#1 ロック・ドクター・フィール・ライク・エンジェル

シノノメ・ナダレというその男は死にかけている。

病気でもない。怪我ひとつしていない。けれど頭は重症だった。ドラッグとアルコールに蕩けた頭でぐったりと横になる。食べカスや空き瓶や脱ぎ散らかした衣類がドカ盛りに盛られた部屋の真ん中で。投げ出された小さなラジオからは、海賊放送が鳴り響く。誰にも許可を取っていない電波で、誰にも許可を取っていないロックの名曲を垂れ流す。それがナダレのふわふわとした、和毛(にこげ)に包まれた耳をズコズコに揺らしていた。
ここはアルス13区。無法者だけが暮らす(スラム)だ。ナダレはそこで闇医者として開業していて、今はトリップの中にいた。

——不意に、コンコンと、ノックの音がした。
何時間を無為に寝過ごしたのか。微睡(まどろみ)からゆるやかに意識が覚醒する。ナダレはこの瞬間がいつだって、好きではなかった。栗色(チェスナット)のモップのようになった長髪を、がしがしと掻いて起き上がる。

まだ夏が過ぎたばかりだというのに、冬物のコートを羽織る。ドラッグに浸された彼の頭は、いつだって真冬の雪原に放り出されたような、ひどい寒気を感じるようになっていた。
ドアへ向かう前に一発吐いた。トイレへ寄れたのはまだ調子のいい証だ。ダメな時はその辺へぶち撒ける。鏡で見た顔色はひどいもので、目の下の隈も皺も、もう一生取れそうにない。不精髭を剃るような気にはなれなかった。口を濯ぐだけにして、そして這々(ほうほう)の体でドアを開ける。数少ない患者(カネづる)かもしれないから、いくら離脱症状が酷かろうが無碍(むげ)にはできない。

「ラブホは(はす)向かいだよ……」

言葉が途中で止まったのは、ドアを叩いていたのが浮かれたスラム探検隊、怖いもの知らずのクソガキカップルではなかったからだ。凛と立つ彼女は、13区にはひどく不釣り合いに見えた。珍しいこともあるものだと、ナダレは目を丸くする。
ホワイト・スプラウスという名の彼女は、ナダレの昔からの知り合いだった。名門軍閥貴族の家長である彼女が、執事ひとりを伴ってそこに立っていた。

「先生。お久しぶりです」

ホワイトはいまだに、ナダレを先生と呼ぶ。
ナダレは以前、スプラウスの家長が彼女の父親・スノウであった頃に、スプラウス家に間借りしていた。スノウの主治医として働きながら、ホワイトの勉強を見てやったこともあった。しかし、スノウの心臓はナダレにはどうすることもできなかった。
失意の中、屋敷から引き払ったナダレは、13区に身を寄せた。そして、家長を継いだホワイトは、時折こうしてナダレを訪ねるようになった。こんな街に来るのはやめてほしいと頼んだら、迎えだけを寄越(よこ)されて外で会食することになった。
だから、本人がここまでやって来るのは、本当に久しぶりだった。

「今日はちょっと、見てもらいたいものがあって……それでこちらへ。いけませんでしたか?」

彼女は優雅な所作を崩さない。首を傾げれば、緑みがかったクセのない、長い金の糸がさらさらと流れた。慈愛に満ちた眼差しは、しかし厳しさも兼ね備えて、宝石のように赤く光っていた。白磁のような肌はほのかに色づく化粧を施されて、ほのかに甘い香りがした。パンツスタイルのスーツがよく似合っていた。ナダレは躊躇(ためら)いながら、ホワイトを彼の家、もとい診療所へと上げた。
比較的ましな一角へ、比較的ましな椅子を引っ張って、そこへホワイトを座らせる。ホワイトは控えている執事、スコッティを呼びつけると、持ち込んだトランクケースを開けさせた。

「これは我が領内で見つかったものです。……どう思われますか、先生」

それは人間の手だった。

手首より少し長く、引きちぎる様に切り落とされていた。ぐずぐずに腐り果て、至る所がぼろぼろに裂けている。最も奇妙なことは、その裂け目から羽のようなものがいくつも、まるで花芽のように突き出していることだった。
奇怪な異物が悪臭を放つ。ナダレは思わずその場で、吐き残した分をぶち撒けてしまうところだった。ホワイトは涼しい顔で、嘔吐(えず)くナダレを眺めている。本当に吐き戻してしまっても、彼女は少しも気にせず、ナダレを労ったに違いない。

「どうって……そうだな……。」

ナダレはもう一度、その羽の生えた手首をまじまじと見た。
皮膚から羽が生える、という症例はある。羽化症という名の死病だ。だが、あの病で生えてくる羽はゆっくりと成長する。髪の毛や爪のようなもので、勢いよく飛び出すものではない。だから、もしも羽化症だとするならば、こんな風に皮膚をぼろぼろに引き裂いて現れるはずがない。この奇妙な手首の場合はまるで、幾重もの羽が、皮膚の中から一斉に噴出したように見えた。
ナダレは爪を噛みながら、そう伝えた。ホワイトは深々と頷いた。

「見てわかるのはそれぐらいだ。全身見たり、解剖すればもっとわかることがあるかもしれないが……。」

現状のところ、それ以上、何も言えることはなかった。

「力になれなくてすまない。」
「そんな顔をなさらないで、先生。充分ですよ。」

項垂れたナダレを、ホワイトは優しく励ます。本当に、よく出来た人だとナダレは苦笑した。そして、ふと疑問が浮かぶ。

「……何でわざわざ()せに来たんだ?」
「私の知る限り、先生は一番の名医だからですよ。」

(いぶか)しむナダレに、ホワイトは微笑んだ。
ホワイトは、いつでもそう言った。ホワイトは本当に優しく、立派な人に成長していた。
それを聞くたび、ナダレは心臓が引き絞られるように感じた。彼女の父親を救えなかったのはナダレだ。なのに、ホワイトは一度も恨み言を言わなかった。いっそ(なじ)って、怒りと失望を向けられた方が、どれほど楽だったことか。
けれども、それはホワイトが「優しくて立派な人だから」で全てカタがつく問題だった。

彼女は、来た時と同じように颯爽(さっそう)と立ち去っていった。たかが手首の観察に、割に合わない莫大な謝礼を置いて。ナダレはそれを受け取って、いつものようにただ、金庫に突っ込んだ。
ホワイトからの金を、ドラッグに換えたことは一度もなかった。
そして、自分の価値を信じられたことなど。
ナダレには、一度もなかった。

眠るための酒を腹に入れて、そっとカウチに丸くなる。
次の朝が来なければ良いと、何度も念じながら。

翌朝。まだ朝の早い時間。無慈悲にも登った太陽に灼かれながら。
目を覚ましたナダレは、何の食べ物も家の中に無いことに気がついた。仕方なく外へ出る。コンビニなら、この時間でも開いているはずだ。いつものように、冬物のコートを羽織る。
外の空気は静かだ。残暑が厳しいとはいえ、朝の気温はどうやらずいぶんとマシになったらしい。ナダレにはその変化は、もはや感じ取れない。それでも、猛暑に(しお)れていた草花は随分と元気を取り戻した様に思う。

——ふと、誰かがナダレを呼んだ気がした。
気のせいか、と思いながらも振り返ろうとした背に、強烈な一撃が突き抜けた。あまりの衝撃に息が継げない。何かが乗っている。鋭く突き刺さる何か。視界の端で捉えたのは、高いピンヒール、編み上げのブーツ。覗く足は細く、膝は丸く愛らしい。

「あれ…? おかしーな……?」

鈴を転がすような、可憐な声がした。途端に脇腹に痛みが走る。転がされて仰向けにされたのだ、と理解した時には、そいつの顔が目の前に迫っていた。
燐光を帯びた蛇のような瞳が、ナダレをじっと見つめている。

——竜種(ドラゴン)

竜種は、姿形は人に似ているが、人ではない。
その少女のような見た目をした人でなしの獣は、ぐっとナダレの襟首を掴んだ。

「……お医者さん? もしかして全然関係ないヒト? でも臭いがする……どういうこと?」

ナダレの匂いを嗅ぎながら、竜種は独り言のように呟く。唇を動かすたびに、その隙間から物騒な牙が(こぼ)れた。

「んー、よし、面倒だ。殺そう。」

……竜種は人ではない。
その倫理観すらも人とはそぐわない。彼らの世界は強者生存である。そして、この国ではおよそ人権と呼べるものを保障されていない。竜種が生きる術はほとんど、闇の世界にしか存在しない。生きて意思を持った爆弾。それが竜種というものだ。
だから、彼らはやると言えばやる。ナダレの命は今、俎上(そじょう)で品定めをされている。
この竜が、何を言っているのかわからない。言葉は分かるのに理解ができない。否、理解させられている。自分の一生はここで終わりだと。本能が痛烈に訴える。勝手に涙が(あふ)れて来る。ナダレは必死に頭を巡らせた。何か言わなければ。でなければ本当に殺される。何か、何か——!!

「——ぅおねがいしますっっ! 何でもするから殺さないでくださぁい!!」

世界で一番情けないタイプの命乞いが、つい口から飛び出していた。
心底から自分自身に失望した。終わった。カスの人生。くだらない。恥ずかしい。穴があったら入りたい。むしろ逆に。早く殺して埋葬してくれ。そんな自罰的な走馬灯が駆け抜ける中、ナダレは自分を襲うはずの痛みがいつまでも降って来ないと気がついた。
……いつまでも、殺されなかった。

恐る恐る目を開けると、竜種は物騒な瞳をきらきらと輝かせながら、ナダレを見ていた。

「すごい! 初めて見た!! 本当に本物の命乞いだあ!! ねえ! おじさん本当になんでもする? じゃあボクの家畜になる!?」

かちく?
言われたことの意味が飲み込めなかった。かちく……家畜か。ペット、みたいなことだろうか? SM? 女王様的な? ナダレがぽかんとしていると、竜種はすんと唇を尖らせる。

「え、死ぬ?」
「やらせてください何でもします」

即答。

「やった! 決まり!!」

訳がわからない。まだ幼いその竜は、男とも女ともつかない不思議な見た目をしていた。若草色のやわらかな髪。毒々しいほどの金色の瞳。可愛らしく悪戯っぽい猫のようでありながら、どこか凶暴な虎のような顔立ち。そして、竜種の特徴である長い耳は、短く切り落とされていた。

「ボクはノエル! お前のご主人様になった!」

楽しそうに白い頬を染めながら。
ノエルはナダレの上から退いた。くるりと回ると、長いスカートのようなコートがひらりと揺れる。よくよく見れば、何かの制服のような出立ちだった。
ナダレはゆっくりと身を起こす。ここで逃げ出したところで、竜種なら造作もなくナダレを殺せる。
ひとまず、家畜に徹しよう。……家畜ってどうすればいいんだ? 草とか食めば良いのだろうか?

「あの……ノエル、様?」
「ノエルちゃん、とか、可愛く呼んでいいよ」
「ノエルちゃんさま……家畜って、何すれば……??」

愛想笑いを浮かべながら問いかけると、ノエルの瞳がすっと冷えた。口元は笑っているが、ギラギラとした金の瞳は笑っていない。そんなことも分からないのか、と言わんばかりの顔。
慌てて訂正する。

「あっ大丈夫です自分で考えますそりゃもう靴とか舐めます徹底的に舐めます」
「はい、偉いねえ!」

ノエルはにっこりと笑んで、ナダレに手を伸ばした。よしよしと頭を撫でられる。これは家畜というか……犬的なあれでは?
やっていけるのか? こんなので……。

(続く)