな旗がついて、笑顔のマークが描かれている。
「……あ?」
竜種のそこに、脳はない。急所ではない。
それでも。意表を突かれ、屈辱を与えられた。その現実が貼り付いている。オルティは、エヴァグリーンの背後の壁に手を突いた。いつの間にか壁際まで追い詰められていたことにエヴァグリーンは驚き、言葉もなくオルティを見上げた。
「次は実弾でやるからな」
オルティは勝利の笑みを湛えていた。それは冗談めかした口調だが、無論、本気である。
◆
「……えー……事務所を壊したこと……勝手に手がかりを消したこと……あと会長への暴言と反抗? とか……そういうのをしました。謹んでオワビをもーしあげます」
赤くなりながら、もぐもぐと謝罪の言葉を唇で捏ねているエヴァグリーンを見て、オルティは和やかに笑う。
「うん。一旦許す」
「一旦……」
「当たり前だろ、こんなに無茶苦茶にしやがって。 金だってかかる。ウチは小さな零細ヤクザだぞ?」
怪我人が全員大したことなかったのは良かったが。もちろん、エヴァグリーンも誰かを殺すつもりはなかっただろう。それは承知している。殺意があったなら、誰ひとり生きてはいまい。エヴァグリーンはただ、彼らに喧嘩を売られたと思ったから買ったのだ。
オルティは応接室の比較的無事なソファに腰掛けて、もう何本目かになる煙草に火をつける。吸わずにいられない。ぱちぱちと火花の爆ぜる音。ガラムの煙が重く、甘ったるく香った。
ため息混じりに、髪をいじくりながら。オルティはエヴァグリーンを見上げた。
「人類種の事情なんか、お前には知ったことじゃないだろうが……。俺たちはみんなトヲラス人だ。この国じゃ肩身が狭い。」
エヴァグリーンは、応接室の外をちらと見た。
確かに、この事務所に集った人間は皆、一様に色の濃い肌と淡い髪色をしている。それは海を超え、遥か東方に住む人々の特徴であるという。
「この国とトヲラスは、戦争をしたからな。だから、ここでトヲラス人が生きていくには、ただ敬虔に暮らすだけでは足りなかったんだ。」
やむにやまれぬ事情で、この国で生きるトヲラス人たち。この『クローバー貿易商会』は、そのための寄り合いであり、最後の砦だ。オルティはその会長として——氏族の長として、この瀬に立ち続けているのだった。
……ふう、と。オルティが長く細く紫煙を吐き出す。ぱちぱちと爆ぜるガラム・スーリヤが、折れたテーブルに小さく火種を落とした。それは一瞬朱く光ったかと思うと、直ぐに黒く燃え尽きた。
オルティはじっと、目を細めてそれを眺めていたが、ややあって、唇を開く。
「なあ、エヴァグリーン。お前、うちで働かないか?」
「なんだ、急に」
エヴァグリーンは眉根を寄せる。何かの冗談だろうとでも言いたげな顔だ。
その顔を見て、オルティは笑った。
「お互いに悪い話じゃないと思うが。俺たちは表だって武装なんかできない。下手すりゃまた戦争になるからな。その点、竜種ってのは、最高の武器だ。」
オルティの瞳が悪戯っぽく輝く。
その瞳は、星を散らしたような美しい色合いをしている。それが熱っぽく、エヴァグリーンを見つめる。
そして、柔らかく唇を開いて。オルティは、その言葉を口にした。
「エヴァグリーン。俺にはお前が必要だ。」
静寂。
時が止まったかのような、長い沈黙を経て、エヴァグリーンはようやくその言葉を反芻する。まるで知らない言葉のように、鸚鵡返しに唇を動かす。
「俺が……ひつよう?」
——ごぼり。泡沫の溢れていく音が、どこかで響いた気がする。
エヴァグリーンはひどく困惑していた。泣き出しそうな、あるいは笑い出しそうなその表情は、紛れもなく訴えていた。
初めて、誰かに必要とされた、と。
そんな顔をしている。何も疑わない、ただ与えられた言葉を噛み締めて。
……なんと素直で、扱いやすいのだろうか。
オルティはうっすらと、微笑んだ。そんな顔をされては、詐欺にかけたようで悪い気がする。オルティは話題を変えるように、わざとらしく明るい声を出した。
「ああ、もちろん俺の命の取引とは別な? ひとつ言うこと聞いてやるってヤツ。それも決まってるなら今聞くが」
「んえ? あ、おう」
しかしエヴァグリーンは躊躇うように、視線を床へ落とし、落ち着きなく床目を見ている。オルティにそれを告げることを躊躇っているらしい。先ほどとは別の沈黙が、二人を包んでいる。
ようやく開かれた唇は、ひどくしおらしい言葉を発した。
「……笑わねーか?」
「笑わないさ」
間髪を入れず。
それでエヴァグリーンも、覚悟を決めたらしい。やや口籠もりながら、言葉を続ける。
「……探してる船がある。イーデンって船……。」
それはあまりに意外な言葉だった。
つい、オルティも返しに詰まる。
「ええと……都市伝説のか? 蒐集戦艦、だよな?」
「都市伝説じゃねえ!」
今度はエヴァグリーンが、食い気味に声を上げた。そして、苦々しげに唇を噛む。
「イーデンは本当にある!! でも、俺じゃ見つけられなかったんだよ……!」
オルティは考えるふりをした。
この商談は、うまくいきすぎている。それはエヴァグリーンが素直で、寂しがりな子供のようだから、というだけではない。これは危険な賭けになると、オルティはどこかで直感している。
……無意識に、頬の向かい傷を撫でていたことに気づく。ひと呼吸置いて、オルティはもう一度、エヴァグリーンに尋ねた。
「それを見つけて、どうする気なんだ」
「決まってるだろうが……!!」
エヴァグリーンは声を荒げる。
よほど気に触る思い出があるらしい。吐き捨てるように言う。ぎゅっと拳を握り込んで、その手は小さく震えていた。
「沈める!! 二度と浮かんでこねえように、木っ端微塵にして沈めてやる……!!」
オルティは、サングラスを手に取る。
それを鼻梁に乗せて、指で押し上げる。手で隠した口元は、歪んだ笑みを湛えていた。それから、オルティはトヲラス語で、一言だけ呟いた。
「……了解♡」
(続く)
