じゃぶじゃぶと威勢のいい水音が響いている。
エヴァグリーンも始めはそれこそ、野良猫のように元気に抗議し抵抗していた。むりくりシャワー室に突っ込まれた辺りからは、諦めたように大人しくなった。
なぜマフィアの事務所に広々としたシャワー室があるのかは、知らないほうが幸せなのだろう。
オルティはそこでため息を連発しながら、がしがしとエヴァグリーンの頭を洗っている。しっかりしたラテックスの手袋越しに。これもまた、普段は何に使うのかを知るべきではない。
「こんな時に限って、なんだってロータスは外出なんだ……。」
オルティの愚痴も文句もため息も、ひとつも止まることはない。もはや聞き飽きたエヴァグリーンは低く唸る。
「やらなきゃいいだだけろうが……。」
「うるせえな。ウチの社員になるんなら俺の方針には従ってもらう」
「だからって何で……ッおい顔にかけんな!」
無視。ざばざばとエヴァグリーンを湯で流しながら、オルティはその竜種らしく、ぴんと尖った長耳をぎゅっと引っ張る。そして、事務所中に響くような声を張り上げる。
「お前が! ひとりでシャワーも! 浴びられん馬鹿だからだろうが!!」
「ちゃんと浴びただろ!!」
「あんなもん顔を洗ったうちにも入るか!! いいから黙ってろ!!」
泡だったタオルを肌表に擦り付けられ、エヴァグリーンはぎゅっと身を捩る。泡と水滴が容赦なく飛び、オルティはそれをべっとりと浴びた。シャツもスラックスももう水浸しだ。こうなればもう、ヤケだ。
「ッ変なとこ触んなって! 聞けよお前!!」
「俺だって触りたくて触ってねえんだよ!!」
エヴァグリーンが着ていた服は、肌着から靴まで全てひん剥かれて、すでにゴミ箱にダンクされている。
竜種は社会的に何の権利も持たない。衣食住は保証されていない。橋の下に住んでいるし、河水で全てを済ませているし、生ゴミを漁り食っている。
竜種は強靭だから、それでも死にはしないだろう。生きていけるのだろう。
だから何だ。
オルティ・クラヴィアドは、自他共に認める潔癖症なのである。
「……指、治ってるな。」
ふと、オルティはエヴァグリーンの手を取って、しげしげと眺めた。メリーラムが切り落としたはずの指が、きちんと揃っていた。竜種の再生能力については知識として知っていたが、目の当たりにするのは初めてだ。
竜種は『心核』という臓器を中心とする循環器動物である。つまりは全身が、ひとつの巨大な心臓のような生き物だ。その血液は、もはや金属と呼べるほどに重く濃い。それこそが彼らの『血の魔法』の源であり、再生力の源でもあった。
言うなれば竜種にとって身体とは、心核に纏いつく、血肉でできた粘土だ。少し捏ねれば形が変わる。人のような姿をしているのは擬態にすぎず、気に入った形、心の形とでも言うべきものだった。
だから、竜種は人間とは違う。橋の下だろうがどこだろうが生きていける。
——だから使い捨てられるのだ。この人でなしの獣たちは。
オルティは、暗い眼をしてそれを見る。
アルスとトヲラスの戦争が激化したのは、アルスが竜種を兵器として運用したためでもあった。
あまりに長い間オルティがじっと眺めているので、エヴァグリーンは怪訝な顔をした。
「……また切る気じゃねえだろうな。」
「お前がちゃんと風呂に入って清潔な服を着てくれれば、切りやしないさ。」
軽口とともに、オルティは泡を流した。
夕暮れの街は燦々と赤い。
西日に目を細めながら、エヴァグリーンはオルティの後ろを歩く。袖の余るツナギを着せられて。それは倉庫に突っ込まれていた余り物の、コンビニの制服だった。そして下着とサンダルはコンビニの売り物だ。
オルティはといえば、事務所にいくつか着替えを置いている。まるで変わり映えのないスーツ姿だが、ジャケットだけは替えがなかったらしい。シャツにネクタイとスラックスだけの簡単な出立ちだった。
エヴァグリーンは、よほど逃げ出そうかと思った。陽の明るい時間帯に、フードも被らずに出歩くのはほとんどない事だ。長耳はすぐに竜種だと気付かれるからだ。まだ少し芯の濡れた髪が風に触れている。それがなんだか、居心地が悪い。
逃げ出さなかった理由は、ただ、単純な話で。
だって、逃げて何になる?
どうせ、何処へも行けはしないのに。
オルティは次から次へと、エヴァグリーンを服屋に連れ込んだ。店員がトヲラス人と竜種のふたりを見て、嫌な顔をするのにも構わない。フィッティングを繰り返し、しかしエヴァグリーンの意見はほとんど聞かない。
というのは、布なら良しのエヴァグリーンのセンスがあまりにも壊滅していたせいだ。季節感も色合いもあったものではない。オルティは散々呆れ、苦言を呈し、頭を抱え、最後には目が据わっていた。
「分かんねえんならマネキンのやつ、上から下まで買っときゃいいんだ。」
遠い目をしたオルティが言う。買ったばかりのマウンテンパーカーをエヴァグリーンに被せて、その目はようやく、少しだけ和らいだ。
「ほら。似合うじゃないか」
エヴァグリーンは、フードを深く被る。軽やかだった。なんとなく、肌に合っていると感じた。
ただ正直、意味がわからなかった。
仕事をさせたいから、雇うって言ったんじゃないのか。だというのに、体を洗って、服をよこして。
なぜ、この男はこんなことをしているのか。それがわからない。
それが、パーカーの軽さとは裏腹に、何かひどく重いもののように感じた。
「今日は事務所に泊めてやる。明日には部屋を用意させよう。ああ、連絡手段も必要だな、身分証は……どうしたものかな。」
オルティは指折り数えながら、エヴァグリーンに必要なものを確認する。随分慣れた仕事のようだ。
東国料理の屋台は、金さえ払えば畜生でも客だと言わんばかりだ。初めは胡散臭そうな顔をしていた店主も、オルティが少し多い金を机に乗せた時から、何も言わなくなった。エヴァグリーンのむちゃくちゃなカトラリーの使い方には、さすがに目を剥いていたが。
赤い色をした麺は、食べたことのない味がした。喉が焼けそうに辛いのに、次のひと口に手が伸びる。エヴァグリーンはそれを気に入った。オルティはその食べっぷりを眺めてばかりで、しまいには自分の分までエヴァグリーンの器に乗せた。
「お前、こんなことばっかりしてるのか」
「ウチの社員のそういう面倒は、だいたい俺が手配したな。」
「……そうじゃねえ。麺。」
オルティは肩をすくめる。
麺だけではない。風呂も。服も。部屋だって。
これまでエヴァグリーンの生活には、『与えられる』ということがなかった。それを立て続けに何度も浴びせられ、エヴァグリーンは喜ぶより先に困惑していた。
「要らなかったか?」
「だから、……もういい。ワケがわからん。」
諦めて麺を啜りはじめたエヴァグリーンに、オルティは慈しむような目を向けた。
「俺はただ、人間ならそれを全部、当たり前に持っているべきだと思ってるだけさ。」
「……んだそりゃ。頭おかしいぞ、お前」
「そうかもな? どうだ、頭のおかしい男に拾われた身としては?」
「さあな。お前みたいな人間ほかに知らねえし」
真面目な返事に、オルティは愉快そうに笑った。器に残った緑の葉を口に運び、それだけで満足そうにして煙草を吸い始める。
「投資だよ、投資。お前も早く立派になって、今日の何倍も稼いでくれよな。」
本当に変な奴だ。
ヤクザが律儀に携帯灰皿なんぞ持ち歩くなよ、とは、エヴァグリーンは言わずにおいた。
◆
それからしばらく。エヴァグリーンは用意された部屋から、ただ事務所に通い詰めるだけの暮らしをしていた。
殺しの仕事なんか、そうそう頻繁にあるものではない。オルティや社員たちの護衛をする。つまりは『そこに居る』のが主な仕事だった。
ぼんやりと、事務所の一角からそれぞれの仕事を眺める。事務所の中はのんびりとしたものだった。どういう類の仕事なのか、エヴァグリーンにはいまひとつ理解できない。帳簿というものを作ったりしているらしい。
外商や、執行、と呼ばれる社員たちが忙しなく出入りしていた。特に執行の社員は荒っぽく、見た目にも妙な迫力がある。彼らはある種の暴力に長けているのだろう、とエヴァグリーンは考えている。そして、それをまとめているのがロータスだった。
ロータスはいつも底抜けに明るい。事務所に入ってくれば大きな声で挨拶をする。エヴァグリーンの顔を見れば、いつも感心したように「御苦労さん!」と言う。……何も苦労した覚えはない。
メリーラム、あの日エヴァグリーンの全身を膾切りにするところだった彼女はといえば、普段はまるきり暇そうにしていた。たまに事務所の掃除をして、エヴァグリーンが座り込んでいると邪魔くさそうにする。その他の時間は雑誌を眺めているか、受付嬢のリズと無言の談笑をしている。
そのリズには、ずっと怯えられていた。エヴァグリーンもエヴァグリーンで、聾唖の彼女にどう接していいかわからなかった。なんとなく手を振ってみたりした。親しくなりたいわけではないが、別に敵意もなかったからだ。その甲斐あってか、近頃はエヴァグリーンが事務所に入る時、笑顔で迎えてくれるようになった。
オルティは大抵、席に着いて何か難しい顔をしているか、どこかへ出掛けていた。他の社員を伴っていることもあった。事務所へ戻ればあちこちで社員に話しかけて、あるいは話しかけられていた。エヴァグリーンが何か賑やかだなと思う時はおおむね、オルティが社員たちと話をしている時だった。
「エヴァグリーン」
社員に囲まれたオルティが呼んでいる。
何かの箱を持っていた。甘い匂いがした。箱にはカラフルなドーナツが詰まっていて、ロータスはそれを見ては、嬉しそうな声にいくつも感嘆符をつけている。
「ひとつずつな?」
そう言われても、エヴァグリーンにはドーナツの良し悪しなど分からない。何だかカラフルなことはわかるが、それだけだ。困って顔を上げると、オルティは笑っていた。
「全部同じ味だ。色だけだよ。」
適当に選んだ甘ったるいドーナツを、もぐもぐと齧る。横にオルティがやってきて適当な椅子に腰掛ける。並んでドーナツを齧る。
事務所は甘い香りに包まれて、藹々としていた。
「お前らって仲良いよな」
ドーナツを腹に収めて、ふと、思ったことを口にした。オルティはちまちまとドーナツを齧りながら、エヴァグリーンに相槌を打つ。
「だな」
「仕事相手だろ。お前、雇い主だろ?」
「そうだ」
「金のやり取りだけで充分だろ。ドーナツなんか買ってきてどうすんだよ」
「コミュニケーション」
「なんだそれ」
オルティはやっとドーナツを食べ切ると、何故だか少しだけ、遠くを見るような顔をした。
「人と人が何かをしようと思っても、一足飛びに何でもできるわけじゃない。円滑にはすすまない。だから日頃からコミュニケーションを取るんだ。」
「それとドーナツと何の関係がある」
「それが分かるようになれば、お前も少しは人間らしくなったってことだろ」
何か馬鹿にされている気がする。抗議しようとオルティのほうを見る。その口元に笑みはない。楽しそうな声が聞こえるほうをじっと見て、ゆっくりと目を伏せた。
「……仲が良すぎるんだ。本当はお前の言う通り、仕事は仕事で割り切ってもらいたいんだが……。」
含みのある言葉だったが、エヴァグリーンは、それ以上聞かなかった。
あくる日、ロータスは、エヴァグリーンを市場へと連れていった。そこはトヲラス人のコミュニティのひとつで、クローバー貿易商会がケツを持っている。
つまり、エヴァグリーンの守備範囲でもあるというわけだ。
ロータスはどの店でも、気さくに人と関わっていた。市場のトヲラス人たちはエヴァグリーンを見ると、一瞬ぎょっとした顔をする。しかし、ロータスがひっきりなしにエヴァグリーンに話しかけて物を教えているのを見ると、警戒を解いたように表情を和らげる。
コミュニケーション。
そうオルティが言っていたのを、思い出す。
「……変な奴だよな、あいつ」
市場を歩きながら。エヴァグリーンは、ロータスにオルティのことをそう尋ねた。ロータスは豪快に笑う。
「オルティさんが拾ってきた奴って、大概そういう顔するんだよなあ!」
それが何だか、思う壺のようで腑に落ちない。
別にあいつの手の内に収まる気はない。単なる契約だ。船を見つけてもらった後、オルティを殺して逃げても構わないワケだ。
……その後どうするかは考えない。
「ま、安心したよ。とうとう竜種かよと思った割には、お前は馴染んでくれてるしな!」
ロータスはわしわしとエヴァグリーンの頭を撫でる。よせと言っているのに、ロータスは何度もエヴァグリーンにそうしたがった。しまいにはエヴァグリーンが折れて、されるがままになっている。
「思ったよりは、オルティさんの手を煩わせることも無さそうだ」
ロータスはオルティに並ぶほどの背丈だったが、体格はロータスのほうがよほどしっかりしていた。太い肩周りは隆々として逞しい。小柄なエヴァグリーンと並んでいると、まるでウルフドッグとポメラニアンが連れ立っているようだった。それで言うとオルティは毛足の長いハウンドで、メリーラムはふさふさとした中型のコリー。
ロータスのほうが群れのリーダーでも不思議ではない。大きくて、力があるのだから。
「何でお前、あいつの下に付いてんだ?」
エヴァグリーンがよほど不思議な顔をしていたのか。ロータスは大笑いした。
「お前だってオルティさんに負けたんだろ! 俺もだ!!」
ひとしきり笑って、ロータスはエヴァグリーンの背をぱんと叩く。痛い。
「殴り合いで負けた、とかそういうんじゃなくてさ。ああこの人には敵わないな、って思わされた。お前もそうじゃないのか?」
「……俺はそんな事思ってねえ。」
「はいはい、そういうことにしとく」
それ以上言い返さなかったのは、図星だったからだ。殺せるとは思う。だが、勝てるとは思えない。
ロータスはそれからも、オルティに対する尊敬の念を語り続けた。敬愛するボスがいかに凄いのか。その信念、偉業、素晴らしさ。それはまるで恋焦がれる乙女のように。
——仲が良すぎるんだ。
オルティのその言葉の意味が、少しだけ理解できた気がした。
(続く)

