雨が降っている。
カマロの狭いガレージに寝泊まりして、何日になっただろうか。バイクの乗り方も板についてきたところだ。そのパイルダーで、今日は少しだけ遠出をしてみようと言い合っていたのに、空気の読めない雨。
「止みそうにないね。今日は諦めだ」
ガレージの屋根を叩く雨の音はずっと激しいままだ。屋根が薄いせいで余計に響く。
「何か温めるよ」
カマロは冷蔵庫を漁りにいく。もう、「食べる?」とも「泊まってく?」とも尋ねない。
それが身に染みている、とエヴァグリーンが静かに自覚しているとき。
携帯端末が、突然鳴りだした。
「……今更、何だ」
電話口のオルティは何も言わない。
「クビにするってんなら、好きにしろよ。」
『仕事だ』
歯噛みするエヴァグリーンに、オルティは淡々と告げた。
「……あ?」
『彼奴を殺した奴が分かった。お前、知ってるだろう、カマロってガキ』
雨音が屋根を激しく叩く。
何も言い出せないエヴァグリーンに、オルティは言葉を続ける。
『彼はライドウという組織に借金がある』
「………」
『それをチャラにする条件で殺しを請け負ったと、メリーラムがライドウの奴を吐かせた』
衝撃で掻き回された頭はカッと熱くなる。しかし、ふとオルティの言葉に引っかかりを覚えたことで、エヴァグリーンは意外に冷静だった。
「……待てよ、何でお前がカマロのこと知ってる」
『……』
声が震える。
それほどまで。それほどまでに、この男は。
「なんとか言え! てめえ、俺に監視付けてたのかよ……!」
『そうだ』
「ッざけんな! クソが、……そんなに俺が信用できねえのかよ!」
オルティはそれ以上、何も答えなかった。それがエヴァグリーンを衝動に走らせる。全身の毛を逆立て、深く長い息を吐く。牙を剥くその姿は、まさしく竜というけだものだった。
「 カマロを殺れってのか、上等だてめぇ、てめえからブッ殺してやる……!!」
勢い、ガレージのシャッターを開ける。雨が激しく降っている。エヴァグリーンはその中へ、駆け出そうとして。
しとどに注ぐ雨の中。目の前に立つ、オルティと鉢合わせた。
オルティは、数人の部下を連れて、全く似合わないビニール傘の下で、まさに通話を切るところだった。その中にはロータスも居たが、大多数はエヴァグリーンのよく知らない顔だ。
咄嗟のことに息も注げないエヴァグリーンの背後から、誰かが飛び出した。
カマロだった。
ナイフを手にしていた。カマロは刹那のうちにオルティに組み付くと、その首筋に刃を当てた。銃口が一斉にそちらを向くが、誰ひとり撃たなかった。オルティに当たるからだ。ビニール傘が雨の中に転がる。
「……カマロ!!」
「ごめん。……電話聞こえちゃった。エヴァって、ここの社員さん、だったんだね」
雨に煙る世界の中で、カマロは吹っ切れたように笑っている。小さな果物ナイフの刃をきつく握りしめて。
「お前、」
「……お金なくてさ。仕方なかったんだよ。俺ほんとに売れてないから。でも、君に嘘つく気もなかった。俺は本当に、知らなかったんだよ」
刃先が震えていた。カマロの頬に伝っているものが、雨粒だけだとは思えなかった。
「ただ、殺せば借金はなかったことにするって言われただけだ。君に声かけたのだって、本当に、俺の理想だったから、それだけなのに」
雨はますます激しさを増す。晩秋の雨はひどく冷たい。カマロは、乾いた笑い声を立てた。
「どうしてこんなに何もかも上手くいかないのかな。俺が、君が、竜だからなのかな」
エヴァグリーンとの日々で、いつだって楽しそうに、嬉しそうに揺れていた、陽のような金の瞳。それが今は、豪雨の中消えそうな灯火のようで、痛々しい。
カマロは、腕の中のオルティに語りかけた。
「……あなた、偉い人なんでしょ。すごいね。こんな状況なのに、すごく落ち着いた音がする。ごめんなさい、俺はまだ死にたくないです。」
怯えた声音ではあったが、その言葉にはしっかりと交渉のテーブルに上がろうとする意思があった。凶行はこの場を切り抜けるためのことだと理解したロータスが、社員たちに銃を下ろさせる。
カマロは、エヴァグリーンを呼んだ。
「エヴァ、一緒に来て。俺、君に嘘は言わなかった。……好きだよ、本当に。だから……」
雨の中に、足を踏み出す。
何を選べば良いのか。エヴァグリーンにはまだ、分からずにいる。カマロを連れて逃げればいいのか。オルティを守り、カマロを殺せば良いのか。
わからない。
それでも、今自分が背を向ければ、カマロはひとりになるだろう。それだけは、確かだから。
雨音が、一瞬小さくなった。張り詰めた世界の中で、動いたのはエヴァグリーンでも、カマロでもなく。
オルティの掌が、カマロを力いっぱいに突き飛ばしていた。そして、鋭い弾丸がどこからか、オルティの肩口を貫いた。
水たまりに鮮血が広がって、激しい雨がそれを洗っていく。弾丸だけではない。カマロが向けていたナイフの先端は、しっかりとオルティの首筋を切り裂いてしまっていた。
ロータスが駆け寄ってくる。誰を狙ったにせよ、続きが来るはずだからだ。ガレージの方へ全員を退がらせる。カマロは唖然として、血濡れたナイフを掴んだまま、雨の中に座り込んでいる。ロータスは彼の首根っこを引っ掴み、ガレージの中へと放り込む。すんでのところで、弾丸はアスファルトを叩く。
エヴァグリーンは、2発の狙撃の角度をしっかりと見ていた。
ちらと見たオルティは、まだ生きている眼をしている。行け、と言われた気がした。全力で水たまりを蹴る。まだ撃ってくるが、方角さえ分かっていれば致命傷は避けられる。弾丸が頬を裂く。雨の中、この狙撃だ。相当腕のいいスナイパーなのだろうが。エヴァグリーンは、通りの向かいのビルに飛ぶように駆け上り、その屋上でそいつと対峙した。
ライフルの銃口が、まだ中空のエヴァグリーンを睨んでいる。それを蹴り飛ばし降り立つ。即座に両腕をへし折ると、そいつが何かを咥えているのが見てとれた。
「やらせるか……!!」
カジノでの襲撃の際。護衛の竜種、スペイドが取り押さえようとした襲撃者は毒を飲んだのだ。エヴァグリーンは咄嗟に、そいつの口へ手を突っ込んだ。歯が砕け、口腔が裂ける。反射的に噛み締められた顎に、エヴァグリーンの手は千切れるほど軋んだ。しかし、ぐっと力を込めて、エヴァグリーンの拳は毒のカプセルをしかと掴んでいた。
◆
狭いガレージは騒然としていた。
ロータスは必死に、オルティの傷口に自分のシャツを押し込み、出血を止めようとしている。しかし、だくだくと流れ続けるそれは止まらない。太い動脈を貫いたのかもしれない。ロータスは、その赤ら顔を蒼白とさせていた。
「オルティさん……!!」
「……ナダレを、呼んでくれ」
オルティは苦痛に呻いていたが、明確にその指示を出した。それはロータスもよく知っている闇医者の名である。オルティとは旧い中らしく、親しくしていた。控えていた部下に、ダイヤルした携帯端末を投げ渡す。彼らもお互いに顔を見渡しあって、不安そうにしている。
「クソっ、止まんねえ……!」
オルティはロータスに凭れるように身を預けている。ジャケットとベストは脱がされ、黒いシャツは例の果物ナイフで裂かれていた。褐色の肌に赤黒い血が滝のように流れている。その背には物々しい、翼のようなトライバルが描かれている。左肩を貫通した銃創が肉を弾き飛ばして、見事な彫り物を削り取っていた。
急速な失血が、意識を朦朧とさせているのか。オルティは譫言のように何か呟く。ロータスはそれを聞いて、ぎゅっと眉を寄せる。彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「そんなこと……できるわけないでしょうが!!」
「頼む……やってくれ」
そう言うと、オルティは完全にぐったりとしてしまった。ロータスは低く唸り、まだ躊躇っていたが、オルティのジャケットの内ポケットを探った。銀のジッポライター。震える手でそれを握りしめ、懐の短銃から弾丸を抜き取る。
薬莢を強く噛み、弾頭を引き抜くと、ロータスはオルティの肩の傷に火薬を振りかけた。
部下を呼び、オルティを押さえつけさせる。その肌は血の気を失い、冷え切ってがたがたと震えていた。歯には誰かのベルトが噛まされた。ジャケットで頭を覆い、火が髪を焦がさないようにする。
ロータスは意を決したように、ジッポの火を点けた。
わなわなと震える手が、そっと傷に近づく。ロータスはぐっと目を閉じた。
「オルティさん……すみません!」
勢いよく閃光が走る。薄暗いガレージに人の群れの影が立つ。悲鳴はオルティの喉の奥だけで鳴った。
ロータスは洟を啜りながら、オルティを仰向けにさせた。弾が貫通しているためだ。まだ、鎖骨の下を貫いた入射口の傷が残っている。そちらの傷は出口に比べれば小さいものの、今もオルティの命を垂れ流し続けている。
ロータスは同じ手順を繰り返した。再び炎が閃いた。それから果物ナイフをジッポで炙ると、首筋の傷へと押し付ける。それでようやく、全ての傷口を塞ぐことができた。
全てが終わった後、ロータスはその場にしゃがみ込んだ。体の震えが止められなかったのだ。哀咽がガレージに響き、雨音と混じり合った。
横たわったオルティは、労うようにロータスの名を呼んだ。
がらがらとガレージのシャッターが上がる。身構える社員たちの前に現れたのは、狙撃手を担いで戻ったエヴァグリーンだった。
オルティは薄目を開けてそれを視認する。その唇が、まるで「よくやった」と言うかのように微かに笑んだ。かと思うと、オルティは目を閉じて、その首は力無く項垂れた。
社員たちは慌ててオルティに駆け寄ったが、何のことはない。彼は激痛と失血で気を失っただけだった。
雨はまだ降り止まない。
外の血糊をよく洗ってくれるだろうと、エヴァグリーンは思った。
(続く)