#3 キックスタート・ホーム・スイート・ホーム

じゃぶじゃぶと威勢のいい水音が響いている。
エヴァグリーンも始めはそれこそ、野良猫のように元気に抗議し抵抗していた。むりくりシャワー室に突っ込まれた辺りからは、諦めたように大人しくなった。
なぜマフィアの事務所に広々としたシャワー室があるのかは、知らないほうが幸せなのだろう。
オルティはそこでため息を連発しながら、がしがしとエヴァグリーンの頭を洗っている。しっかりしたラテックスの手袋越しに。これもまた、普段は何に使うのかを知るべきではない。

「こんな時に限って、なんだってロータスは外出なんだ……。」

オルティの愚痴も文句もため息も、ひとつも止まることはない。もはや聞き飽きたエヴァグリーンは低く唸る。

「やらなきゃいいだだけろうが……。」
「うるせえな。ウチの社員になるんなら俺の方針には従ってもらう」
「だからって何で……ッおい顔にかけんな!」

無視。ざばざばとエヴァグリーンを湯で流しながら、オルティはその竜種らしく、ぴんと尖った長耳をぎゅっと引っ張る。そして、事務所中に響くような声を張り上げる。

「お前が! ひとりでシャワーも! 浴びられん馬鹿だからだろうが!!」
「ちゃんと浴びただろ!!」
「あんなもん顔を洗ったうちにも入るか!! いいから黙ってろ!!」

泡だったタオルを肌表に擦り付けられ、エヴァグリーンはぎゅっと身を捩る。泡と水滴が容赦なく飛び、オルティはそれをべっとりと浴びた。シャツもスラックスももう水浸しだ。こうなればもう、ヤケだ。

「ッ変なとこ触んなって! 聞けよお前!!」
「俺だって触りたくて触ってねえんだよ!!」

エヴァグリーンが着ていた服は、肌着から靴まで全てひん剥かれて、すでにゴミ箱にダンクされている。
竜種は社会的に何の権利も持たない。衣食住は保証されていない。橋の下に住んでいるし、河水で全てを済ませているし、生ゴミを漁り食っている。
竜種は強靭だから、それでも死にはしないだろう。生きていけるのだろう。
だから何だ。
オルティ・クラヴィアドは、自他共に認める潔癖症なのである。

「……指、治ってるな。」

ふと、オルティはエヴァグリーンの手を取って、しげしげと眺めた。メリーラムが切り落としたはずの指が、きちんと揃っていた。竜種の再生能力については知識として知っていたが、目の当たりにするのは初めてだ。
竜種は『心核』という臓器を中心とする循環器動物である。つまりは全身が、ひとつの巨大な心臓のような生き物だ。その血液は、もはや金属と呼べるほどに重く濃い。それこそが彼らの『血の魔法』の源であり、再生力の源でもあった。
言うなれば竜種にとって身体とは、心核に纏いつく、血肉でできた粘土だ。少し捏ねれば形が変わる。人のような姿をしているのは擬態にすぎず、気に入った形、心の形とでも言うべきものだった。
だから、竜種は人間とは違う。橋の下だろうがどこだろうが生きていける。
——だから使い捨てられるのだ。この人でなしの獣たちは。
オルティは、暗い眼をしてそれを見る。
アルスとトヲラスの戦争が激化したのは、アルスが竜種を兵器として運用したためでもあった。
あまりに長い間オルティがじっと眺めているので、エヴァグリーンは怪訝な顔をした。

「……また切る気じゃねえだろうな。」
「お前がちゃんと風呂に入って清潔な服を着てくれれば、切りやしないさ。」

軽口とともに、オルティは泡を流した。

夕暮れの街は燦々と赤い。
西日に目を細めながら、エヴァグリーンはオルティの後ろを歩く。袖の余るツナギを着せられて。それは倉庫に突っ込まれていた余り物の、コンビニの制服だった。そして下着とサンダルはコンビニの売り物だ。
オルティはといえば、事務所にいくつか着替えを置いている。まるで変わり映えのないスーツ姿だが、ジャケットだけは替えがなかったらしい。シャツにネクタイとスラックスだけの簡単な出立ちだった。

エヴァグリーンは、よほど逃げ出そうかと思った。陽の明るい時間帯に、フードも被らずに出歩くのはほとんどない事だ。長耳はすぐに竜種だと気付かれるからだ。まだ少し芯の濡れた髪が風に触れている。それがなんだか、居心地が悪い。
逃げ出さなかった理由は、ただ、単純な話で。
だって、逃げて何になる?
どうせ、何処へも行けはしないのに。

オルティは次から次へと、エヴァグリーンを服屋に連れ込んだ。店員がトヲラス人と竜種のふたりを見て、嫌な顔をするのにも構わない。フィッティングを繰り返し、しかしエヴァグリーンの意見はほとんど聞かない。
というのは、布なら良しのエヴァグリーンのセンスがあまりにも壊滅していたせいだ。季節感も色合いもあったものではない。オルティは散々呆れ、苦言を呈し、頭を抱え、最後には目が据わっていた。

「分かんねえんならマネキンのやつ、上から下まで買っときゃいいんだ。」

遠い目をしたオルティが言う。買ったばかりのマウンテンパーカーをエヴァグリーンに被せて、その目はようやく、少しだけ和らいだ。

「ほら。似合うじゃないか」

エヴァグリーンは、フードを深く被る。軽やかだった。なんとなく、肌に合っていると感じた。
ただ正直、意味がわからなかった。
仕事をさせたいから、雇うって言ったんじゃないのか。だというのに、体を洗って、服をよこして。
なぜ、この男はこんなことをしているのか。それがわからない。
それが、パーカーの軽さとは裏腹に、何かひどく重いもののように感じた。

「今日は事務所に泊めてやる。明日には部屋を用意させよう。ああ、連絡手段も必要だな、身分証は……どうしたものかな。」

オルティは指折り数えながら、エヴァグリーンに必要なものを確認する。随分慣れた仕事のようだ。
東国料理の屋台は、金さえ払えば畜生でも客だと言わんばかりだ。初めは胡散臭そうな顔をしていた店主も、オルティが少し多い金を机に乗せた時から、何も言わなくなった。エヴァグリーンのむちゃくちゃなカトラリーの使い方には、さすがに目を剥いていたが。
赤い色をした麺は、食べたことのない味がした。喉が焼けそうに辛いのに、次のひと口に手が伸びる。エヴァグリーンはそれを気に入った。オルティはその食べっぷりを眺めてばかりで、しまいには自分の分までエヴァグリーンの器に乗せた。

「お前、こんなことばっかりしてるのか」
「ウチの社員のそういう面倒は、だいたい俺が手配したな。」
「……そうじゃねえ。麺。」

オルティは肩をすくめる。
麺だけではない。風呂も。服も。部屋だって。
これまでエヴァグリーンの生活には、『与えられる』ということがなかった。それを立て続けに何度も浴びせられ、エヴァグリーンは喜ぶより先に困惑していた。

「要らなかったか?」
「だから、……もういい。ワケがわからん。」

諦めて麺を啜りはじめたエヴァグリーンに、オルティは慈しむような目を向けた。

「俺はただ、人間ならそれを全部、当たり前に持っているべきだと思ってるだけさ。」
「……んだそりゃ。頭おかしいぞ、お前」
「そうかもな? どうだ、頭のおかしい男に拾われた身としては?」
「さあな。お前みたいな人間ほかに知らねえし」

真面目な返事に、オルティは愉快そうに笑った。器に残った緑の葉を口に運び、それだけで満足そうにして煙草を吸い始める。

「投資だよ、投資。お前も早く立派になって、今日の何倍も稼いでくれよな。」

本当に変な奴だ。
ヤクザが律儀に携帯灰皿なんぞ持ち歩くなよ、とは、エヴァグリーンは言わずにおいた。

それからしばらく。エヴァグリーンは用意された部屋から、ただ事務所に通い詰めるだけの暮らしをしていた。
殺しの仕事なんか、そうそう頻繁にあるものではない。オルティや社員たちの護衛をする。つまりは『そこに居る』のが主な仕事だった。

ぼんやりと、事務所の一角からそれぞれの仕事を眺める。事務所の中はのんびりとしたものだった。どういう類の仕事なのか、エヴァグリーンにはいまひとつ理解できない。帳簿というものを作ったりしているらしい。
外商や、執行、と呼ばれる社員たちが忙しなく出入りしていた。特に執行の社員は荒っぽく、見た目にも妙な迫力がある。彼らはある種の暴力に長けているのだろう、とエヴァグリーンは考えている。そして、それをまとめているのがロータスだった。

ロータスはいつも底抜けに明るい。事務所に入ってくれば大きな声で挨拶をする。エヴァグリーンの顔を見れば、いつも感心したように「御苦労さん!」と言う。……何も苦労した覚えはない。
メリーラム、あの日エヴァグリーンの全身を膾切りにするところだった彼女はといえば、普段はまるきり暇そうにしていた。たまに事務所の掃除をして、エヴァグリーンが座り込んでいると邪魔くさそうにする。その他の時間は雑誌を眺めているか、受付嬢のリズと無言の談笑をしている。
そのリズには、ずっと怯えられていた。エヴァグリーンもエヴァグリーンで、聾唖の彼女にどう接していいかわからなかった。なんとなく手を振ってみたりした。親しくなりたいわけではないが、別に敵意もなかったからだ。その甲斐あってか、近頃はエヴァグリーンが事務所に入る時、笑顔で迎えてくれるようになった。

オルティは大抵、席に着いて何か難しい顔をしているか、どこかへ出掛けていた。他の社員を伴っていることもあった。事務所へ戻ればあちこちで社員に話しかけて、あるいは話しかけられていた。エヴァグリーンが何か賑やかだなと思う時はおおむね、オルティが社員たちと話をしている時だった。

「エヴァグリーン」

社員に囲まれたオルティが呼んでいる。
何かの箱を持っていた。甘い匂いがした。箱にはカラフルなドーナツが詰まっていて、ロータスはそれを見ては、嬉しそうな声にいくつも感嘆符をつけている。

「ひとつずつな?」

そう言われても、エヴァグリーンにはドーナツの良し悪しなど分からない。何だかカラフルなことはわかるが、それだけだ。困って顔を上げると、オルティは笑っていた。

「全部同じ味だ。色だけだよ。」

適当に選んだ甘ったるいドーナツを、もぐもぐと齧る。横にオルティがやってきて適当な椅子に腰掛ける。並んでドーナツを齧る。
事務所は甘い香りに包まれて、藹々としていた。

「お前らって仲良いよな」

ドーナツを腹に収めて、ふと、思ったことを口にした。オルティはちまちまとドーナツを齧りながら、エヴァグリーンに相槌を打つ。

「だな」
「仕事相手だろ。お前、雇い主だろ?」
「そうだ」
「金のやり取りだけで充分だろ。ドーナツなんか買ってきてどうすんだよ」
「コミュニケーション」
「なんだそれ」

オルティはやっとドーナツを食べ切ると、何故だか少しだけ、遠くを見るような顔をした。

「人と人が何かをしようと思っても、一足飛びに何でもできるわけじゃない。円滑にはすすまない。だから日頃からコミュニケーションを取るんだ。」
「それとドーナツと何の関係がある」
「それが分かるようになれば、お前も少しは人間らしくなったってことだろ」

何か馬鹿にされている気がする。抗議しようとオルティのほうを見る。その口元に笑みはない。楽しそうな声が聞こえるほうをじっと見て、ゆっくりと目を伏せた。

「……仲が良すぎるんだ。本当はお前の言う通り、仕事は仕事で割り切ってもらいたいんだが……。」

含みのある言葉だったが、エヴァグリーンは、それ以上聞かなかった。

あくる日、ロータスは、エヴァグリーンを市場へと連れていった。そこはトヲラス人のコミュニティのひとつで、クローバー貿易商会がケツを持っている。
つまり、エヴァグリーンの守備範囲でもあるというわけだ。
ロータスはどの店でも、気さくに人と関わっていた。市場のトヲラス人たちはエヴァグリーンを見ると、一瞬ぎょっとした顔をする。しかし、ロータスがひっきりなしにエヴァグリーンに話しかけて物を教えているのを見ると、警戒を解いたように表情を和らげる。
コミュニケーション。
そうオルティが言っていたのを、思い出す。

「……変な奴だよな、あいつ」

市場を歩きながら。エヴァグリーンは、ロータスにオルティのことをそう尋ねた。ロータスは豪快に笑う。

「オルティさんが拾ってきた奴って、大概そういう顔するんだよなあ!」

それが何だか、思う壺のようで腑に落ちない。
別にあいつの手の内に収まる気はない。単なる契約だ。船を見つけてもらった後、オルティを殺して逃げても構わないワケだ。
……その後どうするかは考えない。

「ま、安心したよ。とうとう竜種かよと思った割には、お前は馴染んでくれてるしな!」

ロータスはわしわしとエヴァグリーンの頭を撫でる。よせと言っているのに、ロータスは何度もエヴァグリーンにそうしたがった。しまいにはエヴァグリーンが折れて、されるがままになっている。

「思ったよりは、オルティさんの手を煩わせることも無さそうだ」

ロータスはオルティに並ぶほどの背丈だったが、体格はロータスのほうがよほどしっかりしていた。太い肩周りは隆々として逞しい。小柄なエヴァグリーンと並んでいると、まるでウルフドッグとポメラニアンが連れ立っているようだった。それで言うとオルティは毛足の長いハウンドで、メリーラムはふさふさとした中型のコリー。
ロータスのほうが群れのリーダーでも不思議ではない。大きくて、力があるのだから。

「何でお前、あいつの下に付いてんだ?」

エヴァグリーンがよほど不思議な顔をしていたのか。ロータスは大笑いした。

「お前だってオルティさんに負けたんだろ! 俺もだ!!」

ひとしきり笑って、ロータスはエヴァグリーンの背をぱんと叩く。痛い。

「殴り合いで負けた、とかそういうんじゃなくてさ。ああこの人には敵わないな、って思わされた。お前もそうじゃないのか?」
「……俺はそんな事思ってねえ。」
「はいはい、そういうことにしとく」

それ以上言い返さなかったのは、図星だったからだ。殺せるとは思う。だが、勝てるとは思えない。
ロータスはそれからも、オルティに対する尊敬の念を語り続けた。敬愛するボスがいかに凄いのか。その信念、偉業、素晴らしさ。それはまるで恋焦がれる乙女のように。

——仲が良すぎるんだ。
オルティのその言葉の意味が、少しだけ理解できた気がした。

(続く)

#2 ウェルカム・トゥ・コンクリート・ジャングル

昼下がり。オルティ・クラヴィアドは、まだ暑い日差しを見上げた。
スリーピースの黒ずくめ、ハットも黒のフェドラ。おまけに黒のレザーの手袋。サングラスは淡いブラウンで、褐色の肌と白金色の髪によく馴染む。
汗ひとつかいていない。口元にわずかに笑みを浮かべたまま、彼はコンビニエンス・ストアの自動ドアを潜った。

気怠げに来客を眺める店員が、僅かに身を強張らせた。オルティはフェドラを少し押し上げて目配せし、ひらひらと手を振る。そのまま店奥のドアへ。関係者以外立ち入り禁止、と警戒色を塗られたそれを押し開ける。バックヤードのさらに奥。在庫に隠れるようにあるエレベーターのボタンを押せば、それはチン、と軽快な音を立てた。

短い廊下の先。小さくプレートの貼られた磨りガラスの扉。クローバー貿易商会は、雑居ビルの上階にある。
扉を開ける前に、ネクタイを締め直し、フェドラの位置を少し直す。ジャケットを脱ぎ腕で抱く。裏地のワインレッドが鮮やかに翻る。そして満を持してドアを開ければ、——受付嬢をしているリズは、怯えた目をしていた。

オルティと目が合うと、彼女は安堵したようにオルティの元へ駆け寄ってくる。彼女は聾唖である。焦りながらもよくわかる、丁寧な形の手話。それは、《竜》を形作った。奥扉からはメリーラムが困惑顔を覗かせている。彼女もまた、オルティを認めて落ち着いたようだった。
そして、エナメル質のレザーで覆われたメリーラムの指先が、つうと事務所の奥、応接室のほうを指した。

「オルティさぁん……どうしましょぉ、あれぇ……。」

何事にも動じないメリーラムが。巨漢の金玉でもよいしょの一言で潰すあのメリーラムが、である。こんなに困っているのを見るのは初めてだ。オルティは激しく嫌な予感がした。急ぎ応接室へ向かうと、ちょうど若手がドアの方へと放り投げられ飛んできた。蛙のように伸びている。
ざっと見渡しただけで、両手で足りない数の社員が呻き声を上げながら転がっているのが見えた。窓ガラスはひび割れ、テーブルはへし折れている。観葉植物は見る影もなく、棚は倒れ、飾り物は全てカーペットに散らばっていた。まるで台風が部屋の真ん中に突っ込んできたようだ。その台風は悪びれもせず、唖然としているオルティを見つけると、ゆるく眉を上げた。

「……何してるんだ、お前」

オルティはやっと、それだけを口にした。

「何って、お前が今日来いって言ったんじゃねーか」
「俺は午後3時、と言わなかったか?」

面倒そうに、エヴァグリーンはオルティを睨む。呼びつけておいてオルティが居なかったことにおかんむりらしい。……転がっている時計はまだ1時過ぎ。どうやら時計は持たない主義のようだ。オルティは彼を刺激しないように、努めて冷静な声を出した。昨夜は彼を、高層ビルのエレベーターでも支えられるワイヤーで拘束していたのだ。下手をすれば彼のブーツがカーペットを蹴るのを見るまでもなく、壁だか天井だかの染みになるに違いない。

「……何か粗相があったか? 若い連中は血の気が多いだろうし……」

そう言いながらよくよく見れば、倒れた面子にはそこそこ古参も混じっている。単なるケンカとも思えない。ロータスが外出の日で良かった。あやうく事務所ごとめちゃくちゃになるところだ。

「俺はアレ持ってきただけだ」

そう言って気怠げにエヴァグリーンが示したのは、ぼろぼろになったドラッグストアのビニール袋だ。裂け目から血が滴っていた。オルティは深々とため息をついた。……中身は見なくてもわかる。しかし、確かめないわけにもいかなかった。屈んで、指先でビニールの端をつまんでひっくり返す。案の定、ごろりと首が転がり出る。

「おい、誰だコイツ」

それは少なくとも、オルティには見覚えのある顔ではない。

「俺に依頼を寄越したヤツ。そいつも誰かから依頼されて、俺らに仕事回してるって言ってた」

下請けの下請け。
オルティは再び、大きくため息を吐いた。曲がりなりにもこの街で情報屋をやっているオルティに覚えがないということは、カタギに近い人間である可能性が高い。ましてや首だけになってしまえば、誰から仕事を受けていたのかさえわからない。

「余計なことしやがって……」

つい、オルティは唇からそう漏らしていた。
それを聞き咎め、エヴァグリーンはオルティを睨む。

「それだ。全員そう言ってた。お前に何も聞いてねえからって」

オルティはようやく合点がいった。だから、古参の連中も動いたのだ。彼らは若い連中より、よほど物事のスジやルールを重んじている。
腕を組んで立つ、エヴァグリーンの眼差しはしんと冷えている。オルティを認めていない。燐光を放つ竜種の瞳が、至極真っ当な目でオルティを”見下して”いる。

「何でお前の許可がいるんだ。お前は俺のボスでも何でもねえだろうが。」

一理ある。
あくまで『殺しを反故にするように』取引しただけだ。エヴァグリーンに、オルティに従う道理はない。その辺りを社員たちにはきちんと説明していなかった。それは確かにオルティの落ち度である。
……落ち度では、あるが。
これを人間の社会では、『舐められている』と言うのだ。

「……成程な。つまり、俺がお前を認めさせれば済む話だ。」

竜種の長耳がぴくりと動いた。
オルティは挑発を重ねる。

「俺が勝てば文句はない、そういうことだな?」
「お前が? 俺に勝つ?」

エヴァグリーンは鼻で笑った。
昨日の『手品』では、彼の理屈では負けたうちに入らないのだろう。確かにあれはズルだ。オルティではない偽物だった。まともにやれば、ただの人間に負けるはずはない。そう思っているのだろう。

「寝言は寝て言えよ、人類種」

嘲笑うエヴァグリーンの前で、オルティはゆるりと立ち上がる。フェドラとサングラスを、ドアの影で怯えているリズに手渡す。それからネクタイを緩め、シャツの首を寛げ、袖を捲った。
エヴァグリーンは余裕そうにそれを眺めていた。
——この期に及んでまだ、自分のフィールドで勝負ができると思っている。その素直さがオルティには眩しく、そして、まだ青い。

大きくジャケットを広げながら投げつける。単純な目眩しだ。が、予想外だったらしい。エヴァグリーンは一瞬怯んだ。それはオルティには予想通りだ。舐められたものだと怒りを露わに、彼が爪を振るうことさえ。

「——舐めるなよ、人間ッッ!」

エヴァグリーンは血を集め、指先を鋭く硬化させた。それは竜種の『血の魔法』と呼ばれる技だ。
緋色の爪がジャケットを裂く。千切れ飛ぶ布の向こうで、オルティは笑っていた。

真っ直ぐに銃を構えて。

「舐めてなんかないさ。」

クリアな銃声がひとつ響いた。
……大きく後退ったエヴァグリーンの額に。ちょんと乗っかっているのは、吸盤でくっつく玩具の弾だ。ご丁寧に小さな旗がついて、笑顔のマークが描かれている。

「……あ?」

竜種のそこに、脳はない。急所ではない。
それでも。意表を突かれ、屈辱を与えられた。その現実が貼り付いている。オルティは、エヴァグリーンの背後の壁に手を突いた。いつの間にか壁際まで追い詰められていたことにエヴァグリーンは驚き、言葉もなくオルティを見上げた。

「次は実弾でやるからな」

オルティは勝利の笑みを湛えていた。それは冗談めかした口調だが、無論、本気である。

「……えー……事務所を壊したこと……勝手に手がかりを消したこと……あと会長への暴言と反抗? とか……そういうのをしました。謹んでオワビをもーしあげます」

赤くなりながら、もぐもぐと謝罪の言葉を唇で捏ねているエヴァグリーンを見て、オルティは和やかに笑う。

「うん。一旦許す」
「一旦……」
「当たり前だろ、こんなに無茶苦茶にしやがって。 金だってかかる。ウチは小さな零細ヤクザだぞ?」

怪我人が全員大したことなかったのは良かったが。もちろん、エヴァグリーンも誰かを殺すつもりはなかっただろう。それは承知している。殺意があったなら、誰ひとり生きてはいまい。エヴァグリーンはただ、彼らに喧嘩を売られたと思ったから買ったのだ。

オルティは応接室の比較的無事なソファに腰掛けて、もう何本目かになる煙草に火をつける。吸わずにいられない。ぱちぱちと火花の爆ぜる音。ガラムの煙が重く、甘ったるく香った。
ため息混じりに、髪をいじくりながら。オルティはエヴァグリーンを見上げた。

「人類種の事情なんか、お前には知ったことじゃないだろうが……。俺たちはみんなトヲラス人だ。この国じゃ肩身が狭い。」

エヴァグリーンは、応接室の外をちらと見た。
確かに、この事務所に集った人間は皆、一様に色の濃い肌と淡い髪色をしている。それは海を超え、遥か東方に住む人々の特徴であるという。

「この国とトヲラスは、戦争をしたからな。だから、ここでトヲラス人が生きていくには、ただ敬虔に暮らすだけでは足りなかったんだ。」

やむにやまれぬ事情で、この国で生きるトヲラス人たち。この『クローバー貿易商会』は、そのための寄り合いであり、最後の砦だ。オルティはその会長として——氏族(クラン)の長として、この瀬に立ち続けているのだった。

……ふう、と。オルティが長く細く紫煙を吐き出す。ぱちぱちと爆ぜるガラム・スーリヤが、折れたテーブルに小さく火種を落とした。それは一瞬朱く光ったかと思うと、直ぐに黒く燃え尽きた。
オルティはじっと、目を細めてそれを眺めていたが、ややあって、唇を開く。

「なあ、エヴァグリーン。お前、うちで働かないか?」
「なんだ、急に」

エヴァグリーンは眉根を寄せる。何かの冗談だろうとでも言いたげな顔だ。
その顔を見て、オルティは笑った。

「お互いに悪い話じゃないと思うが。俺たちは表だって武装なんかできない。下手すりゃまた戦争になるからな。その点、竜種ってのは、最高の武器だ。」

オルティの瞳が悪戯っぽく輝く。
その瞳は、星を散らしたような美しい色合いをしている。それが熱っぽく、エヴァグリーンを見つめる。
そして、柔らかく唇を開いて。オルティは、その言葉を口にした。

「エヴァグリーン。俺にはお前が必要だ。」

静寂。
時が止まったかのような、長い沈黙を経て、エヴァグリーンはようやくその言葉を反芻する。まるで知らない言葉のように、鸚鵡返しに唇を動かす。

「俺が……ひつよう?」

——ごぼり。泡沫の溢れていく音が、どこかで響いた気がする。
エヴァグリーンはひどく困惑していた。泣き出しそうな、あるいは笑い出しそうなその表情は、紛れもなく訴えていた。
初めて、誰かに必要とされた、と。
そんな顔をしている。何も疑わない、ただ与えられた言葉を噛み締めて。
……なんと素直で、扱いやすいのだろうか。

オルティはうっすらと、微笑んだ。そんな顔をされては、詐欺にかけたようで悪い気がする。オルティは話題を変えるように、わざとらしく明るい声を出した。

「ああ、もちろん俺の命の取引とは別な? ひとつ言うこと聞いてやるってヤツ。それも決まってるなら今聞くが」
「んえ? あ、おう」

しかしエヴァグリーンは躊躇うように、視線を床へ落とし、落ち着きなく床目を見ている。オルティにそれを告げることを躊躇っているらしい。先ほどとは別の沈黙が、二人を包んでいる。
ようやく開かれた唇は、ひどくしおらしい言葉を発した。

「……笑わねーか?」
「笑わないさ」

間髪を入れず。
それでエヴァグリーンも、覚悟を決めたらしい。やや口籠もりながら、言葉を続ける。

「……探してる船がある。イーデンって船……。」

それはあまりに意外な言葉だった。
つい、オルティも返しに詰まる。

「ええと……都市伝説のか? 蒐集戦艦、だよな?」
「都市伝説じゃねえ!」

今度はエヴァグリーンが、食い気味に声を上げた。そして、苦々しげに唇を噛む。

「イーデンは本当にある!! でも、俺じゃ見つけられなかったんだよ……!」

オルティは考えるふりをした。
この商談は、うまくいきすぎている。それはエヴァグリーンが素直で、寂しがりな子供のようだから、というだけではない。これは危険な賭けになると、オルティはどこかで直感している。

……無意識に、頬の向かい傷を撫でていたことに気づく。ひと呼吸置いて、オルティはもう一度、エヴァグリーンに尋ねた。

「それを見つけて、どうする気なんだ」
「決まってるだろうが……!!」

エヴァグリーンは声を荒げる。
よほど気に触る思い出があるらしい。吐き捨てるように言う。ぎゅっと拳を握り込んで、その手は小さく震えていた。

「沈める!! 二度と浮かんでこねえように、木っ端微塵にして沈めてやる……!!」

オルティは、サングラスを手に取る。
それを鼻梁に乗せて、指で押し上げる。手で隠した口元は、歪んだ笑みを湛えていた。それから、オルティはトヲラス語で、一言だけ呟いた。

「……了解(アリアール)♡」

(続く)

#1 ブラック・ドラゴン&トヲラス・ブルドッグ

小銭が少し、足りなかった。
値札を眺めて舌打ちをひとつ、自販機に硬貨を捩じ込む。ぎらついたエナジードリンクの缶の隣。つまらなさそうな黒いコーヒーの缶。そのボタンをぐっと押し込んだ。

夏の盛りを過ぎ、日が落ちるのが早くなっても。アルスの街はアスファルトの奥まで、熱を溜め込んだままだ。よく冷えて汗をかいている缶を片手に、暗い路地へと歩を進める。
どこかでカラカラと換気扇が回っている。肥えた虫が足元を逃げていく。室外機が低く唸る隙間を通り抜けて、通りの手前、ネオンの下に立つ。缶を開けて、傾ける。
通りの向こうは賑やかな繁華街だ。男も女も毳毳した格好で歩き回っている。脂ぎって艶々として、虫によく似ていた。
足元をうろついているそれを、爪先で踏む。
くしゃり。潰れた羽をにじる。ふと、ブーツの先が擦り切れていると気づいた。いつ手に入れたものか思い出せなかった。俯くと、被ったフードが重い。あちこちほつれた厚手のパーカーだ。それも随分、長い間使っていた。

室外機の上で、小さな窓が開く。
そこからにゅうと腕が伸びて、くしゃくしゃの小さな封筒をよこした。窓ごしに見下げる目があった。封筒を開ける。それは明らかに隠し撮りで、こちらを見ていない男の写真だ。けれど、品と身なりの良さは見て取れる。

「こいつ。どんな奴だ? 何で殺される?」

なんとなく、そう尋ねた。
窓を閉めようとしていた手がピタリと止まる。そして、嘲笑うような返事。

「聞いてどうする? ケツでも借りる気か?」

くだらない、下品な冗談を聞き流した。
コーヒーをぐっと飲み干す。空になった缶を投げ捨てれば、路地にかつんと高い音が響いた。
それは転がって、すぐに他のゴミと紛れて分からなくなった。

「……クソ不味いなァ、このコーヒー。」

唇を舐める。
ぎらり、鋭い牙を覗かせながら。

街の郊外へと至る路を、白いサンダーバードが行く。トリノ・バードと呼ばれるそれは、いわゆるクラシック・カーだ。レストモッドされた現代の足回りを得て、鋭利でエレガントな鉄の質感を外装に残しながら、鳥は夜を滑らかに駆けている。ドロドロと低い排気音は、獣の唸りのようにも聞こえた。
ガラスはどれも夜の海のように、黒くスモークされている。Tバールーフの天窓を含めて。ただし今夜は、後部座席の窓がひとつ開いていた。

“オルティ・クラヴィアド”は後部座席に座り、窓の外を眺めている。きらきらと流れていく街灯を、きらきらとした目で見上げながら。緩いパーマのふわふわとした白金の髪を風に揺らして。品の良さそうな黒のスリーピースは、ぴんと布地を張っている。覗く肌色は伽羅のような褐色であった。

「ったく、本当に来んのかよ……」

運転席で男が愚痴る。彼はオルティの右腕として、よくこうして運転手を勤めている。同じようにスーツを着こなしているが、ジャケットは脱いでいた。シャツの肩がはち切れそうになるほどの太い腕で、繊細にトリノ・バードのハンドルをこね回している。湯水の如くカスタム費用を突っ込まれているこのじゃじゃ馬、もといじゃじゃ鳥は、フロントが重くなりすぎている。気を抜けばタイヤを持っていかれそうになるのだ。

後部座席で、オルティはにっこりと笑う。

「彼が間違ってたことなんてないでしょ? まあ見てようよ!」

いやに、子供っぽい笑顔で。

「そうは言ってもなぁ……こんな作戦、」

と言いかけた運転手、ロータスが黙る。
ハイビームの向こうに人影が見えたのだ。
——来た。まさか。本当に?

「おいマジかよ!マジで来やがった!!」

贔屓のチームが逆転ホームランで試合を決めた。そんな歓声とともに、ロータスはアクセルを目一杯に踏む。トリノ・バードはぐんと加速した。

「ほらね!」

オルティも興奮したように顔を上げた。車は疾走する。巨大な鉄の刃物のように。真っ直ぐに突っ込んでいく。
衝突するその寸前に、人影は消えた。面食らったロータスはブレーキを踏み込む。悲鳴のようなスキール。車は大きくドリフトする。まるで平地に立つかのように。それは立っている。車の屋根に!
レザーのシートの上で振り回されながら。オルティは面白い出し物でも見るかのように、無邪気にガラスのルーフを見上げた。

「すごいなあ、そんなこともできるんだ」

防弾仕様の強化ガラスが、スモークフィルムごと貫かれる。たかがか細い拳ひとつに。割れたガラスの縁に手をかけ、それは骨からステーキを剥がすように、ルーフウィンドウを引き剥がした。
顕になった屋根の向こうで、その獣が顔を出す。見下ろす目は蛇のようにぎらついて、燐光を帯びていた。竜種だ。そして、竜種の側も、オルティを認識した。視線が交錯した瞬間、竜種は再びその拳を振り抜いていた。

つまらない仕事だった。
ぽつぽつと血糊が滴って、アスファルトにシミをつける。毟り取った首の、乱れた白金の髪に指を絡める。バーストしてガードレールに激突した車から離れて、ゆるゆると歩き出す。
郊外の道路のことなんか、街の人間は誰も気に留めない。遠い街の夜景は、今夜も何も起こっていないように華やかだ。

汗ひとつかかない、つまらない仕事だ。いつも通りに。こんなものだ。人間は脆すぎる。少し力を入れれば簡単に千切れる。やりがいも何もあったものではない。この首を届ければ仕事は終わる。ざっと一月分ぐらいの稼ぎにはなるはずだった。

「ほんと、つまんない仕事だね」

呆れたような声がする。
——どこから? 手元から。毟り取った首が喋っている。どろりと、人間の血液ではない何かを滴らせながら。

「こんなに思い通りにいくなんて、そんなつまんないことないよね!」

掴んでいた首は、見知らぬ男のものになっていた。かと思えば一瞬で溶け、粘性の黒い液体へと変化する。それは手足に絡みつき、力強く締め上げる。踠く間に真深く被ったフードが外れ、人ならざる長耳が顕になった。

「何だ、お前……!」

牙を溢しながら竜種が唸る。そこに誰かがしがみつく。竜種の首を肘で固める。ロータスだ。彼はトリノがクラッシュする直前に飛び降りていたのだった。おかげでシャツはズタズタだ。

「何だ、って! 人違いだよバカ! いいぞサダル、そのまま押さえてろ!!」
「うん!」

サダル、と呼ばれた粘性の液体——”オルティ”の首だったもの。それが、まるで万力のような力で、竜種の怪力を封じている。そして動くこともままならなくなった竜種の前に。かつかつと硬いヒールの音を立てながら。その男は現れた。

「良くやってくれた」

竜種は、今度こそその男をしっかりと見た。
風に紫煙を燻らせ立つ、オルティ・クラヴィアド。服装や外見はそっくり同じなのに、渡された写真とも、先ほどの偽物とも、まるで雰囲気が違う。
ただの人間ではない、そう直感する竜種の腹に、強い衝撃が走る。
竜種の力の源は『心核』と呼ばれる、人における心臓部である。そこを思い切り蹴り上げられたのだ。見上げた視界が暗く滲む中、竜種を見下ろすオルティは、冷たい目をして吐き捨てた。

「俺の愛車がお釈迦だ、——クソッタレ!」

冷水を浴びせられて、急速に意識が覚醒する。
目を瞬き、辺りを探るように見渡す。薄暗い、窓のない広い場所だ。どこかの地下室だろうか。蛍光灯がいくつか点けてあるが、広さに足りていないせいで部屋の輪郭が判然としない。
そして、肩から先がうまく動かせない。後ろ手に縛られた上で、柱か何かに括り付けられているようだ。

目の前で腰掛け、起きたか、と小さく呟いているのが。殺し損ねたオルティという男だ。隣に控えているゴツいのが、運転手の男。ロータスという名だったか。オルティの背後にいる胸のでかい女は、初めて見る顔だ。まるで興味のない広告を見るような目で、こちらを見ている。オルティに化けていた偽物の姿はない。

「……どこだ、ここ」

質問したつもりはなかったが、オルティはチッと鋭く舌打ちをした。

「質問するのは俺だ。お前はその答えだけを話せ。それ以外は必要ない」

事務的で、冷徹な答えだった。
それが気に入らなかった。生命を狙われていてなお、そんな態度を取ることが。

「何様のつもりだ、てめえ」

牙を剥き、睨む。ただそれだけの挑発に、ロータスはぐっと息を飲み、拳を握る。
それをオルティが手で抑え、女に目配せをした。女が一歩、進み出る。彼女はその手に、植木に使うような、大きな鋏を握っていた。

「俺はこういうことは嫌いだ。だから、なるべく早く話してくれると嬉しい」

女はゆるやかに、高いヒールの音を響かせる。それが背中で止まった。オルティは膝に肘をつき、穏やかに口元で手を組んでいる。

「メリーラムはプロだ。うっかり死なせてもらえるなんて思うなよ。」

硬い刃が、指に触れる。
ぞっとするほど冷えた刃。

「——俺を殺せと、誰に命じられた?」

……誰に、だと?
まるで意味のわからないことを聞かれ、躊躇う間に。重い刃が噛み合う音がして、見えない指先がかっと熱くなる。思わず喉から空気が漏れた。逃れられないならせめて握り込もうとした指にはまるで血が巡らず、うまく動かせない。どこかで血の流れを止められている。
こいつは、竜種の対処を理解している。

「誰だ?」

再び。別の指に刃を押し当てられる。
まるで何の感慨もなく、ただはみ出した枝を切り落とすように。オルティが命じれば、きっと彼女は全身を輪切りにするまで『やる』のだろう。そう確信できるほどの感情のない刃。思わず叫び出していた。

「……知るかよ、ッ、知るわけねえだろうがァ!!」

刃が肌に食い込む感触がした。全身が強張る。しかし、その痛みはやってこなかった。いつの間にか瞑っていた目を開けると、オルティがすっと片手を挙げていた。

「知らない? 本当に?」

……それは質問というよりも、意外そうな。小馬鹿にしたような口調に聞こえた。
息も絶え絶えに、牙を噛み締める。ぐるぐると渦巻く、腹の虫が収まらない。スカした態度が気に入らない。見定めるような目が気に入らない。

オルティ・クラヴィアドの全てが、気に入らなかった。

「当たり前だろバカかお前! 竜種の殺し屋にそんな事教える奴が何処にいるんだよ!!」

一度ぶつけた言葉は、止まらなかった。

「お前ら人類種が、俺たちに何かを与えた事なんか一度も無かっただろうが!! 何が竜種だ、トカゲの赤ん坊ぐらいにしか思ってねえくせに!! 何処でも切れよ、切り刻んでせいぜい時間を無駄にしろ、バカども……!!」

ぎっ、と牙を剥いて。吠える。オルティを睨みつける。視線がかち合う。意外なほどに真っ直ぐな眼に、気圧されそうになりながら。
それでも、この意地だけは譲れなかった。

「ッだが……! 俺は竜って獣だ! ——たとえこの頭だけになっても!! 俺は俺の魂を賭けて、お前を殺してやる……!!」

オルティは、咥えていた煙草を消した。
その口元は、愉しげに微笑んでいる。そして再び、何事か手で合図した。……背後の気配が消えた。

「お前。名前は?」

咄嗟に答えられなかった。
名前。あるにはある。けれど、そんな事。誰も。一度だって尋ねやしなかった。
だから。その音を唇に乗せたのは、実のところ、初めてだったのだ。

「……エヴァグリーン」
「俺はオルティ。エヴァグリーン、取引をしよう。」

オルティはエヴァグリーンに近づくと、腰を屈めて目線を合わせる。革手袋の掌が、エヴァグリーンの髪を荒っぽく撫でた。まるで子供にそうするような手つきだった。

「と・り・ひ・き、だ。意味わかるか?」
「……バカにしてんのか、お前」

唸るエヴァグリーンに、オルティは目を細めて、ますます愉快そうに語りかける。

「俺を殺す依頼を反故にしてくれたら、俺がお前の頼みをひとつ聞いてやる。悪い話じゃないだろう?」

エヴァグリーンは考える。
しかし、選択肢があると思うのか。ここで頷かなければ、確実にこのまま殺される。依頼を反故にするのは難しい事ではない。竜種の殺し屋はそもそも信用されていない。仕事を飛ぶのも失敗するのも織り込み済みの、安い仕事。
泥沼のような日々。泥水のようなコーヒー。
選択肢が、あると思うのか。それでもエヴァグリーンが頷けないのは、目の前で笑っているその男の真意がわからないせいだ。

「自分で言うのも何だが、俺は優秀な情報屋さんだぜ? どうする、エヴァグリーン?」

それでも。たとえ、藁に縋るようなものだとしても。エヴァグリーンはここで溺れているわけにはいかない。泥でも何でも啜って、立ち上がらねばならない。生き延びねばならない。
名前を名乗ったせいか。それとも、呼ばれたせいか。胸の底に沈めた影が、急速に浮上してくる。海鳴りが遠く響いた、気がした。

オルティの目を、見つめる。何もかもを見透かしているような、湖水のような碧い瞳を。下弦を花蜜に浸したような、冴え冴えとした瞳を。
もしも嵐の海で溺れ、縋り、見上げた先にあるのがこの星であったなら。きっと何度でも手を伸ばせると思った。

「……高く付くぞ。」

エヴァグリーンは、精一杯、虚勢を張った声を出したつもりだった。
けれど、それはまるで泡沫のように頼りなく、解けていった。

(続く)

KILLING ME SOFTLY

2022年ごろに描いていた漫画をテキストでリライトしています

Devil Side

  1. ブラック・ドラゴン&トヲラス・ブルドッグ
  2. ウェルカム・トゥ・コンクリート・ジャングル
  3. キックスタート・ホーム・スイート・ホーム

Angel Side

執筆中

Old Comics

A1 – Dr.Feelgoodと不死身の花リターンズ
D1 – ウェルカム・トゥ・ザ・コンクリート・ジャングルをタマよりも早く走り抜けろ
A2 – Are you, Are you afraid of change ?
D2 – Sympathy for the Dancin’ Devil