#4 カムアウト・アンド・プレイ・ウィズ・ボディーズ

ナダレはその古ぼけた建物の前に立っていた。申し訳程度に診療所の表札を出してはいるが、(すす)けて黒くなった外観、ゴミだらけの前庭、ほんのりと風に乗って(かお)ってくる鼻を覆いたくなる臭いは到底、診療所のそれではない。何も知らずに眺めていれば、ゴミ屋敷の廃墟だとしか思わないだろう。
ナダレはしばし目を閉じて気を高め、ようやく、意を決してドアを開けた。途端にワッと勢いよく、(ハエ)の群れが飛び出していく。鼻をつく悪臭は甘腐ったチーズのようで、独特なホルマリンのきつい匂いと混じり合っている。吐き気を(こら)えながら呼びかける。

「ヘーゼル!いるか!!」

すると、ゴミの山の向こうから返事とは思えない(うめ)き声が返ってくる。ナダレは心を決めて足を踏み入れようとしたが、すぐに(きびす)を返して外のゴミの隅に思い切り嘔吐した。
臭いが目にまで突き刺さってくる。頭を抱えた。勝手に涙が出た。何とかもう一度覚悟を決めて、部屋の入り口に頭を突っ込む。

「ヘーゼル! お前が出てこい!!!」

返事はない。分かりきったことだった。
じきに鼻が壊れてマシになることを祈りながら、恐る恐る足を踏み入れる。そこら中で多種多様な虫たちがビュッフェを開催している。幸せそうにふくふくと太りまくっている彼らを容赦なく蹴散(けち)らして、部屋の主を探す。
ヘーゼルはそのどこからが何の機能を持ったエリアなのかも分からなくなった部屋で、ごろりと横になっていた。痛烈なホルマリンの臭いが鼻にとどめを刺した。ナダレを見たヘーゼルは心底面倒臭そうに目を閉じた。手元に(しな)びたネズミの死骸が握られていた。天然パーマの長い髪は複雑に絡み合い、脂ぎっている。もう何日も風呂に入っていないのだろう。服もすっかり真っ黒になっている。あたりに乱立しているペットボトルの中身がなんであるかは考えたくない。どうかホルマリンであれ。

「おい、起きろヘーゼリッヒ!」

その木漏れ日のような名前の男は、超()級の怠惰者(スロウス)であった。

「なんだよナダレか……死んで出直せよ……」
「おい、せめて起き上がって喋れ」

ヘーゼルは渋々、嫌々、泣く泣く。たっぷりと時間をかけてそれはもうゆっくりと目を開けた。

「良いところだったんだ……彼女とそれはもう楽しんだ……」
「聞きたくない!」

ヘーゼルは手に握ったネズミの死骸をうっとりと眺めている。彼は怠惰(たいだ)であると同時に、死体に興奮するタイプの変態でもある。それでいて医者としては優秀で、とにかく切断がうまかった。治療はともかく、到底口に出せない用途でヘーゼルを頼るような連中も少なくない。そういう連中の誰かひとりでもヘーゼルを飼えばいい。この地獄に毎回尋ねてくるよりはマシなはずだ。事実、ナダレが外にぶち撒けた時、そこには新旧織り交ぜた嘔吐の(あと)がいくつも残っていた。

ヘーゼルはたっぷりと欠伸をした。彼の口内は腐った臭いがしていて、歯も数本しか残っていない。そのうち歯槽膿漏(シソーノーロー)で死ぬに違いない。ナダレはそれに関しては、不思議と同情が湧かなかった。ヘーゼルが頼ってくれば治療の手立ても考えるだろう。だが、そうしない以上は。ヘーゼルとはナダレのただの友人であり、患者ではないのだ。

「君の手に負えない患者なら、私には何ともならん……」
「そうじゃない。お前のところに、羽の生えた患者とか死体、回ってこなかったか?」
「そんな素敵なものがあったら今こうして君と駄弁ってはいないぞ」
「生きた患者もか?」
「見ていないね。私のところに継続治療を求めてくる奴はいないよ。」

それもそうだ。こんなところに通うぐらいなら潔く死ぬだろう。オルティとか多分そう。
ノエルが探していたものが、他の医者に回っているかもと思ったのだが。どうやらアテが外れたらしい。しかしヘーゼルは意外な腹筋の強さを発揮して、勢いよく起き上がってきた。

「まさか、そんな死体があるのか!?」
「まだ死体と決まったわけじゃないぞ。手首から先だけ見つかったんだよ」

わくわくした子どものような目で、ヘーゼルはナダレを見る。

「生きてるとも決まってないんだろう!?」
「まぁ……そうなるな?」
「よしきた! ナダレ、死体置場(モルグ)へ行こう!」

こんなにウキウキしない誘いを受けることもないだろう。目を輝かせているヘーゼルと対照的に、ナダレはげんなりしながら頷いた。ヘーゼルはゴミ山の中から躊躇(ためら)いなく眼鏡を摘み上げる。この惨状の中でどれがどこにあるか完璧に理解している。そういう丁寧さを日常生活に発揮してほしい。今ナダレは少しだけ、ナダレの汚部屋を見て毎回(イラ)ついていたオルティの気持ちを理解できる。
せっかくノエルが綺麗にした部屋を、キープするのも悪くないかもしれない。

その死体置場は、教会の地下壕である。この国でメジャーなアルス正教においては、土葬が教義となっている。しかし、国営墓地である9区への運送費用を賄えない者も少なくはない。ましてやここはスラムである。真相はどうあれ、教会の厄介になるのは、ほとんど無縁仏であった。また、遺体の多くは『まだ使える』部分を抜き取られて、スカスカになってしまう。死因を尋ねられては困るからと、わざわざ13区へ遺体を処分しにくる者まで出る始末である。
だから、特にこの街の教会は。金さえ払ってもらえれば、どんな死体でも喜んで引き受けて埋葬した。スラム街のわりに教会が多いのはそんな狂った理由だった。そして、教会の傍に留めてあるショベルカーの用途は、あまり深く考えないほうが良かった。
地下壕(ロッカー)は広くなく、そこに空きがなくなれば、彼らは墓地のどんな区画も遠慮なく掘削した。

ホワイト嬢の領地で手首から先が見つかったのはもう1週間以上前のことである。そしてその手首はひどく腐敗していた。仮に『本体』が死体置き場にあったとしても、埋葬されてしまっている可能性が高い。だが、羽が身体中から生えている遺体なんて、もし教会の者が見れば何かしら記憶にはあるかもしれない。
ヘーゼルを見た司教は嫌な顔をした。雇われ生臭司教様とはいえ、本物の腐れ神には敵わないようだ。悪趣味な指輪を退屈そうにこねくっていた彼は、羽の生えた遺体という言葉に眉をぴくりと動かす。そして、番号を言った。ひんやりとした地下室はある程度の区画に分けられている。棚に並べるように、無造作に突っ込まれた木棺。明らかに定員オーバーだが、そんなことを気にする者はここにはいない。
ナダレはヘーゼルの部屋ともまた違った、(カビ)臭い、()えた臭気に顔を(しか)めた。

「しかし、何だ。流石だな、顔パスかよ」
「切り落とした身体の一部だって、生ゴミに出すわけにはいかんだろ。私はそれを預けに来るだけだ。死体を眺めにばかり来ているわけじゃない」

司教に言われた番号を見つけ出すと、ヘーゼルは手際良くその棺桶を棚から下ろして、検分を始めた。老若男女問わず、パーツの寡多(かた)問わず。多様な遺体が納められている冷たい棺。彼らはひどく冷めた肌で、埋められるのを待っていた。その中には顔を潰され、身元のわからないようにされたものもあった。しかし、ヘーゼルとしては特に面白みのある遺体ではないらしい。彼は原因不明の死により強く惹かれるようで、見た目にもそれとわかる扼死(やくし)死体なんかには明らかに興味を喪う。ここまで素直に好き嫌いを見せつけられると逆に配慮してやろうという気にもなってくる。
……そうして大凡(おおよそ)死臭にも慣れてきたころ。包まれた布からそれは現れた。女の死体で、首筋にぱっくりと裂けたような傷跡があった。そして、髪の生え際の分かりにくい場所ではあったが、羽が吹き出していた。首の傷はそれでついたもののようだった。ヘーゼルは目の色を変えた。

「確かにこれは羽化症とは違うな。羽毛の塊に換わるように、ごくゆっくりと死んでいくのがあの病の美しくも恐ろしい点だ。だが、これはまるで、身体の中から鳥が羽を広げたようではないか?」

ナダレは、その遺体のさらに奇妙な点に気づいた。そもそも、あの時ホワイトが持ってきたのは引きちぎれた手首だ。であるならば。

「……この遺体は両手が揃ってる。それに、あの手首とは体格が違いすぎる。腐ってはいたが、あれはもっと大柄な男の手みたいだったんだ。」

ヘーゼルはパチンと指を鳴らした。

「よし、この遺体を引き取ろうじゃないか……金を積めば何でも何とかなるのが13区の良いところだ。」

そして、彼はいやらしい笑みを浮かべた。おい、本当に調査のためなんだろうな。
どうにか司教を(なだ)めすかして、台車を借りに行っている間に。結局その遺体は二度と拝めなくなった。
ナダレとヘーゼルが戻った時には、教会は炎に巻かれていた。隣家の人間たちだけが必死で火を止めようとして、それ以外は面白い出し物でも眺めているかのように遠巻きにしていた。
何があったのか、と付近の人間に尋ねれば、彼らは興奮した様子で語った。

「例のやつさ! ほら、教会の爆破テロ!! あれがとうとうきたんだ!!」

それからそいつはヘーゼルの悪臭に気づくと、あからさまに鼻をツマんで去っていった。そのヘーゼルは特に気にするそぶりもなく、考え込んだうえで話し始める。

「……例の死体を見せない為に爆破した、なんてことはあるまいな?」
「……それって、俺たちが狙われるかも、って意味か……?」
「はははナダレ、そんなまさか。ただの死体だぞ。ただの死体……だろう? そうだよな!?」
「はは……」

煌々(こうこう)篝火(かがりび)に照らされながら、ナダレは引き(つ)った笑みを浮かべた。
生存者はひとりもなかった。地下壕の遺体はどれも真っ黒焦げに炭化して、到底検分できるような状態ではなくなっていた。火葬では様式が違うだろうから、彼らが迷いなく天国へ行けたかは分からない。生臭とはいえ、司教が供をしていることに賭けるしかなかった。

ヘーゼルと別れて帰宅した後。ノエルはナダレを見るなり嫌な顔をした。

「臭い! ドブ川で水浴びでもしてきたみたい! それになんか死体と火薬の臭いもする!! 早く洗って!!」
「入れないと洗えないんですよノエルちゃんさま」
「じゃあお水あげるから外で洗って!!」

ここ、俺の家なんですけど。と抗議する間もなく。バケツに水とタオルを突っ込まれて渡される。まだ夏の暑さが残っているとはいえ、日暮れどきは寒くなり始めていた。これで風邪でもひいた日には、たまったものではなかった。

Nadare Gezellig Noelle

(続く)