傾いでいく艦の中で、エヴァグリーンはオルティを背に負った。手近にあった帆布を裂き、ロープにして、しっかりとオルティを自分に括り付ける。艦内をデッキ目指して駆け上る。その間にも船はゆっくりと傾き続け、エヴァグリーンは剥き出しの鉄骨を雲梯のように掴んでは、道ならぬ道を進まねばならなかった。
デッキへ出るドアは船体の歪みで開かず、仕方なく、船室の窓をぶち抜いて外へ出た。冬の冷たい潮風が吹きつける。
オルティは寒さから逃れるように、ぎゅっとエヴァグリーンにしがみ付いた。小さな背中が、赫々と熱を持っている。エヴァグリーンの心核は、限界まで力を使おうとして加熱していた。それが今、オルティの生命を守る灯火となっている。
イーデンは元々、ただの客船だ。浸水を止める優れた隔壁などは持ち合わせていない。ましてや、今はそれを操作する者も。そのため、その大きさに反して沈む速度が早い。とても救命艇を探すような暇はなかった。さらには、どこかで漏れた重油に火が入ったのか。黒々とした海面にはところどころ、オレンジ色の炎の帯が揺らめいている。
「なるべく遠くに飛び込め。船が沈む時の渦に巻き込まれる。」
オルティはまた無茶を言ったが、エヴァグリーンならそれができると信じているようだった。エヴァグリーンは遠くの、火の回っていない海面を見つめる。冷たい水の中でオルティがどれぐらい持つのかわからない。泳ぐのはなるべく短い方がいい。
いつまで待たせる気だ、とエヴァグリーンは胸中で焦燥を募らせていた。
——その目に、鮮烈な漁火が映る。少し離れた海上に、漁船が一艘浮かんでいる。エヴァグリーンはそちらの方へ向かって、精いっぱいに飛び込んだ。
氷のような冬の海が牙を剥く。まともに泳いだ経験なんか、エヴァグリーンには一度もない。真っ黒いうねりの中で、とにかく海面を目指して、がむしゃらに強く水を蹴る。
絶対に死なせない。
背にしたオルティの命を、絶対に持って行かせはしない。その一心で。
眩しい漁火が、海面に出たエヴァグリーンの眼を焼いた。ディーゼル音が海面を断ち割っている。忙しなく海面を照らしながら、漁船の上から大きな声が響いていた。
「おーーーい! オルティさーーーーーん!!」
ロータスだ。
エヴァグリーンは、それを目指して泳いだ。大丈夫だ。しっかりと背負ったオルティは、ちゃんとここにいる。微かながら、拍動が伝ってくる。どうしようもなく、笑みがこぼれそうだった。
「ロータスさん、エンジン音よりうるさいですう…」
「そんな場合じゃないだろ!! お前も呼べ! アルシァラだってサーチライトやってんだぞ!!」
口々に、彼らはオルティの名を呼んだ。
それから。
「エヴァーーーー! 生きてんなら声出せーーーー!!!」
彼らは同じように、エヴァグリーンを呼んだ。エヴァグリーンが返事をしようとしたそのとき、ゆっくりと、大きなものが包み込む。
「見つけたぁ〜!!」
それは、海にぬぼっと立つ、巨大な怪物のようにも見えた。シェイプシフター。黒い波のようなサダルメリクが、彼らを優しく掬い上げ、抱き上げている。
そっと船上に降ろされ、ぐしゃぐしゃに濡れたスリーピースをふたり揃って脱がされながら。オルティは訳がわからないという顔をしていた。
「……なんで、お前たちがいるんだ?」
タオルで何重にもオルティを巻きながら、ロータスは歯を見せて笑った。
「エヴァに頼まれたんですよ。迎えの準備しとけって」
「エヴァグリーンが……!?」
「俺はただ、ちょっと海まで出かけるってこいつらに言っただけだぜ。」
絶対にそんなレベルの話ではない。小さな漁船は、定員オーバーではと思うほど人数を詰め込んでいた。万が一、あのままオルティがエルドラドに攫われていたとしても、そのまま取り返しに行けそうなほどの人手だ。
目を白黒させているオルティから、エヴァグリーンは顔を背けた。面と向かって言うには恥ずかしかったのだ。
「プレゼント……お前には貰ってばっかりだっただろ。だからってワケじゃ、ねーけど。……お前がちゃんと帰れねーのは、俺は嫌だ」
それを聞いてロータスは、ふっと柔らかく笑んだ。
「ほんと、よく帰ってきてくれましたね、オルティさん。エヴァも、よく連れて帰ってくれた。」
まいったな、とオルティが呟く。被せられた毛布に、頭から包まる。小刻みに震えているそれを、誰ひとり暴こうとはしなかった。
港まで戻った彼らは、その足で商会まで向かった。ささやかながら、受付嬢のリズが聖誕祭のケータリングを手配していたのだ。オルティはずっとシャワーを浴びたがっていた。体の芯まで凍えて、服は潮でべたついている。ロータスがバスルームに湯を張りにいっている間、オルティは執務室で、慣れない手つきでケトルに水を入れていた。
「最後の最後に、お前にはしてやられたな。……本当に驚いた。」
「俺は何にもしてねえ。やったのはあいつらだ」
「それでも、あいつらを動かしたのはお前だ。それだけお前は、皆に信用を置かれるようになったってことさ。」
オルティは深く溜息をついて、エヴァグリーンに笑顔を見せた。疲れ切った顔をしているが、その表情は晴れやかで、肩の荷が降りたようだった。
「本当に、お前に会えて……お前が商会に加わってくれて、良かった。こんなことは、少しも予想してなかったが……そうなればいいなと、ずっと思っていたんだ。」
ケトルに湯が沸き、オルティは不器用ながらインスタントコーヒーを淹れた。遅いディナーの前に、ふたりきりでの祝杯だった。
けれどそれは、お世辞にも美味いとは言えないものだった。
「うへえ、泥水の方がいくらかマシだ」
エヴァグリーンは顔を顰める。オルティも、少し舐めただけでむっとした顔をする。人生でいちばん、酷い味のコーヒーだ。互いに顔を見合わせて笑う。胸が暖かいのは、コーヒーの温かさだけではない。だからそれは間違いなく、最高の一杯だった。
◆
聖誕祭の後のホリデーが過ぎ、新年を迎えて。
まだ誰も彼も休暇中の、静かな事務所で。
オルティ・クラヴィアドは全てを片付け終えた。仕事も引き継ぎ、事務所を整理し、ロータスへの言付けを残した。きっと彼らならうまくやれると信じる。そして、もうこの商会に、擦り切れた病人は必要がない。
それは、冷酷な決断だと誰もが非難するかもしれない。けれど、必要なことだとオルティは信じている。
ここは、家族のように暖かくて、居心地がいい。けれど、それではいけなかった。——ただ、健全ではないからだ。仕事は仕事で、私事とは分けるべきだとオルティは思う。だからこの血のように濃い絆は、断ち切らねばならないと。それでも商会は回っていくと、オルティは信じている。
そっと事務所の鍵を閉めて、手荷物だけを持って出る。いまやそれが、オルティの全財産だ。数枚の着替えと、いくらかのキャッシュ、私用のデバイス。
たったそれだけ。
長きに亘り、このアルスのアンダーグラウンドで。縄張りを守り続けた男の手持ちとしては、あまりにも侘しい。
事務所の裏手から、音もなく出る。
そこに、そいつは待っていた。
「どこ行く気だ、お前」
エヴァグリーンが、バイクを停めていた。
「……なんで居る?」
「別に。新年早々、辛気くせえオッサンのツラでも拝もうかと思ってよ。」
嘘だ。
全部終わったら、オルティは消える気だと、なんとなく理解していたからだ。エヴァグリーンはここしばらくの間、毎日、事務所の様子を見にきていた。オルティにもそれと気付かせずに。
「乗れよ。送るから」
「……着いてくるつもりなのか?」
オルティは隠れ家を変える気だ。もちろん、エヴァグリーンにはそれが分かっている。きっとここで断っても、探し当てるまで着いてくるに決まっている。
——この孤独な竜種の青年を、そうさせたのはオルティ自身だ。
だから、断ることができなかったのだろうか。
クローバー貿易商会は、なんとかやっている。
始めは大混乱だった。失望もあった。オルティがどんな状態だろうが、彼らがオルティを見捨てる事などない。しかしその感傷をこそ、オルティは嫌ったのだと分からぬでもない。
オルティの隠居と病のことは伏せるように、特に外には伏せろと、ロータスは強く指示されていた。それは、ライドウ一門やその他の敵対組織を抑えるためだ。四ツ葉の魔法使いはどこかで生き続けている。そのほうが、きっと彼らへの牽制になるから。最後まで何もかもを無駄にしない、合理性の塊のような生であった。
それでも時々、事務所には手紙が届いた。相変わらず、それぞれのことをよく見ている手紙。それは、窓辺にそっと置かれていく。そんな芸当ができる奴はひとりしかおらず、そして、オルティとともに姿を消していた。
きっと、その手紙も。見守るだけで充分だと言うオルティに、エヴァグリーンが書かせているのだろう。そんな筆致だった。
合理に徹しようとするオルティの頑なさを、竜の炎は確かに溶かしたのだ。それがロータスには少し悔しくもあり、嬉しくもあった。
「お前、さ。長生きしろよ」
オルティは都度、そう言った。エヴァグリーンは鼻で笑う。元々、主人に殉じるような殊勝さなど持ち合わせてはいない。
けれど、竜種の契約とは、相応に重い意味を持つ。単なる約束では済まない。当たり前のように自分の命を盾にするところを、オルティもまたエヴァグリーンの中に見出していた。
それはきっと、竜種が本能的に抱えている危うさなのだ。そして竜種は、そのことに無自覚に、ただ居場所を与えてくれる相手に懐く。……あのラドンでさえ、あの船を拠り所として離れなかったのだから。
だから、オルティは何度も口にした。長生きしろよ、と。それがエヴァグリーンの血肉となるまで、何度もそう言った。
東国料理の、スパイスと油の匂いがする。
小さな料理店の上。錆びた鉄階段の先にある、小さな部屋。
訪問看護師の彼女は、恐る恐る階段を登っていた。足を踏み出す度に階段が大きく軋むのだ。ゆっくりと、一歩一歩。重い鞄を抱えて登る。春先の強い風が階段を揺らすのも勘弁してほしい。
同じく鉄錆びたドアの前でブザーを鳴らすと、若く、愛想のない竜種に出迎えられる。彼は患者の付き人だ。親子のように歳が離れていたが、無論、親子ではない。患者は人類種である。
彼は羽化症で、その終末期にあった。
体の至る所から、ささくれのように羽芽が吹き出し始めている。この段階の羽化症には、もはや何の治療の手立てもない。ただ痛み止めだけが処方される。全てを手放して、穏やかに眠れるように。
起き上がることもままならなくなりつつある彼の身体を清拭し、姿勢を変える。体調が良さそうな日は、窓辺に運んで外を見せて、雑談をした。料理店から上がってくる独特の匂いはともかく、春風は心地よく、彼の白金色の髪を揺らしていた。下弦を花蜜に浸したような、湖水のような色をしたバイカラーの瞳が、遠い青空に目を細める。彼の体から外れた羽が、ふわりと風に舞って行った。
「コーヒー、淹れたけど。あんたも飲むか」
竜種の青年がそう呼びかけてくる。ありがたく頂戴する。
それは患者が口に含むためだけに淹れられるもので、彼の分はミルクと砂糖で、甘く味付けがされていた。刺激物のうえに不健康なほどの糖分だったが、そんな事は今の彼の病状に何の意味も与えない。それに、そのほとんどは患者に飲み干されることもない。いつも最後には、竜種の青年が喉へ流し込んで片付けていた。
「煙草が吸いたい」
時折、患者はそうねだる。竜種の青年は肩をすくめる。看護師も止めはしない。青年がガラムに火をつけて、枕元で吸うだけだ。ぱちぱちと火花の散る音が耳に心地よい。甘い香りの煙が染み込んだら、また、患者は緩やかに眼を閉じる——。
——夜闇にぼうっと照る、自動販売機の前で。
エヴァグリーンは舌打ちした。持ち合わせの小銭が足りなかった。仕方なく、コーヒー缶のボタンを押した。もうじきに春も過ぎるのに、暖かいコーヒーしか置いていない奴があるか。
仕事の待ち合わせには充分間に合うが、ロータスは早めに来いと言っていた気がした。急いでやるか、とコーヒーの缶を傾ける。それは竜種にとっては何のことない温度だ。一気に飲み干した。
相変わらず、泥水のような味がする。
けれど、それは少しだけ甘く、そして、エヴァグリーンの胸の中で灯る。それはオルティの眼差しのように。あの、星明かりの瞳のように。
いつまでも暖かく、エヴァグリーンを導き続ける光のように。
空になった缶を屑籠に放る。
エヴァグリーンはバイクに跨ると、星明かりの夜の中へと走り出した。
(完結)