カテゴリー: KILLING ME SOFTLY

#12 ファイト・ファイア・ウィズ・ポラリス

立て続けに銃声が響く。その度にラドンはぐにゃりと形を変えて、肉片と鮮血を飛び散らせた。磁気ロックの扉の向こう。息を荒げたオルティが、片腕で短銃を構えたまま飛び込んでくる。

「てめッ……さては、盗聴してたな……。」
「当たり前だ、バカ!」

そしてオルティは、倒れたラドンを睨みつける。ラドンはあちこちに穴を開けたまま、暴れることもなく、虚な目でオルティを見上げていた。

「……憶えちゃいないだろうな、20年も昔に暴行した女の子のことなんか。これはあの子の意志だ!! お前が踏み(にじ)ったものの報いだ!!」

叩きつけるように、擦り切れた IDカードをラドンに投げつけ。オルティは再び彼に銃口を向けた。(はげ)しい憎悪と嫌悪、怒りを込めて引鉄(トリガー)を引く。

「……精々、地獄でその裁きを受けろ……!」

ラドンの脳天を弾丸で貫き、オルティは即座にエヴァグリーンの状況を探った。血が巡らずに詰まっているとわかるや否や、ジャケットを脱がせる。そして、その固まった右腕をぐっと押さえつけ、二の腕に銃口を押し当てる。

「悪い。……これしか思いつかない。」

エヴァグリーンは、黙って頷いた。
そして、銃声がもう一発響く。
腕が千切れ飛び、鮮血が吹き出す。それが、ふたりを濁々(だくだく)と濡らした。エヴァグリーンは急激に循環する血流に大きく息を吸った。オルティは安堵したように、あるいは体力の限界か、力が抜けたように座り込んだ。
——その背後で、脳天を撃たれたはずの男がゆらりと立ち上がっている。

ラドンがその鋭い爪を、オルティに向けて振るう瞬間。体の自由を取り戻したエヴァグリーンは、考える間もなく、ラドンに飛びかかっていた。
そして確信する。こいつは竜種だ。耳を短く切り、牙を削り、人に似せていたのだ。脳天を撃ち抜かれて死ぬはずがない。竜種だからだ。血の魔法がその生命を守っている。心核を貫くしかない。エヴァグリーンは弾け飛んだ右腕の代わりに、その牙を奮って男の喉笛に喰らい付いた。
いつか、首だけになってもお前を殺すと、オルティに告げたことがあった気がした。

「おまえが、おれに敵うと、本気で思っているのか!!」

ラドンは喉を裂かれ、ごぼごぼと血糊を吐きながら。曇った声で嘲笑した。事実、ラドンの身体は1ミリたりとも動いていない。エヴァグリーンでは体格が足りない。ましてや片腕を奪われ、力の源である血も、大量に失っている今。エヴァグリーンを闘わせているのは、ただその闘志だけだった。
単純な竜種同士の比べ合いならば。力が強い方が勝つのが道理だ。それでも両脚を精一杯踏み締め、懸命にラドンを食い止める。今のエヴァグリーンはひとりではない。オルティなら、必ずなんとかする。

——オルティの腕が、背後からエヴァグリーンを抱き留めた。ほとんど上がらない左腕で、柔らかく、力強く。あとひと押しを担うかのように。銃を握る左手・・に、エヴァグリーンは自身の左手を添えた。
そして、エヴァグリーンは全力を込めて、ラドンの喉を噛み砕く。銃が咆哮する。体に大穴を開けて、ラドンは蹌踉(よろ)めいた。
しかし、それは心核を外していた。
歪に曲がり、あり得ない方へ向いた頭で、ラドンはニタリと笑う。相手は片腕のない竜種と、死に体の人類種が一匹ずつ。これ以上何ができる。そう言わんばかりに、ゆらりと幽鬼の如く立つ。さぞ絶望しているであろう獲物の顔を一目見ようと、見開いた目に映ったのは。

勝利を確信し、中指を立てて笑む、エヴァグリーンの姿だった。

オルティの右手には、手投げ弾のピンだけが、ぬらりと血の色に光っている。ラドンが彼らと離れる直前、その黄金の果実は。銃弾が抉ったラドンの腹へと、置き去りにされたのだ。

手投げ弾の爆発から、オルティを庇う。当たり前のように、そうしていた。瓦礫と(ほこり)が降り注いだ。それらは、全てエヴァグリーンが受け止めた。鉄の床には大穴が空いた。
やっと、静かになった船内で。オルティは、ようやく人心地ついたように、呟く。

「……実感が、湧かない」
「俺もだ」
「……終わってくれると思ったんだ。20年……タリーの、妹の仇……でも、はは……何も変わりやしないじゃないか……!」

オルティは、泣き笑いの表情で、エヴァグリーンの腕の中にいた。
俺もだ、と繰り返す。何も終わらず、何も変わらなかった。ただ何の実感も、感慨もない。ただ竜種をひとり殺した。それだけで。
それでも、腕の中のオルティは、暖かく、生きていたから。エヴァグリーンは、深く息を吐いて。ジャケットを掴んで立ち上がる。それは散弾に裂かれ、血と埃で汚れてしまっていた。けれど、せっかくの贈り物を置いて行きたくなかった。
右腕はまだ再生が間に合っていない。片腕で、ふらついているオルティを支えて、ゆっくりと歩き出す。怪我した腕で銃を撃つなんて、無茶しやがって。けれど、その無茶のおかげで助かった。

……静かすぎる、と思った。
船内で爆発が起こったんだ。沈むほどの衝撃でなかったとはいえ、警報すら鳴らないうえに、誰も駆けつけてこない。
その答えは、デッキまで上がって明らかになった。

大扉を押し開けたところで、彼は待っていた。
エルドラド・ドゥ・ナスタヤーシャ・ヴィア・アマデウス3世。彼は優雅に微笑みながら、オルティを見つめた。

「ずいぶん長いお手洗いだったね、仔猫ちゃん?」

そして、パーティ客たちはいつの間にか銃器で武装して。エヴァグリーンとオルティに、その銃口を向けている。こいつら、全員グルだったのか。

「仔猫ちゃん、もうネズミちゃんとの追いかけっこは終わったかな。気が済んだ? 楽しかった? 俺が何も知らないって、本当にそう思ってた?」
「ッ、てめぇ…!」

食ってかかろうとするエヴァグリーンを、無数の銃口が制する。そして、誰よりもオルティ自身が。

「いい。エヴァグリーン。」

そして、エヴァグリーンの手を離れ。
オルティはふらふらと、エルドラドの方へと歩き出す。

「3世。……この艦の資金提供者は、貴方だった。そうですね」
「その通り。もうずいぶん長い間、懇意にしてる。その彼らが、竜種を連れた情報屋に探られてるって泣きついてきた。」

緊迫した空気の中、エルドラドはあくまで楽しげに語る。

「俺にとっては小遣い程度の投資だけど。玩具(オモチャ)箱を漁られるのは好きじゃない。それで詳しく調べさせた。ライドウって言うんだっけ? あのコたちもお金でよく動いてくれたよね。」

返り血と煤で汚れたオルティを、エルドラドはそっと抱き寄せる。その汚れも(いと)わずに。頬の泥を指で拭い、お気に入りの玩具を見つめるように、きらきらと愛おしげな目を向ける。

「どうして仔猫ちゃんがここまで頑張るのか、不思議だったんだよ。仇だったんだ。ありがちな、つまんない理由。でももう、全部終わったでしょ?」

すっと、エルドラドの青い目が冴える。形の良い唇が、弑逆(しいぎゃく)的な、嫌な笑みを作った。

「結局全部、俺の思い通りになった。……そっちのトカゲは死んでくれなかったけどさ……。もう、俺のモノになる時間だ。」

オルティは、答えない。バイカラーの瞳が、今にも泣き出しそうに揺れる。
有無を言わせない状況だった。オルティが何を答えようと、エルドラドはエヴァグリーンを殺すだろう。オルティにできる懇願はひとつだ。その手を取る代わりにどうか、エヴァグリーンを見逃してくれ、と。

けれど。
エヴァグリーンは察している。オルティが今、何を迫られ、何を答えようと——言わされようとしているのか。オルティが守ろうとした全てを、エルドラドは踏み(にじ)ろうとしていた。
それは、不快だと思った。嫌だと、思ってしまった。
オルティは望んでいるはずだ。どうか逃げて欲しいと。(はかり)にかけているはずだ。どうせ短い自分の命を。それが、エヴァグリーンには何よりも許せなかった。だって。

「オルティ!!」

エヴァグリーンは叫ぶ。全力でその名を呼ぶ。全員がそちらを向く。そして、空白ができる。

「——来い! 俺にはお前が必要だ!!」

その手を掴んで、駆け出す。もう、どこへ逃げれば良いかわからない。ただ、駆け出す。しっかりと、その腕の中にオルティを抱く。
オルティは少しだけ驚いた顔をして、バカ、と呟いた。

「エヴァグリーン……どうする気だ」

鉛の雨をかいくぐり、鉄の階段を駆け降りる。オルティに当たることを恐れたのか、撃方(うちかた)はエルドラドが途中で止めさせた。何十もの足音に追い立てられながら、エヴァグリーンは自分がかつて、この船を離れた時のことを思い出していた。

「俺が捨てられた時……船の下の方から、小さな穴みたいのに入れられたんだ。だから、どっかに出口があるはずだ」

オルティは少し考えて、はっとしたように顔を上げる。

「魚雷の発射口!」

そして、何本かの鉄の階段を駆け降りる最中、あれだ、とオルティが指し示したのは、薬莢に尾鰭がついたような姿の、馬鹿でかい弾丸だ。天井に開いた大穴のせいか、それは棚から外れて転がっていた。オルティはそれを見て息を飲んだ。

「旧式のインパクトタイプだ……誘爆してたら、危うくラドンと心中だったぞ……。」

そして、その瓦礫の奥のほうに、埋もれたハッチが見えた。このままでは使えそうもない。歯噛みするエヴァグリーンとオルティの頭上から、嫌味な声が降ってくる。

「仔猫ちゃん、どうして逃げるかなぁ?」

かつかつと、鉄の床に足音を響かせながら。冷たい銃口を幾重にも重ねて、エルドラドは高みから、ふたりを見下ろしていた。
オルティは心底からの軽蔑を、その男に向けた。それはエルドラドを喜ばせるだけだと知っていたが、言わずにはいられなかったのだ。

「……貴方が大嫌いだからです、3世」

エルドラドは目を細めて、オルティを見た。

「そう。でも、俺は愛してるよ。愛してる、初めて会った時からずっとだ。これからもずっとずっとずっと愛してあげるよ。愛してるよ、オルティ。本当に、心から!」

オルティは、笑っていた。何か、糸が切れたような笑いだった。けれど、その目はエルドラドの腕に抱かれていた時とは違う、ひとつも何も諦めていない目をしていた。

「エヴァグリーン、」

オルティの呼びかけに応じて、エヴァグリーンは右腕の鮮血を固める。
血でできた剛腕が、転がった魚雷の鯨のように太い胴をぐっと掴んだ。

「——やっちまえ!」

そして、全力で投擲する。それは唸りを上げ、船倉をかっ飛んだ。
厚い艦の壁を突き破り、魚雷は船外で爆音を(とどろ)かせた。艦は大きく(かし)ぎ、海水が勢いよく流れ込む。濁流が何もかもを押し流す。エルドラドの黄金色のジャケットが、流れの中に浮かんで消えた。

「ははッ! 見たかよ!! 最っっ高!!」

オルティは爽快な、はしゃぐような歓声をあげた。

(続く)

#13 キャリオン・シャイニー・デイズ

(かし)いでいく艦の中で、エヴァグリーンはオルティを背に負った。手近にあった帆布を裂き、ロープにして、しっかりとオルティを自分に括り付ける。艦内をデッキ目指して駆け上る。その間にも船はゆっくりと傾き続け、エヴァグリーンは剥き出しの鉄骨を雲梯(うんてい)のように掴んでは、道ならぬ道を進まねばならなかった。
デッキへ出るドアは船体の歪みで開かず、仕方なく、船室の窓をぶち抜いて外へ出た。冬の冷たい潮風が吹きつける。
オルティは寒さから逃れるように、ぎゅっとエヴァグリーンにしがみ付いた。小さな背中が、赫々(かくかく)と熱を持っている。エヴァグリーンの心核は、限界まで力を使おうとして加熱していた。それが今、オルティの生命を守る灯火となっている。

イーデンは元々、ただの客船だ。浸水を止める優れた隔壁などは持ち合わせていない。ましてや、今はそれを操作する者も。そのため、その大きさに反して沈む速度が早い。とても救命艇を探すような暇はなかった。さらには、どこかで漏れた重油に火が入ったのか。黒々とした海面にはところどころ、オレンジ色の炎の帯が揺らめいている。

「なるべく遠くに飛び込め。船が沈む時の渦に巻き込まれる。」

オルティはまた無茶を言ったが、エヴァグリーンならそれができると信じているようだった。エヴァグリーンは遠くの、火の回っていない海面を見つめる。冷たい水の中でオルティがどれぐらい持つのかわからない。泳ぐのはなるべく短い方がいい。

いつまで待たせる気だ、とエヴァグリーンは胸中で焦燥(しょうそう)を募らせていた。
——その目に、鮮烈な漁火が映る。少し離れた海上に、漁船が一艘浮かんでいる。エヴァグリーンはそちらの方へ向かって、精いっぱいに飛び込んだ。

氷のような冬の海が牙を剥く。まともに泳いだ経験なんか、エヴァグリーンには一度もない。真っ黒いうねりの中で、とにかく海面を目指して、がむしゃらに強く水を蹴る。
絶対に死なせない。
背にしたオルティの命を、絶対に持って行かせはしない。その一心で。

眩しい漁火が、海面に出たエヴァグリーンの眼を焼いた。ディーゼル音が海面を断ち割っている。忙しなく海面を照らしながら、漁船の上から大きな声が響いていた。

「おーーーい! オルティさーーーーーん!!」

ロータスだ。
エヴァグリーンは、それを目指して泳いだ。大丈夫だ。しっかりと背負ったオルティは、ちゃんとここにいる。微かながら、拍動が伝ってくる。どうしようもなく、笑みがこぼれそうだった。

「ロータスさん、エンジン音よりうるさいですう…」
「そんな場合じゃないだろ!! お前も呼べ! アルシァラだってサーチライトやってんだぞ!!」

口々に、彼らはオルティの名を呼んだ。
それから。

「エヴァーーーー! 生きてんなら声出せーーーー!!!」

彼らは同じように、エヴァグリーンを呼んだ。エヴァグリーンが返事をしようとしたそのとき、ゆっくりと、大きなものが包み込む。

「見つけたぁ〜!!」

それは、海にぬぼっと立つ、巨大な怪物のようにも見えた。シェイプシフター。黒い波のようなサダルメリクが、彼らを優しく(すく)い上げ、抱き上げている。
そっと船上に降ろされ、ぐしゃぐしゃに濡れたスリーピースをふたり揃って脱がされながら。オルティは訳がわからないという顔をしていた。

「……なんで、お前たちがいるんだ?」

タオルで何重にもオルティを巻きながら、ロータスは歯を見せて笑った。

「エヴァに頼まれたんですよ。迎えの準備しとけって」
「エヴァグリーンが……!?」
「俺はただ、ちょっと海まで出かけるってこいつらに言っただけだぜ。」

絶対にそんなレベルの話ではない。小さな漁船は、定員オーバーではと思うほど人数を詰め込んでいた。万が一、あのままオルティがエルドラドに攫われていたとしても、そのまま取り返しに行けそうなほどの人手だ。
目を白黒させているオルティから、エヴァグリーンは顔を背けた。面と向かって言うには恥ずかしかったのだ。

「プレゼント……お前には貰ってばっかりだっただろ。だからってワケじゃ、ねーけど。……お前がちゃんと帰れねーのは、俺は嫌だ」

それを聞いてロータスは、ふっと柔らかく笑んだ。

「ほんと、よく帰ってきてくれましたね、オルティさん。エヴァも、よく連れて帰ってくれた。」

まいったな、とオルティが呟く。被せられた毛布に、頭から包まる。小刻みに震えているそれを、誰ひとり暴こうとはしなかった。

港まで戻った彼らは、その足で商会まで向かった。ささやかながら、受付嬢のリズが聖誕祭のケータリングを手配していたのだ。オルティはずっとシャワーを浴びたがっていた。体の芯まで凍えて、服は潮でべたついている。ロータスがバスルームに湯を張りにいっている間、オルティは執務室で、慣れない手つきでケトルに水を入れていた。

「最後の最後に、お前にはしてやられたな。……本当に驚いた。」
「俺は何にもしてねえ。やったのはあいつらだ」
「それでも、あいつらを動かしたのはお前だ。それだけお前は、皆に信用を置かれるようになったってことさ。」

オルティは深く溜息をついて、エヴァグリーンに笑顔を見せた。疲れ切った顔をしているが、その表情は晴れやかで、肩の荷が降りたようだった。

「本当に、お前に会えて……お前が商会に加わってくれて、良かった。こんなことは、少しも予想してなかったが……そうなればいいなと、ずっと思っていたんだ。」

ケトルに湯が沸き、オルティは不器用ながらインスタントコーヒーを淹れた。遅いディナーの前に、ふたりきりでの祝杯だった。
けれどそれは、お世辞にも美味いとは言えないものだった。

「うへえ、泥水の方がいくらかマシだ」

エヴァグリーンは顔を顰める。オルティも、少し舐めただけでむっとした顔をする。人生でいちばん、酷い味のコーヒーだ。互いに顔を見合わせて笑う。胸が暖かいのは、コーヒーの温かさだけではない。だからそれは間違いなく、最高の一杯だった。

聖誕祭の後のホリデーが過ぎ、新年を迎えて。
まだ誰も彼も休暇中の、静かな事務所で。

オルティ・クラヴィアドは全てを片付け終えた。仕事も引き継ぎ、事務所を整理し、ロータスへの言付けを残した。きっと彼らならうまくやれると信じる。そして、もうこの商会に、擦り切れた病人は必要がない。
それは、冷酷な決断だと誰もが非難するかもしれない。けれど、必要なことだとオルティは信じている。
ここは、家族のように暖かくて、居心地がいい。けれど、それではいけなかった。——ただ、健全ではないからだ。仕事は仕事で、私事とは分けるべきだとオルティは思う。だからこの血のように濃い絆は、断ち切らねばならないと。それでも商会は回っていくと、オルティは信じている。

そっと事務所の鍵を閉めて、手荷物だけを持って出る。いまやそれが、オルティの全財産だ。数枚の着替えと、いくらかのキャッシュ、私用のデバイス。
たったそれだけ。
長きに(わた)り、このアルスのアンダーグラウンドで。縄張りを守り続けた男の手持ちとしては、あまりにも(わび)しい。
事務所の裏手から、音もなく出る。
そこに、そいつは待っていた。

「どこ行く気だ、お前」

エヴァグリーンが、バイクを停めていた。

「……なんで居る?」
「別に。新年早々、辛気くせえオッサンのツラでも拝もうかと思ってよ。」

嘘だ。
全部終わったら、オルティは消える気だと、なんとなく理解していたからだ。エヴァグリーンはここしばらくの間、毎日、事務所の様子を見にきていた。オルティにもそれと気付かせずに。

「乗れよ。送るから」
「……着いてくるつもりなのか?」

オルティは隠れ家を変える気だ。もちろん、エヴァグリーンにはそれが分かっている。きっとここで断っても、探し当てるまで着いてくるに決まっている。
——この孤独な竜種の青年を、そうさせたのはオルティ自身だ。

だから、断ることができなかったのだろうか。

クローバー貿易商会は、なんとかやっている。
始めは大混乱だった。失望もあった。オルティがどんな状態だろうが、彼らがオルティを見捨てる事などない。しかしその感傷をこそ、オルティは嫌ったのだと分からぬでもない。
オルティの隠居と病のことは伏せるように、特に外には伏せろと、ロータスは強く指示されていた。それは、ライドウ一門やその他の敵対組織を抑えるためだ。四ツ葉の魔法使いはどこかで生き続けている。そのほうが、きっと彼らへの牽制になるから。最後まで何もかもを無駄にしない、合理性の塊のような生であった。
それでも時々、事務所には手紙が届いた。相変わらず、それぞれのことをよく見ている手紙。それは、窓辺にそっと置かれていく。そんな芸当ができる奴はひとりしかおらず、そして、オルティとともに姿を消していた。
きっと、その手紙も。見守るだけで充分だと言うオルティに、エヴァグリーンが書かせているのだろう。そんな筆致だった。
合理に徹しようとするオルティの頑なさを、竜の炎は確かに溶かしたのだ。それがロータスには少し悔しくもあり、嬉しくもあった。

「お前、さ。長生きしろよ」

オルティは都度、そう言った。エヴァグリーンは鼻で笑う。元々、主人に(じゅん)じるような殊勝さなど持ち合わせてはいない。
けれど、竜種の契約とは、相応に重い意味を持つ。単なる約束では済まない。当たり前のように自分の命を盾にするところを、オルティもまたエヴァグリーンの中に見出していた。
それはきっと、竜種が本能的に抱えている危うさなのだ。そして竜種は、そのことに無自覚に、ただ居場所を与えてくれる相手に懐く。……あのラドンでさえ、あの船を拠り所として離れなかったのだから。
だから、オルティは何度も口にした。長生きしろよ、と。それがエヴァグリーンの血肉となるまで、何度もそう言った。

東国料理の、スパイスと油の匂いがする。
小さな料理店の上。錆びた鉄階段の先にある、小さな部屋。
訪問看護師の彼女は、恐る恐る階段を登っていた。足を踏み出す度に階段が大きく軋むのだ。ゆっくりと、一歩一歩。重い鞄を抱えて登る。春先の強い風が階段を揺らすのも勘弁してほしい。
同じく鉄錆びたドアの前でブザーを鳴らすと、若く、愛想のない竜種に出迎えられる。彼は患者の付き人だ。親子のように歳が離れていたが、無論、親子ではない。患者は人類種である。

彼は羽化症(うかしょう)で、その終末期にあった。
体の至る所から、ささくれのように羽芽が吹き出し始めている。この段階の羽化症には、もはや何の治療の手立てもない。ただ痛み止めだけが処方される。全てを手放して、穏やかに眠れるように。
起き上がることもままならなくなりつつある彼の身体を清拭(せいしき)し、姿勢を変える。彼の左肩には、新しい弾傷があった。隠れ住むようなこの部屋といい、カタギの人間ではないのだろう。それでも患者は患者だ。体調が良さそうな日は、窓辺に運んで外を見せて、雑談をした。料理店から上がってくる独特の匂いはともかく、春風は心地よく、彼の白金色の髪を揺らしていた。下弦を花蜜に浸したような、湖水のような色をしたバイカラーの瞳が、遠い青空に目を細める。彼の体から外れた羽が、ふわりと風に舞って行った。

「コーヒー、淹れたけど。あんたも飲むか」

竜種の青年がそう呼びかけてくる。ありがたく頂戴する。
それは患者が口に含むためだけに淹れられるもので、彼の分はミルクと砂糖で、甘く味付けがされていた。刺激物のうえに不健康なほどの糖分だったが、そんな事は今の彼の病状に何の意味も与えない。それに、そのほとんどは患者に飲み干されることもない。いつも最後には、竜種の青年が喉へ流し込んで片付けていた。

「煙草が吸いたい」

時折、患者はそうねだる。竜種の青年は肩をすくめる。看護師も止めはしない。青年がガラムに火をつけて、枕元で吸うだけだ。ぱちぱちと火花の散る音が耳に心地よい。甘い香りの煙が染み込んだら、また、患者は緩やかに眼を閉じる——。

——夜闇にぼうっと照る、自動販売機の前で。
エヴァグリーンは舌打ちした。持ち合わせの小銭が足りなかった。仕方なく、コーヒー缶のボタンを押した。もうじきに春も過ぎるのに、暖かいコーヒーしか置いていない奴があるか。

仕事の待ち合わせには充分間に合うが、ロータスは早めに来いと言っていた気がした。急いでやるか、とコーヒーの缶を傾ける。それは竜種にとっては何のことない温度だ。一気に飲み干した。

相変わらず、泥水のような味がする。

けれど、それは少しだけ甘く、そして、エヴァグリーンの胸の中で灯る。それはオルティの眼差しのように。あの、星明かりの瞳のように。
いつまでも暖かく、エヴァグリーンを導き続ける光のように。

空になった缶を屑籠に放る。
エヴァグリーンはバイクに跨ると、星明かりの夜の中へと走り出した。

(完結)

#1 ロック・ドクター・フィール・ライク・エンジェル

シノノメ・ナダレというその男は死にかけている。

病気でもない。怪我ひとつしていない。けれど頭は重症だった。ドラッグとアルコールに蕩けた頭でぐったりと横になる。食べカスや空き瓶や脱ぎ散らかした衣類がドカ盛りに盛られた部屋の真ん中で。投げ出された小さなラジオからは、海賊放送が鳴り響く。誰にも許可を取っていない電波で、誰にも許可を取っていないロックの名曲を垂れ流す。それがナダレのふわふわとした、和毛(にこげ)に包まれた耳をズコズコに揺らしていた。
ここはアルス13区。無法者だけが暮らす(スラム)だ。ナダレはそこで闇医者として開業していて、今はトリップの中にいた。

——不意に、コンコンと、ノックの音がした。
何時間を無為に寝過ごしたのか。微睡(まどろみ)からゆるやかに意識が覚醒する。ナダレはこの瞬間がいつだって、好きではなかった。栗色(チェスナット)のモップのようになった長髪を、がしがしと掻いて起き上がる。

まだ夏が過ぎたばかりだというのに、冬物のコートを羽織る。ドラッグに浸された彼の頭は、いつだって真冬の雪原に放り出されたような、ひどい寒気を感じるようになっていた。
ドアへ向かう前に一発吐いた。トイレへ寄れたのはまだ調子のいい証だ。ダメな時はその辺へぶち撒ける。鏡で見た顔色はひどいもので、目の下の隈も皺も、もう一生取れそうにない。不精髭を剃るような気にはなれなかった。口を濯ぐだけにして、そして這々(ほうほう)の体でドアを開ける。数少ない患者(カネづる)かもしれないから、いくら離脱症状が酷かろうが無碍(むげ)にはできない。

「ラブホは(はす)向かいだよ……」

言葉が途中で止まったのは、ドアを叩いていたのが浮かれたスラム探検隊、怖いもの知らずのクソガキカップルではなかったからだ。凛と立つ彼女は、13区にはひどく不釣り合いに見えた。珍しいこともあるものだと、ナダレは目を丸くする。
ホワイト・スプラウスという名の彼女は、ナダレの昔からの知り合いだった。名門軍閥貴族の家長である彼女が、執事ひとりを伴ってそこに立っていた。

「先生。お久しぶりです」

ホワイトはいまだに、ナダレを先生と呼ぶ。
ナダレは以前、スプラウスの家長が彼女の父親・スノウであった頃に、スプラウス家に間借りしていた。スノウの主治医として働きながら、ホワイトの勉強を見てやったこともあった。しかし、スノウの心臓はナダレにはどうすることもできなかった。
失意の中、屋敷から引き払ったナダレは、13区に身を寄せた。そして、家長を継いだホワイトは、時折こうしてナダレを訪ねるようになった。こんな街に来るのはやめてほしいと頼んだら、迎えだけを寄越(よこ)されて外で会食することになった。
だから、本人がここまでやって来るのは、本当に久しぶりだった。

「今日はちょっと、見てもらいたいものがあって……それでこちらへ。いけませんでしたか?」

彼女は優雅な所作を崩さない。首を傾げれば、緑みがかったクセのない、長い金の糸がさらさらと流れた。慈愛に満ちた眼差しは、しかし厳しさも兼ね備えて、宝石のように赤く光っていた。白磁のような肌はほのかに色づく化粧を施されて、甘い香りがした。パンツスタイルのスーツがよく似合っていた。ナダレは躊躇(ためら)いながら、ホワイトを彼の家、もとい診療所へと上げた。
比較的ましな一角へ、比較的ましな椅子を引っ張って、そこへホワイトを座らせる。ホワイトは控えている執事、スコッティを呼びつけると、持ち込んだトランクケースを開けさせた。

「これは我が領内で見つかったものです。……どう思われますか、先生」

それは人間の手だった。

手首より少し長く、引きちぎる様に切り落とされていた。ぐずぐずに腐り果て、至る所がぼろぼろに裂けている。最も奇妙なことは、その裂け目から羽のようなものがいくつも、まるで花芽のように突き出していることだった。
奇怪な異物が悪臭を放つ。ナダレは思わずその場で、吐き残した分をぶち撒けてしまうところだった。ホワイトは涼しい顔で、嘔吐(えず)くナダレを眺めている。本当に吐き戻してしまっても、彼女は少しも気にせず、ナダレを労ったに違いない。

「どうって……そうだな……。」

ナダレはもう一度、その羽の生えた手首をまじまじと見た。
皮膚から羽が生える、という症例はある。羽化症という名の死病だ。だが、あの病で生えてくる羽はゆっくりと成長する。髪の毛や爪のようなもので、勢いよく飛び出すものではない。だから、もしも羽化症だとするならば、こんな風に皮膚をぼろぼろに引き裂いて現れるはずがない。この奇妙な手首の場合はまるで、幾重もの羽が、皮膚の中から一斉に噴出したように見えた。
ナダレは爪を噛みながら、そう伝えた。ホワイトは深々と頷いた。

「見てわかるのはそれぐらいだ。全身見たり、解剖すればもっとわかることがあるかもしれないが……。」

現状のところ、それ以上、何も言えることはなかった。

「力になれなくてすまない。」
「そんな顔をなさらないで、先生。充分ですよ。」

項垂れたナダレを、ホワイトは優しく励ます。本当に、よく出来た人だとナダレは苦笑した。そして、ふと疑問が浮かぶ。

「……何でわざわざ()せに来たんだ?」
「私の知る限り、先生は一番の名医だからですよ。」

(いぶか)しむナダレに、ホワイトは微笑んだ。
ホワイトは、いつでもそう言った。ホワイトは本当に優しく、立派な人に成長していた。
その、彼女の口癖のようになってしまった賛辞を聞くたび、ナダレは心臓が引き絞られるように感じた。彼女の父親を救えなかったのはナダレだ。なのに、ホワイトは一度も恨み言を言わなかった。いっそ(なじ)って、怒りと失望を向けられた方が、どれほど楽だったことか。
けれども、それはホワイトが「優しくて立派な人だから」で全てカタがつく問題だった。

彼女は、来た時と同じように颯爽(さっそう)と立ち去っていった。たかが手首の観察に、割に合わない莫大な謝礼を置いて。ナダレはそれを受け取って、いつものようにただ、金庫に突っ込んだ。
ホワイトからの金を、ドラッグに換えたことは一度もなかった。
そして、自分の価値を信じられたことなど。
ナダレには、一度もなかった。

眠るための酒を腹に入れて、そっとカウチに丸くなる。
次の朝が来なければ良いと、何度も念じながら。

翌朝。まだ朝の早い時間。無慈悲にも登った太陽に灼かれながら。
目を覚ましたナダレは、何の食べ物も家の中に無いことに気がついた。仕方なく外へ出る。コンビニなら、この時間でも開いているはずだ。いつものように、冬物のコートを羽織る。
外の空気は静かだ。残暑が厳しいとはいえ、朝の気温はどうやらずいぶんとマシになったらしい。ナダレにはその変化は、もはや感じ取れない。それでも、猛暑に(しお)れていた草花は随分と元気を取り戻した様に思う。

——ふと、誰かがナダレを呼んだ気がした。
気のせいか、と思いながらも振り返ろうとした背に、強烈な一撃が突き抜けた。あまりの衝撃に息が継げない。何かが乗っている。鋭く突き刺さる何か。視界の端で捉えたのは、高いピンヒール、編み上げのブーツ。覗く足は細く、膝は丸く愛らしい。

「あれ…? おかしーな……?」

鈴を転がすような、可憐な声がした。途端に脇腹に痛みが走る。転がされて仰向けにされたのだ、と理解した時には、そいつの顔が目の前に迫っていた。
燐光を帯びた蛇のような瞳が、ナダレをじっと見つめている。

——竜種(ドラゴン)

竜種は、姿形は人に似ているが、人ではない。
その少女のような見た目をした人でなしの獣は、ぐっとナダレの襟首を掴んだ。

「……お医者さん? もしかして全然関係ないヒト? でも臭いがする……どういうこと?」

ナダレの匂いを嗅ぎながら、竜種は独り言のように呟く。唇を動かすたびに、その隙間から物騒な牙が(こぼ)れた。

「んー、よし、面倒だ。殺そう。」

……竜種は人ではない。
その倫理観すらも人とはそぐわない。彼らの世界は強者生存である。そして、この国ではおよそ人権と呼べるものを保障されていない。竜種が生きる術はほとんど、闇の世界にしか存在しない。生きて意思を持った爆弾。それが竜種というものだ。
だから、彼らはやると言えばやる。ナダレの命は今、俎上(そじょう)で品定めをされている。
この竜が、何を言っているのかわからない。言葉は分かるのに理解ができない。否、理解させられている。自分の一生はここで終わりだと。本能が痛烈に訴える。勝手に涙が(あふ)れて来る。ナダレは必死に頭を巡らせた。何か言わなければ。でなければ本当に殺される。何か、何か——!!

「——ぅおねがいしますっっ! 何でもするから殺さないでくださぁい!!」

世界で一番情けないタイプの命乞いが、つい口から飛び出していた。
心底から自分自身に失望した。終わった。カスの人生。くだらない。恥ずかしい。穴があったら入りたい。むしろ逆に。早く殺して埋葬してくれ。そんな自罰的な走馬灯が駆け抜ける中、ナダレは自分を襲うはずの痛みがいつまでも降って来ないと気がついた。
……いつまでも、殺されなかった。

恐る恐る目を開けると、竜種は物騒な瞳をきらきらと輝かせながら、ナダレを見ていた。

「すごい! 初めて見た!! 本当に本物の命乞いだあ!! ねえ! おじさん本当になんでもする? じゃあボクの家畜になる!?」

かちく?
言われたことの意味が飲み込めなかった。かちく……家畜か。ペット、みたいなことだろうか? SM? 女王様的な? ナダレがぽかんとしていると、竜種はすんと唇を尖らせる。

「え、死ぬ?」
「やらせてください何でもします」

即答。

「やった! 決まり!!」

訳がわからない。まだ幼いその竜は、男とも女ともつかない不思議な見た目をしていた。若草色のやわらかな髪。毒々しいほどの金色の瞳。可愛らしく悪戯っぽい猫のようでありながら、どこか凶暴な虎のような顔立ち。そして、竜種の特徴である長い耳は、短く切り落とされていた。

「ボクはノエル! お前のご主人様になった!」

楽しそうに白い頬を染めながら。
ノエルはナダレの上から退いた。くるりと回ると、長いスカートのようなコートがひらりと揺れる。よくよく見れば、何かの制服のような出立ちだった。
ナダレはゆっくりと身を起こす。ここで逃げ出したところで、竜種なら造作もなくナダレを殺せる。
ひとまず、家畜に徹しよう。……家畜ってどうすればいいんだ? 草とか食めば良いのだろうか?

「あの……ノエル、様?」
「ノエルちゃん、とか、可愛く呼んでいいよ」
「ノエルちゃんさま……家畜って、何すれば……??」

愛想笑いを浮かべながら問いかけると、ノエルの瞳がすっと冷えた。口元は笑っているが、ギラギラとした金の瞳は笑っていない。そんなことも分からないのか、と言わんばかりの顔。
慌てて訂正する。

「あっ大丈夫です自分で考えますそりゃもう靴とか舐めます徹底的に舐めます」
「はい、偉いねえ!」

ノエルはにっこりと笑んで、ナダレに手を伸ばした。よしよしと頭を撫でられる。これは家畜というか……犬的なあれでは?
やっていけるのか? こんなので……。

Nadare Noelle

(続く)

#2 アイワナビー・ユア・クリーピィ・ドッグ

「——あのなあ! 俺は真面目に話してるんだ!!」

ナダレはふわふわのフレンチトーストを口に放り込みながらそう喚いた。ナダレの向かいに座った男どもときたら、話を聞くなりこれだ。

「お前、またシャブキメてんのか? ほどほどにしろよ?」
「君ね……さすがにいきなり家畜はないよ。」

昼間っから、人をなんだと思っているのか。
方や、この国のトヲラス人コミュニティの一翼を担うマフィア、クローバー貿易商会の会長オルティ・クラヴィアド。白金色の髪が薄暗い照明にふわりと(まぶ)しい。褐色の肌に淡い髪色、それを黒のスリーピースに包んで、紳士然として足を組んでいる。革靴は先端に加工ではない本物の焼色(バーニッシュ)が入っていて、いかにも高価そうだ。店に入って外したフェドラ・ハットとサングラスもどこぞのブランド品だろう。
方や、この国の警察・国防組織である国軍警察の大佐ダレン・ヴァン・レリーチェ。彼は非番の今日、制服を脱いでいた。赤毛に似合う落ち着いた色味のポロシャツは、ブランドのロゴが入っている。そこにシンプルなスラックスと、凝ったウイングチップの組み合わせ。出来る男の身なりであった。
そして、よれたシャツと薄汚れた白衣のナダレを合わせて。彼ら3人は、かつての学友である。今もこうして杯を酌み交わす仲だが、とはいえ昼日中であるので、今日は3人ともノンアルコールである。
ナダレは抗議の声を上げる。

「今日はまだキメてねえよ!」
「まだ、って。威張ることじゃないよ。」

ダレンはばっさりと、ナダレを切り捨てた。
薄暗い店内は彼ら3人だけだ。静かなロックミュージックがジュークボックスから流れている。
この店は商会の傘下にある。こうした密談にはもってこいだ。店主はドリンクを出した後、気を遣ってか店の奥に引っ込んでいた。
グラスを傾けて、それからダレンは、不精髭のひとつもない、白く細い顎を撫でた。年齢の割に、ダレンはいつまでも少年のような面立ちをしている。それでいて国軍きっての知将である。

「ホワイト嬢とは僕も親しいけれど。手首のことは今、君から聞いたばかりだ。」

ホワイトの家、スプラウス家は、この国の由緒ある軍閥貴族である。家長に将軍相当の地位を与えられ、将軍家と呼ばれる家のひとつだ。そのため、ダレンとは仕事上での付き合いがあった。

「ナダレ。今回のことばかりじゃない。君は一度、まともな治療を受けるべきだ。オルティから聞いた時、僕は国家権力で君を守ろうかと思ったぐらいだよ。」

ダレンは、(まなじり)の下がった目でぎゅっとナダレを睨む。ナダレが(ひる)みそうになったところへ、アイスコーヒーに甘ったるいシロップをぶち込んだカフェオレを飲みながら、オルティが話を遮る。

「ま、薬の件は一旦保留だ。竜種のことは、俺とダレンで少し調べた。……竜種ってのは、知っての通り、この国ではトヲラス人並みに危うい立場だ。」

このアルスという国は、かつてトヲラスと戦争をした。
竜種は、トヲラスとの戦争の終末期において、兵器として前線に投入されていた。その戦果は凄まじいものであった。人を超えたほとんど無尽蔵の体力。銃器さえ必要としない単純な破壊力。心核を壊されなければ止まらない生命力。それはまさに怪物であった。……ナダレは当時、軍医として。ダレンは兵士として。その(すさ)まじさを目の当たりにしている。そして、トヲラス人であるオルティは、竜種の恐ろしさを、自らの血族の痛みとして抱えていた。

「投入された竜種のほとんどは、戦争犯罪者とされた。そればかりか、竜種という種族そのものが、『危険種族』とされ排斥されたんだ。この国で竜種は、まともになんか生きられない。」

オルティは、深くため息を吐く。美しい湖水のような色の瞳が、憐れむように揺れた。

「仕事も生活も、表の社会にはない。彼らは切り落とされた尾だ。今ものたうち回っている。……竜種はトカゲの赤ん坊とは、よく言ったものだな。」
「それは一般的な竜種の話だ、俺が知りたいのはそうじゃない」

フォークを噛むナダレに、オルティはフン、と鼻で返事をした。

「分かってる、これはただの前提の話だ。」

カフェオレを飲み干して、オルティはグラスを置いた。氷が冴々(さえざえ)した音を立てて、グラスの中で転がった。オルティはにやりと唇の端を吊り上げる。

「つまり、まともな竜種ならダレンが知らないはずないのさ。そうでないものは、俺の領分だ。」

思わずナダレは、フォークを取り落とした。

「何か分かったのか!? この短期間で!?」

ナダレがオルティに相談したのはほんの3日前、ノエルと出会った日のことだ。彼のご主人様となった幼い竜種のことを、ナダレはどうしても知りたかった。そこで、この国のアンダーグラウンドきっての情報筋である、親友に頼んだのだった。
オルティはぴっと指を立てて、ナダレにウインクして見せた。

「情報屋舐めんなよ、ナダレくんよぉ……!」

それからオルティは、一冊のスクラップブックをナダレに手渡した。それでその日はお開きになった。
別れる前、ダレンはナダレにそっと耳打ちする。

「近頃物騒だからね……君は教会なんか、縁がないだろうが……。気をつけてくれ。」

そういえば、教会を狙った爆破テロが横行してるとかいう事件が、あった気がした。

「お家で見てネ♡」とマーカーで書かれたテープで、スクラップブックは封印されていた。調べの速さといい、マフィアの会長職というのは案外暇なのかもしれない。言いつけ通り家に戻ってから開けると、その中はしっかりと記事が整理されて、ぴしりと列になって並んでいた。……やっぱりアイツ暇なのかもしれない。
貼り付けられた記事の多くは新聞やオカルト誌からのコピーのようだ。そのひとつひとつにオルティの丁寧な筆記で、出典と雑感を示すコメントが添えられている。オルティのこうした細やかさが、ナダレは嫌いではなかった。

その中の一葉に目が留まる。粗い写真で、どうやって入手したのか、監視カメラの切り抜きのようだった。その翻る制服のような衣装に、見覚えがあった。

——数日前の、あの日、あの後。

「ナダレさんて、医者でしょ? とりあえず聞きたいことがあるんだけど。羽が生えた患者とか、見たことない?」

羽! そうだ、ホワイトが持ち込んだ羽の生えた手首!!
ナダレは爪を噛む。あれを知っていると言っていいものか、判断に迷っていた。秘密にする必要はないと言われたものの、話すことでホワイトの不利益になることが怖かった。それだけは破れない。ナダレはもう二度と、ホワイトを裏切りたくはなかった。自分が酒や薬に溺れていることを棚に上げて、いまだに『いい先生』でいようとしていた。
ノエルはすっと目を細めて、ナダレを見やる。気配すら見逃さないとでも言うかのように。

「やっぱり。知ってるんだ?」
「いや……羽化症(うかしょう)とは違う症状を見たことがあるってぐらいで……」

ごにょごにょと話すナダレに、ノエルはぐっと顔を近づけた。

「家畜の自覚が足りないらしいね。」

ノエルの鋭い牙が、がぱりと剥かれたかと思うと。ナダレは焼けるような痛みを、耳に感じていた。
ナダレの耳は、ふわふわの毛に覆われている。鹿狼(かろう)族、と呼ばれる血筋であるナダレは、その耳がまるで獣のようにふさふさとしていた。鹿狼族はこのように、体の一部に獣のような変異を生じることがある。羽化症も元は、そうした翼状の変異を産む遺伝子が狂ったものだった。
耳を押さえて(うずくま)るナダレの前で、ノエルはぺっぺ、と毛を吐き出していた。

「うえぇ、毛っぽいっ!!」

ナダレの耳朶(みみたぶ)には、鋭い牙で穴が開けられていた。大した大きさの傷ではない、ただ穴が空いただけ。それでも、不意を打って付けられた傷は、痛みと恐怖を増長させる。

「いいか。次に会うときには、その下品な穴に似合うピアスをつけてあげる。家畜ってそういうの付けてるだろ。」

震えたまま見上げるナダレに、ノエルは、べっ、と赤い舌を見せた。

「お前は毎日鏡でそれを見て、ご主人様に嘘ついたことを思い出して反省しろ。……次はお腹に穴開けるからな。」

なんともゾッとしない話だ。
流石にナダレの悲鳴を聞きつけたか、路地のあちこちの窓から人が顔を出していた。何事だ、喧嘩かなと口々に、少しだけ興奮したように囁きあう。それは13区では日常的な風景だが、ノエルは苛立ったように、フードを目深に被った。

「人間の目は不躾で気持ち悪い。……それじゃ、ナダレさんまたね。」

そしてノエルは姿を消した。

「約束だよ、またすぐに会いに行くからね。」

そんな物騒なセリフを残して。
……あれから3日あまりが過ぎている。ナダレは耳に触れた。とっくに瘡蓋(かさぶた)ができて、穴は塞がりかけている。ノエルが現れる気配はない。
スクラップブックの最後には、手書きのメモが挟まっていた。
——”見終わったら破棄しろ。ヤバい事には首を突っ込むな”
ヤバい事、なのか。優秀な情報屋の目から見て。ナダレの知らないどこかで、何かが(うごめ)いている。分かったことは、竜種の殺し屋集団がいるらしい、という噂だけだ。本来は一匹狼気質の竜種を、誰かが束ねて組織化している。……ノエルはその一員なのだろうか?

……不意に。

こつこつと、ドアを叩く音がした。
あんなメモを見たせいか、その音はやけに恐ろしげに聞こえた。ドアを開けた先に、とんでもない怪物がいたら。そんなことを考えながら、薄くドアを開けると。
転がり込むように、何かが飛び込んできた。

それは全身が血濡れて真っ赤になった、ノエルの姿だった。

「——は?」

ノエルはナダレにしがみつくように倒れていた。その間にもじわじわと、フローリングに血が染みた。慌てて抱き起こすと、ノエルは()せるようにいくらかの鮮血を吐いた。

「良かった……見つかって」

ノエルは弱々しく、そう呟く。おろおろするナダレに微笑みかけながら。

「大丈夫だよ、ほとんど返り血だし、疲れてるだけだから……」

そう言いながらも、出血が止まらない。竜種は血の魔法という力を持っている。自身の血を自在に操る力だ。それが働いていないのだ。緊急事態であるとナダレはすぐに理解した。

「大丈夫なわけないだろ!すぐに処置する、動かすぞ——」

ノエルを抱き上げようとしたとき、ノエルの唇はかすかに「やくそく」と動いた。

「約束したから……すぐ会いに行く、って……。」

ノエルはぐったりとそう呟いた。
ナダレは、咄嗟(とっさ)にその意味が理解できなかった。処置を急ごうとして、かっと熱くなっていた心に冷えた刃を差し込まれる。小さな体をこれほどボロボロにして。目的が、ただ自分に会いに来る、だけ?

「……なん……何言ってんのか、わかんねえ……。」

竜種は種として義理堅く、自ら立てた誓いを破ることはない。否、破ることができない。その時のナダレには、そんな事を知りようがない。ナダレは、竜と契ることの意味をまだ知らない。
いったい、自分は何と契約を交わしてしまったのか。
戦慄(わなな)く腕の中でノエルが鬱陶(うっとう)しそうに、ナダレを押した。

「いいから早く処置してよ!」
「あ、意外と元気だ……。」

Nadare Noelle Ortie

(続く)

#3 ミッドナイト・セレブリティ・スキン

竜種の治療は難行(なんぎょう)である。
というのも、竜種はその形態からして人類種とは大きく異なるためだ。人類種と似ているのは外見だけで、中身はまるきり異なっている。最大の特徴は『心核(しんかく)』という器官である。それは平たく言えば、心臓と肺と脳をいっしょくたにしたようなものだ。心核を中心に、重金属かと思うほどの濃く、どろりとした強い血液が全身を勢いよく巡っている。
竜種にとって身体とは、血液を人型に形作った擬態である。その血でできた粘土の中には、概ね人類種に似た器官を生成している。しかしそれが『見た目だけで、実際には機能しない擬態』なのか『本当に動いている臓器』なのか判然としない。
ましてや今回のように。竜種が自ら出血を止められない状況なら、まず心核の破損を疑わなければならない。心臓と肺と脳の機能を持つ器官を破損しているかもしれない、なんて。医者にしてみれば、これ以上のバッドケースもなかなか考えつかない。

……ナダレは意を決した。まずもって竜種に麻酔は効かない。毒のほとんどが効果がない、ということは、薬もほとんど効果がないということだ。
それは軍医時代のナダレを散々悩ませた問題だった。竜種は痛まないわけではないが、痛みには強い。さらに、麻酔で誤魔化(ごまか)すよりも、心核の力で即座に傷を回復したほうが手っ取り早い。だから、心核に傷がつくようなケースがいちばん困った。

まずは服を剥がし、本当に心核の傷かを確かめる。毒は効きにくいだけで効かないわけではない。竜種の血の魔法を阻害するような何かが原因である可能性も、まだ残っている。
ノエルは胸から腹にかけてが大きく裂けていた。この状況で(はらわた)(あふ)れ出していないのは、そもそも腑を生成していないタイプの個体だからだろう。
止まらない出血を吸引しようとしたが、吸引器(サクション)のチューブはごぼごぼと泡を立てるだけだ。竜の血は重すぎて、水を吸う程度の陰圧しか持たない機材では吸引できないのだろう。シェイクを(すす)るようなもので、単なるドリンクをストローで吸うより力が要る。ナダレは舌打ちして、ノエルの身体の下にクッションやマットを詰め込んだ。身体を斜めにして、重力で血を傷口から排出(ドレン)するためだ。クッションは次々に真っ赤になっていった。
竜種の心核は、概ね人類種の心臓の位置にある。痛むかもしれないが、躊躇(ためら)っている場合ではない。ここへ辿り着くまで、ノエルがどれほど失血しているか分からない。血が足りなくなれば、身体が擬態を保てなくなり崩壊し始める。今すぐそうなってもおかしくない、と思いながら当たるべきだ。

「ごめんな、ちょっと痛いぞ」

ナダレは声をかけて、ラテックスの手袋を嵌めた手で、ぐっと傷を掴んで押し広げる。ノエルはぎゅっと目を瞑ったが、暴れなかった。ちゃんと意図が伝わっている。押し広げた傷が戻ろうとしている。まだ心核が働こうとしているのだ。血を傷口へ送って、治そうとしている。だから余計に血が止まらない。毒によって心核が止まっているわけではないようだ。
そのまま心核の破損を探る。ペンライトで傷口を照らせば、まるで血肉の結晶のような、粘ついた赤黒い塊が目に入る。そこに、小さな破片が突き刺さっていた。刃物の先端のような、薄く鋭い破片だ。——これだ。
これしきの異物で、心核は機能を失う。竜種は確かに強い生き物だ。だが、不死の生き物ではない。
ナダレはそれを掴むと、一気に引き抜いた。瞬間、急激に血流が息を吹き返し、傷口を覆うように絡まり始める。あとは、回復力に任せれば大丈夫だろう。ナダレは大きく息を吐いた。
ノエルはふふ、と、赤く汚れた口元に笑みを作る。

「やるじゃん先生」
「血は足りてるのか? ウチには人間用の輸血しかないぞ……」

心核が力を取り戻しても、本領を発揮するにはそこに流れる血が必要だ。ノエルはぐったりと、首を横に振った。

「だよなぁ……」
「人間用でもいいよ。飲む」
「あのなぁ」

そういえば戦場で、血が足りなくて人食いに走ったやつもいたな、と。ナダレは自分の立場を思い出し、すっと立ち上がる。丸齧りはごめんだった。

「何か食えそうな物買ってくる。何が良い?」
「なんでも良いよ……ほんとに血でも良いのに。」

血のついた服を替えて外に出たのは良いが、食事は何でもいいがいちばん困る。ナダレは冬物コートに身を包んで、こそこそと街を歩いた。このスラムにまともな食い物屋は少ない。少し歩くが、表通りまで出たほうがいいだろう。
なにより、ノエルの傷は誰かから負わされた手傷だ。竜種を傷つけられるような相手がもし襲ってきたら、ナダレはとても太刀打ちなんかできない。ノエルにはなんとか自力で逃げてもらうとしても、ノエルがナダレを守る理由はないのだ。それを思えば、診療所から少し離れたかった。

表通りのコンビニで、ナダレはいくつかの食料を適当に手に取った。カップ麺、パン、惣菜、チキンなどなど。……そして、チョコレートのかかったドーナツを籠に入れる。それは単にナダレの好物だからそうしただけだ。
ナダレが帰ると、ノエルはじっとして体力を温存していたが、袋の中身を見て目の色を変えた。

「ドーナツ!」
「ドーナツ、好きなのか」
「金色のつぶつぶのがいちばん好き」

それはチェーン店にしかないやつだな。
ナダレは自分の夜食にするつもりだったそれを、泣く泣く手放した。患者の無事には換えられない。これが悲しい医者のサガだ。

「……なんで怪我してたとか、聞いてもいいのか」

ひととおりの食事が済んで、ナダレはノエルにそう尋ねた。

「ちょっとした喧嘩だよ」

ノエルは目を閉じ、ふわぁと欠伸をひとつして黙り込んでしまった。仕方ない、目を覚ましてからにしよう、とナダレもカウチに潜り込む。

コンコン、と硬質なノックの音を響かせる。出迎えのないことを承知しているオルティは、遠慮なくドアを開けた。
するとどうしたことか。普段はゴミ屋敷寸前の様相を呈しているナダレの診療所がすっきりと片付いているではないか。潔癖症のオルティには非常にありがたいことだが、それ以前に。まずは親友がついに狂ったか、部屋をゴミごと追い出されたか、のどちらかを心配しなければならなかった。

「ナダレ? いるのか?」

呼びかけると、ぱたぱたと足音がして、奥から人影が駆けてくる。オルティは思わず、懐の短銃に手を伸ばしかけて……そして止めた。それはどう見ても幼い少女だったからだ。……コスプレ臭いがナース服か? それは……。

「……えっと?」
「おじさん患者さん?」

きょとんとした顔でオルティを見上げていたその娘は、勝手に納得すると振り返ってナダレを呼んだ。

「ナダレさんカネづるきた!」

人を指してカネづるはよせ、とオルティが苦言を呈するより前に。安っぽいナース服の少女はオルティを見上げて、にたりと笑んだ。その唇からは牙が溢れ、瞳は燐光に輝いている。……竜種だ。

「良かったね。その銃に手をかけてたら、ボクはおじさんを食い殺すところだったよ。」

オルティはナダレに罹っている患者でもある。その日は情報屋としてではなく、純粋に患者としてやってきたのだった。
ナダレは疲れ切った顔でぐったりしていた。オルティは綺麗に片付いた診療所を、何事かという顔で見渡して、とりあえずナダレの前の事務椅子にかけた。そして、簡単な問診のやり取りを済ませる。

「この子は?」
「……患者……?」

オルティの、ノエルのほうを眺めながらの問いかけに、ナダレはぐったりどんよりした目で答えた。それ以外に答えようがなかった。察しのいいオルティなら、ナダレが竜種について依頼したこととノエルを結びつけてくれるはずだ。
ノエルは興味深そうにオルティの周りを彷徨いている。オルティは苦笑した。

「ねえおじさん病気? お腹切る? 見てていい?」
「お腹は切らない。見ててもいいけど、点滴するだけだからつまんないと思うよ」

オルティはいつもそうするようにジャケットを脱いで、左腕を捲った。ナダレはそこにてきぱきと治療薬の点滴を付けていく。オルティは少なくとも月に一度は、そうして薬を入れていた。そうしなければ、この羽化症(うかしょう)という病には立ち向かえなかったからだ。投薬の翌日は動けないほどの苦痛と倦怠感に襲われる。オルティはマフィアのボスとして、そんな姿を部下たちに見せられなかった。そのためこうして内密に、休日の前にナダレのもとを訪ねてくる。

「ほんと、薬だけ? つまんない……」

そう言いかけたノエルがぴくりと固まった。かと思うと、オルティの匂いを嗅ぎ始める。

「……香水臭いけど…知ってる匂いがする……?」

ノエルは訝しむように匂いを嗅ぎ続ける。オルティは完全に愛想笑いになってしまった。目が遠い。オルティは他人に距離を詰められることを好んでいないが、ノエルはそんなことを知る由もない。

「……おじさんの病気って、体に羽が生えるやつ? そうだよね?」
「……そうだ」

オルティは商会の同朋にすら、自身の病気を告白していない。彼はノエルの言葉に完全に面食らったようだった。ノエルはぺろりと舌を出した。

「ふぅん……なんだ。ナダレさんて本当に何も知らない人だったのか。」
「君は、ナダレが何を知ってると思ったんだ?」

オルティはつとめて、低く冷静な声を出していた。竜種は竜種の倫理観でしか動かない。ナダレが情報源として無用だと気づいたなら、ノエルがここでオルティごと殺して去ってもなんら不思議ではない。オルティはそれを警戒したのだ。
しかしノエルは即座にはそうしなかった。そこに話し合いの余地があるのだと、冷徹な情報屋は判断していた。

「それは言えない。お父様に叱られるから」
「お父様?」

竜種に親子の情があるなどと、彼らは聞いた事がなかった。竜種は卵から孵る。卵を産み落とした竜種が、我が子の面倒を見る事は(まれ)であった。ましてや父親となる者が。

「お父様はお父様だよ。何? 人類種って父親とかいない感じ?」
「……」

ナダレはぎゅっと眉根を寄せた。
彼にとって父親と呼べるものは3人いた。が、そのどれもが苦い思い出だったのだ。

「つまりその……お父様というのは、君の実の父ということか?」
「そうだけど?」

ノエルは少し苛ついた様子で、何を当たり前のことを尋ねているのか、という顔をしている。そして、面倒そうに、(まと)っていた衣装を脱ぎ捨てた。オルティはぎょっとした。少女然としたノエルが急に目の前で裸になろうとすれば、目を背けないほうが不思議だ。オルティが完全に視線を逸さなかったのは、それが幼いとはいえ竜であったことと、いつ自分の首筋を切り裂きにくるか分からなかったからだ。
しかしノエルは脱いだ代わりに自分の制服を(つま)み上げたところで、それの腹が大きく裂かれていたことを思い出したらしい。がっくりと項垂(うなだ)れる。

「そうだった……ああもう、面倒なことになった…」

ノエルはつかつかとナダレに歩み寄ると、ぐっとその襟元を掴んだ。

「当分(かくま)って」
「……はい?」
「だから、治ったら出てくつもりだったけど! ここで匿ってって言ってるの! ボクのドーナツ毎日買ってきてお風呂に入れてきれいなベッドで寝かせて枕元で音読して毎朝ミルクを飲ませてって言ってるんだよ!!ナダレさんボクの家畜でしょ!!」

明らかに家畜の稼働範囲を超えている。
しかし口ごたえなどした日には今度こそ耳がなくなるか、約束通り腹に穴が開くだろう。ノエルはやると決めたらそうするヤツだ。だというのにわざわざ許可を取っている。最大限の譲歩というやつだ。ナダレは壊れた玩具の人形のようにカクカクと首を振った。
それをぽかんとして眺めながら。オルティは完全にドーナツの口になっていたのであった。

Nadare Noelle Ortie

(続く)

#4 カムアウト・アンド・プレイ・ウィズ・ボディーズ

ナダレはその古ぼけた建物の前に立っていた。申し訳程度に診療所の表札を出してはいるが、(すす)けて黒くなった外観、ゴミだらけの前庭、ほんのりと風に乗って(かお)ってくる鼻を覆いたくなる臭いは到底、診療所のそれではない。何も知らずに眺めていれば、ゴミ屋敷の廃墟だとしか思わないだろう。
ナダレはしばし目を閉じて気を高め、ようやく、意を決してドアを開けた。途端にワッと勢いよく、(ハエ)の群れが飛び出していく。鼻をつく悪臭は甘腐ったチーズのようで、独特なホルマリンのきつい匂いと混じり合っている。吐き気を(こら)えながら呼びかける。

「ヘーゼル!いるか!!」

すると、ゴミの山の向こうから返事とは思えない(うめ)き声が返ってくる。ナダレは心を決めて足を踏み入れようとしたが、すぐに(きびす)を返して外のゴミの隅に思い切り嘔吐した。
臭いが目にまで突き刺さってくる。頭を抱えた。勝手に涙が出た。何とかもう一度覚悟を決めて、部屋の入り口に頭を突っ込む。

「ヘーゼル! お前が出てこい!!!」

返事はない。分かりきったことだった。
じきに鼻が壊れてマシになることを祈りながら、恐る恐る足を踏み入れる。そこら中で多種多様な虫たちがビュッフェを開催している。幸せそうにふくふくと太りまくっている彼らを容赦なく蹴散(けち)らして、部屋の主を探す。
ヘーゼルはそのどこからが何の機能を持ったエリアなのかも分からなくなった部屋で、ごろりと横になっていた。痛烈なホルマリンの臭いが鼻にとどめを刺した。ナダレを見たヘーゼルは心底面倒臭そうに目を閉じた。手元に(しな)びたネズミの死骸が握られていた。天然パーマの長い髪は複雑に絡み合い、脂ぎっている。もう何日も風呂に入っていないのだろう。服もすっかり真っ黒になっている。あたりに乱立しているペットボトルの中身がなんであるかは考えたくない。どうかホルマリンであれ。

「おい、起きろヘーゼリッヒ!」

その木漏れ日のような名前の男は、超()級の怠惰者(スロウス)であった。

「なんだよナダレか……死んで出直せよ……」
「おい、せめて起き上がって喋れ」

ヘーゼルは渋々、嫌々、泣く泣く。たっぷりと時間をかけてそれはもうゆっくりと目を開けた。

「良いところだったんだ……彼女とそれはもう楽しんだ……」
「聞きたくない!」

ヘーゼルは手に握ったネズミの死骸をうっとりと眺めている。彼は怠惰(たいだ)であると同時に、死体に興奮するタイプの変態でもある。それでいて医者としては優秀で、とにかく切断がうまかった。治療はともかく、到底口に出せない用途でヘーゼルを頼るような連中も少なくない。そういう連中の誰かひとりでもヘーゼルを飼えばいい。この地獄に毎回尋ねてくるよりはマシなはずだ。事実、ナダレが外にぶち撒けた時、そこには新旧織り交ぜた嘔吐の(あと)がいくつも残っていた。

ヘーゼルはたっぷりと欠伸をした。彼の口内は腐った臭いがしていて、歯も数本しか残っていない。そのうち歯槽膿漏(シソーノーロー)で死ぬに違いない。ナダレはそれに関しては、不思議と同情が湧かなかった。ヘーゼルが頼ってくれば治療の手立ても考えるだろう。だが、そうしない以上は。ヘーゼルとはナダレのただの友人であり、患者ではないのだ。

「君の手に負えない患者なら、私には何ともならん……」
「そうじゃない。お前のところに、羽の生えた患者とか死体、回ってこなかったか?」
「そんな素敵なものがあったら今こうして君と駄弁ってはいないぞ」
「生きた患者もか?」
「見ていないね。私のところに継続治療を求めてくる奴はいないよ。」

それもそうだ。こんなところに通うぐらいなら潔く死ぬだろう。オルティとか多分そう。
ノエルが探していたものが、他の医者に回っているかもと思ったのだが。どうやらアテが外れたらしい。しかしヘーゼルは意外な腹筋の強さを発揮して、勢いよく起き上がってきた。

「まさか、そんな死体があるのか!?」
「まだ死体と決まったわけじゃないぞ。手首から先だけ見つかったんだよ」

わくわくした子どものような目で、ヘーゼルはナダレを見る。

「生きてるとも決まってないんだろう!?」
「まぁ……そうなるな?」
「よしきた! ナダレ、死体置場(モルグ)へ行こう!」

こんなにウキウキしない誘いを受けることもないだろう。目を輝かせているヘーゼルと対照的に、ナダレはげんなりしながら頷いた。ヘーゼルはゴミ山の中から躊躇(ためら)いなく眼鏡を摘み上げる。この惨状の中でどれがどこにあるか完璧に理解している。そういう丁寧さを日常生活に発揮してほしい。今ナダレは少しだけ、ナダレの汚部屋を見て毎回(イラ)ついていたオルティの気持ちを理解できる。
せっかくノエルが綺麗にした部屋を、キープするのも悪くないかもしれない。

その死体置場は、教会の地下壕である。この国でメジャーなアルス正教においては、土葬が教義となっている。しかし、国営墓地である9区への運送費用を賄えない者も少なくはない。ましてやここはスラムである。真相はどうあれ、教会の厄介になるのは、ほとんど無縁仏であった。また、遺体の多くは『まだ使える』部分を抜き取られて、スカスカになってしまう。死因を尋ねられては困るからと、わざわざ13区へ遺体を処分しにくる者まで出る始末である。
だから、特にこの街の教会は。金さえ払ってもらえれば、どんな死体でも喜んで引き受けて埋葬した。スラム街のわりに教会が多いのはそんな狂った理由だった。そして、教会の傍に留めてあるショベルカーの用途は、あまり深く考えないほうが良かった。
地下壕(ロッカー)は広くなく、そこに空きがなくなれば、彼らは墓地のどんな区画も遠慮なく掘削した。

ホワイト嬢の領地で手首から先が見つかったのはもう1週間以上前のことである。そしてその手首はひどく腐敗していた。仮に『本体』が死体置き場にあったとしても、埋葬されてしまっている可能性が高い。だが、羽が身体中から生えている遺体なんて、もし教会の者が見れば何かしら記憶にはあるかもしれない。
ヘーゼルを見た司教は嫌な顔をした。雇われ生臭司教様とはいえ、本物の腐れ神には敵わないようだ。悪趣味な指輪を退屈そうにこねくっていた彼は、羽の生えた遺体という言葉に眉をぴくりと動かす。そして、番号を言った。ひんやりとした地下室はある程度の区画に分けられている。棚に並べるように、無造作に突っ込まれた木棺。明らかに定員オーバーだが、そんなことを気にする者はここにはいない。
ナダレはヘーゼルの部屋ともまた違った、(カビ)臭い、()えた臭気に顔を(しか)めた。

「しかし、何だ。流石だな、顔パスかよ」
「切り落とした身体の一部だって、生ゴミに出すわけにはいかんだろ。私はそれを預けに来るだけだ。死体を眺めにばかり来ているわけじゃない」

司教に言われた番号を見つけ出すと、ヘーゼルは手際良くその棺桶を棚から下ろして、検分を始めた。老若男女問わず、パーツの寡多(かた)問わず。多様な遺体が納められている冷たい棺。彼らはひどく冷めた肌で、埋められるのを待っていた。その中には顔を潰され、身元のわからないようにされたものもあった。しかし、ヘーゼルとしては特に面白みのある遺体ではないらしい。彼は原因不明の死により強く惹かれるようで、見た目にもそれとわかる扼死(やくし)死体なんかには明らかに興味を喪う。ここまで素直に好き嫌いを見せつけられると逆に配慮してやろうという気にもなってくる。
……そうして大凡(おおよそ)死臭にも慣れてきたころ。包まれた布からそれは現れた。女の死体で、首筋にぱっくりと裂けたような傷跡があった。そして、髪の生え際の分かりにくい場所ではあったが、羽が吹き出していた。首の傷はそれでついたもののようだった。ヘーゼルは目の色を変えた。

「確かにこれは羽化症とは違うな。羽毛の塊に換わるように、ごくゆっくりと死んでいくのがあの病の美しくも恐ろしい点だ。だが、これはまるで、身体の中から鳥が羽を広げたようではないか?」

ナダレは、その遺体のさらに奇妙な点に気づいた。そもそも、あの時ホワイトが持ってきたのは引きちぎれた手首だ。であるならば。

「……この遺体は両手が揃ってる。それに、あの手首とは体格が違いすぎる。腐ってはいたが、あれはもっと大柄な男の手みたいだったんだ。」

ヘーゼルはパチンと指を鳴らした。

「よし、この遺体を引き取ろうじゃないか……金を積めば何でも何とかなるのが13区の良いところだ。」

そして、彼はいやらしい笑みを浮かべた。おい、本当に調査のためなんだろうな。
どうにか司教を(なだ)めすかして、台車を借りに行っている間に。結局その遺体は二度と拝めなくなった。
ナダレとヘーゼルが戻った時には、教会は炎に巻かれていた。隣家の人間たちだけが必死で火を止めようとして、それ以外は面白い出し物でも眺めているかのように遠巻きにしていた。
何があったのか、と付近の人間に尋ねれば、彼らは興奮した様子で語った。

「例のやつさ! ほら、教会の爆破テロ!! あれがとうとうきたんだ!!」

それからそいつはヘーゼルの悪臭に気づくと、あからさまに鼻をツマんで去っていった。そのヘーゼルは特に気にするそぶりもなく、考え込んだうえで話し始める。

「……例の死体を見せない為に爆破した、なんてことはあるまいな?」
「……それって、俺たちが狙われるかも、って意味か……?」
「はははナダレ、そんなまさか。ただの死体だぞ。ただの死体……だろう? そうだよな!?」
「はは……」

煌々(こうこう)篝火(かがりび)に照らされながら、ナダレは引き(つ)った笑みを浮かべた。
生存者はひとりもなかった。地下壕の遺体はどれも真っ黒焦げに炭化して、到底検分できるような状態ではなくなっていた。火葬では様式が違うだろうから、彼らが迷いなく天国へ行けたかは分からない。生臭とはいえ、司教が供をしていることに賭けるしかなかった。

ヘーゼルと別れて帰宅した後。ノエルはナダレを見るなり嫌な顔をした。

「臭い! ドブ川で水浴びでもしてきたみたい! それになんか死体と火薬の臭いもする!! 早く洗って!!」
「入れないと洗えないんですよノエルちゃんさま」
「じゃあお水あげるから外で洗って!!」

ここ、俺の家なんですけど。と抗議する間もなく。バケツに水とタオルを突っ込まれて渡される。まだ夏の暑さが残っているとはいえ、日暮れどきは寒くなり始めていた。これで風邪でもひいた日には、たまったものではなかった。

Nadare Gezellig Noelle

(続く)

#5 パーソナル・トラブルメイカー・ジーザス

「爆破された教会の近くにいた? 何で??」

体を洗って戻ってきたナダレに、ノエルはあからさまに嫌な顔をした。そりゃそうだ。ナダレはノエルに「友達に会いにいく」としか伝えなかった。

「その……探してるんだろ、羽が生えた死体……だから、力になりたいと思って……」

それは嘘ではない。
ただ、ナダレが力になりたいのは『ホワイトの』である。もちろんノエルの為にもなる。隠れているノエルの代わりに、手足になろうというのだから。ナダレはそのことを自分でもわからないうちに曖昧にしていた。

「何でそんな危険なことを……いや、話してないボクが悪いのか……」

ノエルはカウチに沈んだ。そこはもうとっくに、ノエルの私有地と化していた。

「仕方ない、ボクが迎え撃つからナダレさんは隠れてなよ。その無駄にデカくて重いお尻もしっかり隠すんだよ」
「誰のケツが何て!?」
「良いから。死にたくないなら言うこと聞いて。バスルームにでも——」

ノエルが言い切らないうちに。窓が勢いよくガラスを吹いた。そして、何者かが転がり込んできた。
その闖入者(ちんにゅうしゃ)は、ノエルと同じぐらい小柄な少女に見えた。似たような仕立ての制服らしい服を着て、スカートからガラスの破片を払っている。流れ落ちる金の髪はきらきらと美しく、肌は石膏像のように白い。金の瞳がノエルをじっと見る。ノエルも彼女を睨み返す。

「グリム。お前か」
「……ノエル。生きてたの?」

すると彼女は握っていたナイフをベルトに納めて、ノエルに近づくと、……ぎゅっと抱き付いた。

「……アリエル姉さんは心核(しんかく)を刺したって、そう言ってた……」
「それは嘘じゃないよ。かなりギリギリだった。しかし、お前を送り込んでくるとはね。お父様もいよいよ余裕がなくなってきたな。お前がキャロルと組まされてるの?」
「……その前に」

グリム、と呼ばれた少女は、いきおい、ナダレへ飛びかかる。その手のナイフがナダレを引き裂かなかったのは、ノエルが手で止めたからだ。ノエルの金の瞳は燐光を発し、冷徹な怒りが見てとれた。

「偉いねグリム。お父様の命令には忠実なようだけど。でもそのボケっとしたお医者様はボクの所有物(かちく)だ。」

ノエルはグリムを張り倒した。ナダレが口を挟む暇もなく。頬を張られたグリムはしょんぼりと眉を垂らし、俯いた。

「他人のモノに手を付けるな。はしたない子め。」
「いたい……」
「ナダレさん、これ、ボクの妹。グリム、これ、ボクの家畜のナダレさん」
「その紹介何とかなりませんかご主人様……。」

助けてもらった礼もしないうちに、ノエルは即座に手のひらの傷を回復する。心核がまともに機能していれば、多少の傷は竜種にとって、傷のうちにも入らない。それをまざまざと知らされる。
ノエルはグリムをカウチに座らせた。腕を組んでその前に立つ。ナダレはそれをバスルームへ続く廊下の影から見守った。

「それで、キャロルと組まされてるの?」
「そう。ノエルのかわり」
「あの唐変木(トーヘンボク)は?」
「キャロル兄さんは、もうひとりの目撃者を探しに行った……二人連れだったって、分かったから」

グリムがしおしおになりながら発した言葉に、ナダレは身を強張らせた。ヘーゼル。本当にドブの底のヘドロを選りすぐって煮詰めたみたいなやつだが、自分のせいで死なれるのは嬉しくない。

「でも……匂いがちっとも辿れなくて、ダメみたい……あれはきっと隠密(オンミツ)のたつじん……ニンジャ……!」

ヘーゼルの性癖がヘーゼルを救った。
まさかあの怠惰を極めた暮らしが役に立つ日が来ようとは。ナダレは深く息を吐いた。後で電話のひとつも入れてやろう。当分死体で体を洗ったほうがいい、と。

「とにかく。このお医者はボクの家畜でボクのものだからお前が触るんじゃない。そのもうひとりっていうのもボクの手下みたいなもの。始末しなくていいの。」
「でも、お父様に叱られる……」
「言いつけ通りやりましたって言っとけばいい! どうせお父様はグリムには甘いんだから!!」

まったく、とノエルは歯噛みした。そして、ナダレを振り返る。

「……この子、ちょっとおつむが弱いんだよ。本当に手のかかる妹だな!」

そう言いながらも、ノエルはどこか嬉しそうにしていた。

そして、人の買ってきたドーナツをむしゃ食いながら。ノエルはグリムと作戦会議をするかと思いきや、2人してテレビゲームに励んだ。なんでじゃ。それもナダレの私物だ。頼むからドーナツの油を塗りつけてくれるな。塗るのは地面とシャケだけにしてくれ。そして深夜も深夜になったころ、グリムはほくほく顔で帰っていった。バイトうまくいってよかったね……。
グリムが去った部屋で、ナダレは残ったドーナツを腹に仕舞い込んでいた。

「俺のこと庇ったりして、いいのか?」

改めて尋ねてみると、ノエルは面倒そうな顔をした。わざわざ説明がいるのかこの家畜は、というテロップ付きに見える。

「いいの。ボクの家畜ってことはボクのものってことなんだから。他人に手出しも口出しもされたくない。お前はもうボクのものだし、お前の命もボクのものなの。ボクに命乞いしたの忘れたの? お前もグリム並みにお間抜けだなあ」

やれやれと肩をすくめながら。

「オルティ……えっと、この前点滴に来てたあいつ。あいつは……」
「ああ……あのムスクとサンダルウッドと煙草のヒトね。あの人は別に何も知らないでしょ。知ってたとしても、あの人は自分で自分の身ぐらい守れる。竜の匂いがしてたからね。側にいるんでしょ、多分」

そうなのか。ちっとも知らなかった。
オルティが犬でも猫でも人間でも抱え込みたがる奴だというのは承知していたが、まさか、竜種もとは。

「グリムにしっかり言いつけたから、ナダレさんのお友達もひとまずは大丈夫でしょ。まったく、本当にみんなして手が焼けるんだから!」

本当に申し訳ございませんと頭を下げて、そろそろ尋ねても良いだろうかと、ナダレは唇を開く。

「……俺がノエルちゃんさまを(かくま)う、っていうのは、その、心核を刺したっていうお姉さんから?」
「アリエルはお父様の言うことには絶対に背かない。だから面倒くさい。ここに来たのがグリムでよかったね。アリエルだったら話も聞かずに殺されてたよ」

ノエルは事もなげに語る。思ったより危機一髪だったのか、なんて感傷には浸らせてもらえない。

「キャロルは分別があるから、まだ話を聞いてくれたかもね。リップとレスターの双子は最悪。まず、あいつらボクのことナメてるから。弟のくせに。自分たちが一番お父様を愛してるって。狂信者だよ、アレ」

ナダレは既に去ったグリムの方へ深く礼をした。本当にありがとうございました。まさか怪獣大戦争がここで勃発するところだったなんて。

「ボクはまぁその……ボクが羽の生えた死体のネタを追ってるってのは知ってるでしょ。あれがちっとも成果にならないから、お父様に折檻部屋に入れられてたんだけど。」

とんでもないことをサラッと言うな。前時代的にも程がある。それに、竜種を折檻できる奴なんか居るのか? より力のある竜なら、それも可能なのだろうか?

「ナダレさんと会う約束してたから脱走したらさあ! あのバカ姉! 次あったらボクが心核ぶちぬいてやるから!!」

きょうだい喧嘩のスケールがおかしい。先ほどまで仲(むつ)まじいグリムとの姿を見せられていただけに。ナダレは頭がくらくらした。

「ともかく折檻もバカ姉もバカ弟×2ももう懲り懲りなの! ボクは仕事してなかったわけじゃないのに! 見つかんないものを見つかりませんって報告して何で怒られるわけ!」

この期に及んでナダレは、未だホワイトの情報をノエルと共有することを躊躇(ためら)っていた。ナダレが明確に狙われていると分かった以上、これは彼がスプラウス家に返せる最後の恩義かもしれないのだ。
しかし、目の前の幼い竜種にいつまでも嘘をついていられるほど、できた大人でもなかった。

「……その、そっちが知らなそうな情報が、あるにはある」

ノエルは目の色を変えた。

「……何で今まで黙ってた?」
「俺にも事情がある! ……だから、出所は話せない! それでも良ければ俺の知ってることを話す……!」

ナダレが言い終わるより先に、ノエルは動いていた。床に叩きつけられ、一瞬息が止まる。ノエルはナダレの上に馬乗りになり、ナダレの髪を掴んで顔を上げさせる。

「次はお腹に穴開けるって言ったよね。聞こえてなかった? その柔らかいふわふわの耳は飾りか?」
「……何言われても、これだけは話せない!」

ナダレも意地になった。

「あのねえナダレさん。ボクを可哀想な家出っ子か何かと思ってる? 同情で情報くれてやろうって? 馬鹿にするなよ人類種(ニンゲン)ごときが!」

ぱっと手を放される。

「もういい。お前の命はボクのものだ。思う存分甚振(いたぶ)って全部吐かせてやる。よかったねここが病院で。道具には事欠かないよな」

そう言うノエルの手には、脊髄(せきずい)に使うような太い注射針が握られていた。
体の震えが止められない。全て洗いざらい言わなければ死ぬより酷い目に遭うのは目に見えている。そして、そうなった時に何かを言い出さないでいることが自分にできるとは、ナダレには思えなかった。そんな強さがあれば、ドラッグにも酒にも逃げずに、まともな暮らしを続けられていたと、自分で分かっているからだ。
それなら今言ってしまった方がよほど良い。ホワイトは軍閥(ぐんばつ)名家のお嬢様だ。剣の道もそれは厳しく(しつ)けられていたはずだ。ナダレが守る必要など本来ない人だ。

それでも。
それでも、自分からホワイトを裏切る事は、どうしてもできなかった。

痛みに屈するならそれでも良い。結果殺されたとしても別に構わない。
死にたくないだけならとっくにドラッグも酒も辞められている。ノエルに命乞いをしたのだってそうだ。ナダレに許されるのは、ゆっくりと、柔らかく死に続けることだけだ。緩慢(かんまん)な自殺だけが、ナダレに許された贖罪(つぐない)なのだから。

だからナダレは、何も言わなかった。両の目にたっぷりと涙を溜めて、(おび)え切って肩で呼吸しながら。それでも何も言わずに、ただノエルを見上げた。ノエルはそれにたじろいだように、鋭く舌打ちをした。

「……何なの、お前。死にたくないって割には、覚悟の決まった顔して。気持ち悪い。」

ノエルはナダレの(あご)を掴むと、口を開けさせて舌を思い切り引っ張った。そこへ、手にしていた注射針を突き刺す。驚いたナダレが舌を引っ込めようとしても、針が当たって入っていかない。ただ唇の端から血と涎が混じり落ちた。

「話したくないなら何も言うな。言えるようになったら聞いてあげる。それまで針、取るなよ。」

Nadare Noelle

(続く)

#6 ストップ・クライング・リチウム・ハート・アウト

舌を貫いた針の痛みは、ずきずきとナダレを苛む。そうやって痛みに晒されていると、ナダレはどうしても、思い出したくないことを思い出す。冷たい床に身体を擦り付けながら、情けなく涙を流しながら、ナダレはその記憶の揺らぎに必死に抵抗した。嫌だ、思い出したくない、と思えば思うほどそれは鮮明に記憶の底から浮かび上がってくる。ああ、どうして——いつも、こんなことになるのだろう。

ナダレは幼かった頃、誰かに愛された覚えがない。娼婦であったナダレの母は、ナダレを産み落としただけで、まともに世話をしなかった。すぐにどこかの施設に入れられたから、顔も覚えていない。母はその他にありようが無かったが、彼には、父親と呼べるものが3人いた。
ひとりは血の繋がった実の父だ。母を孕ませ、責任を負わずに姿を消した男だ。どこの誰なのかも知らない。母と同じで、まるで印象がない。
ふたり目は、彼を引き取ったシノノメという老紳士だ。ナダレのような孤児を集めて養育する、孤児院を運営する立派な紳士であった。シノノメは若くに先立った妻をいつまでも愛していた。彼女との間に子がなかった代わりに、彼は多くの子どもたちに未来を授けることにした。愛情深く優しい人だった。ナダレが初めて愛情というものに触れたのは、シノノメがいてくれたからだ。そして、ナダレが医学の道を志したのは、その彼の体が弱かったためだった。
ところが、大学へ進んだナダレを待っていたのは、激化するトヲラスとの戦争、その戦場への徴用であった。

ナダレの脳裏に炎がゆらめき、鉄と泥と火薬の臭いが立ち込める。人が燃える臭い。湿った風の匂い。送られた前線のジャングルで経験した物事の全て。

初めは、単に傷病兵の世話をするだけだった。ナダレはまだ、医師ではない。そのタマゴにすぎないものだ。だからこれはほんの実習にすぎないと、ナダレも、同じように連れて来られた誰も彼もが信じていた。決して、人手不足などではないのだと。
ナダレはそれでも、目の前の命に責任を持とうとした。まだ動けるはずもない兵士を働かせようとする上官に、勇敢にも食ってかかった。それがいけなかった。前線へ送られてはじめて、自分がまだ優しい場所にいられたのだと知った。

必死に働いた。ありったけの傷を()い、ある時は切り落として命だけでも助けようとした。
敵兵のトヲラス人たちは、ひどく追い詰められていた。アルスが竜種を戦線に投入したためだ。彼らは疲れも知らず、また躊躇(ためら)いも知らなかった。きっと、ノエルのように命乞いなど聞かなかっただろう。圧倒的な戦果を上げながら、彼らはトヲラス人をジャングルの奥の奥まで追い詰めていった。
そして食い詰めたトヲラス人たちは、ヤケになり始めていた。
テントを急襲された時の、驚いたような呆れたような彼らの目を思い出した。そこには怪我人しかおらず、動いているのはほとんどナダレだけだったのだ。ナダレが撃つな、と声を上げるより先に、機銃(マシンガン)の掃射が飛んできた。まさかそんな前線に医療従事者が出ていて、人命のために働いているとは思わなかったのだろう。腕章を掲げたナダレを見ても攻撃の手を止められなかったことは、想像に難くない。

ナダレは、唯一生き延びていた男を背負って、燃えるジャングルをふらふらと歩いていた。ナダレも弾傷を受けていたが、背負った彼に比べれば擦り傷だ。それよりも、誰か一人だけでも助けたかった。ナダレはその時も、このままでは養父に顔向けはできないと気張っていたのだった。そうしなければ、自分がなぜ生まれてきたのか、それすらも霧散してしまう気がしたから。

置いていけ、と背中から、ひどく弱々しい声がする。ナム、というその衛生兵は、何度もそう言った。それでも生きていた。
死ぬのは本望だから構わないと言った。体の左側がほとんど削げてしまっていたが、それでも、まだ、生きていた。
ナダレにとってナムが、どれほどの希望で、絶望であったことか。
どうやって、本陣のテントまで戻ったのか思い出せない。本陣を受け持っていたホワイトの父、スノウが急襲に気付き、救援を送ったらしいと後で知る。
目が覚めた時にはナムと並んで寝かされていた。ナムの手傷は酷かったが、生きていてくれた。
それだけでも、よかったのに。

その時のことを忘れられない。

見慣れない筆跡の手紙を受け取った。それは、シノノメの屋敷に仕えている使用人からのものだった。ひどく嫌な予感がした。震える手で開封した手紙は、シノノメの訃報を伝えるもので——それも、随分と以前の日付を書き込まれていた。
ナダレが前線にいる間、その手紙は届くことなく預かられていた。それに気づいた時には、ナダレは最早、子供のように泣きじゃくることしか出来ずにいた。スノウはナダレが落ち着くのを待ち、そして、この配属は適切ではないと説明した。個人的な懲罰のためにナダレが前線へと送られた事に、彼は憤っていた。そして、自分がナダレの後見人となることを提案した。助けられる限りの命を守ろうとしたナダレに、スノウは恩赦を与えようとしたのだ。

ナダレはそれを受け入れられなかった。
ナダレは、前線でただ無力に苦しむだけの、誇り高き医学者ではいられなかった。そうしていれば良かった。それでも、助けられるだけの生命を救うために、どうにか生き延びるために。

ナダレは自分自身にも、医療用麻酔を大量に打っていた。

「俺みたいなものが、そんな恩赦を受け取れません」

震える声で話しながら。ナダレはスノウに自分の、ずたずたに荒れ果てた肘の裏を見せた。あざのような注射の痕がいくつも残っていた。たとえ、そうしなければ居られなかったことでも。神に(そむ)き、法に(そむ)き、ナダレがそうしたのは心が弱かったせいだ。ナダレは自分に同情できない。今だって、妥当だったと思わない。だから、その気持ちは受け取れないと断ろうとした。だが、スノウはまるでそんな事を意に介さなかった。

「これまで、よく頑張った。」

そして、ナダレの癖のある栗毛をやわらかく抱く。厳格で知られるスノウのその態度が、痛いほどに突き刺さった。ナダレは流れ落ちる涙を止められずに、ただされるがまま、暖かい掌に抱かれていた。二人目の父を失ったけれど、三人目の父になってくれる人が現れた、その日。その時。
それはいつまでも、忘れられない。痛く苦く、そして暖かい記憶だ。

結局、ナダレとナムは終戦を、病院のベッドの上で迎えた。ナムは肉体的に生死の境を彷徨(さまよ)っていたが、精神的に疲弊し切ったナダレの状態も、決して良いとは言えなかった。
戦争が終わった後、前線へ送られた竜種たちは。軍法会議にかけられてほとんど銃殺されたと聞く。まさしくトカゲの尾として切り落とされたのだった。あのときのテントの生き残りはナムひとりだった。ナダレはあの戦争で、何を為すこともなかった。
スノウはナダレを本国へ送り返し、自らの屋敷で療養させた。そしてそのまま、屋敷付きの医者として勤められるようにした。医師免許すら、ナダレは持っていないのに。
だからスノウの主治医と言っても、することは殆どが茶飲み話だ。元々心臓の強くない家系らしい。スノウの心臓の状態も(かんば)しくなく、いくらナダレが天才的な外科の腕前をしていたとしても、手の施し用がなかっただろう。そしてある時、スノウはナダレに賭けを持ちかけた。すなわち、手術を受けるか否かについて。
ナダレは、そうしない方が良いと思っていた。成功すれば御の字、失敗して当然の厳しい条件。スノウは成功に賭けた。これからも娘の将来を見守りたいから、と。ナダレはこれほど、自分が賭けに負ける事を祈ったことはない。

果たして、ナダレはその賭けに勝ってしまった。
だからスノウの心臓を止めたのはナダレだ。ホワイトの父を殺したのはナダレだった。

ナダレは、ナムの元を訪ねた。

誰かに罰して欲しかったのかもしれない。あるいは、許されたかったのかも。ナムは左眼、肩から先の左腕、膝から下の左足を失っていたが、生きていた。生きてナダレを睨みつけていた。
彼は死ぬつもりで戦場へ行ったのだ。実父からひどい暴力を受けていたナムは、同じく暴力に晒されていた母の自殺で事が知れ、ようやく保護された子供だった。それ以来彼は自分が生きている意味を理解できずにいたのだった。ナダレと同じように。

彼はナダレを恨んでいた。それは、ナダレが無理矢理自分を救ったせいではない。救っておいて簡単に投げ出そうとするナダレを恨んでいた。ましてやナダレが簡単に罰されることなど、ナムは許さなかった。吐き捨てるように言った。

「お前はゆっくり、苦しんで死ねよ」

ナムはそう言って、それきりナダレとは話さなかった。
期待していた痛みも、罰も、何ひとつ与えられることはなかった。ナムは痛烈に訴えていた。生きろ、と告げていた。
以来ナダレは。死ぬことも生きることもできずに、薬と酒に溺れながら不恰好に生き続けている。柔らかく死に続けている。ただそれだけの、生ける屍の日々——。

ナダレが目を覚ました時、いつの間にか舌の針は抜かれていて、ノエルは(かたわら)で猫のように丸くなっていた。
自分の袖口が濡れているのに気づいた。きっとそれを枕に、泣きながら眠りについたのだろう。あまりの無様さを見かねてか、あるいは泣き声を聞きかねてか。ノエルは針を抜いたのだ。
まだ口の中は血の味がした。

「お前はゆっくり、苦しんで死ねよ」

ナムの言葉を、何度も頭の中で繰り返す。彼はもう、二度と口を利いてくれはしないだろう。ナダレを(ゆる)すことはないだろう。けれど、ノエルは違う。話したくなったら話せ、とノエルは言ったのだ。
小さな体に触れて、起こしてしまわないように。身動きせずにただ、見つめた。もう一度息を吹き返したいと思った。

ノエルが目を覚ましたら。
もう少しきちんと、話をしたい。

ナダレはもう一度目を閉じた。朝の柔らかな日差しが、二人を照らしていた。

Nadare Nam Noelle

(続く)