#6 ストップ・クライング・リチウム・ハート・アウト

舌を貫いた針の痛みは、ずきずきとナダレを苛む。そうやって痛みに晒されていると、ナダレはどうしても、思い出したくないことを思い出す。冷たい床に身体を擦り付けながら、情けなく涙を流しながら、ナダレはその記憶の揺らぎに必死に抵抗した。嫌だ、思い出したくない、と思えば思うほどそれは鮮明に記憶の底から浮かび上がってくる。ああ、どうして——いつも、こんなことになるのだろう。

ナダレは幼かった頃、誰かに愛された覚えがない。娼婦であったナダレの母は、ナダレを産み落としただけで、まともに世話をしなかった。すぐにどこかの施設に入れられたから、顔も覚えていない。母はその他にありようが無かったが、彼には、父親と呼べるものが3人いた。
ひとりは血の繋がった実の父だ。母を孕ませ、責任を負わずに姿を消した男だ。どこの誰なのかも知らない。母と同じで、まるで印象がない。
ふたり目は、彼を引き取ったシノノメという老紳士だ。ナダレのような孤児を集めて養育する、孤児院を運営する立派な紳士であった。シノノメは若くに先立った妻をいつまでも愛していた。彼女との間に子がなかった代わりに、彼は多くの子どもたちに未来を授けることにした。愛情深く優しい人だった。ナダレが初めて愛情というものに触れたのは、シノノメがいてくれたからだ。そして、ナダレが医学の道を志したのは、その彼の体が弱かったためだった。
ところが、大学へ進んだナダレを待っていたのは、激化するトヲラスとの戦争、その戦場への徴用であった。

ナダレの脳裏に炎がゆらめき、鉄と泥と火薬の臭いが立ち込める。人が燃える臭い。湿った風の匂い。送られた前線のジャングルで経験した物事の全て。

初めは、単に傷病兵の世話をするだけだった。ナダレはまだ、医師ではない。そのタマゴにすぎないものだ。だからこれはほんの実習にすぎないと、ナダレも、同じように連れて来られた誰も彼もが信じていた。決して、人手不足などではないのだと。
ナダレはそれでも、目の前の命に責任を持とうとした。まだ動けるはずもない兵士を働かせようとする上官に、勇敢にも食ってかかった。それがいけなかった。前線へ送られてはじめて、自分がまだ優しい場所にいられたのだと知った。

必死に働いた。ありったけの傷を()い、ある時は切り落として命だけでも助けようとした。
敵兵のトヲラス人たちは、ひどく追い詰められていた。アルスが竜種を戦線に投入したためだ。彼らは疲れも知らず、また躊躇(ためら)いも知らなかった。きっと、ノエルのように命乞いなど聞かなかっただろう。圧倒的な戦果を上げながら、彼らはトヲラス人をジャングルの奥の奥まで追い詰めていった。
そして食い詰めたトヲラス人たちは、ヤケになり始めていた。
テントを急襲された時の、驚いたような呆れたような彼らの目を思い出した。そこには怪我人しかおらず、動いているのはほとんどナダレだけだったのだ。ナダレが撃つな、と声を上げるより先に、機銃(マシンガン)の掃射が飛んできた。まさかそんな前線に医療従事者が出ていて、人命のために働いているとは思わなかったのだろう。腕章を掲げたナダレを見ても攻撃の手を止められなかったことは、想像に難くない。

ナダレは、唯一生き延びていた男を背負って、燃えるジャングルをふらふらと歩いていた。ナダレも弾傷を受けていたが、背負った彼に比べれば擦り傷だ。それよりも、誰か一人だけでも助けたかった。ナダレはその時も、このままでは養父に顔向けはできないと気張っていたのだった。そうしなければ、自分がなぜ生まれてきたのか、それすらも霧散してしまう気がしたから。

置いていけ、と背中から、ひどく弱々しい声がする。ナム、というその衛生兵は、何度もそう言った。それでも生きていた。
死ぬのは本望だから構わないと言った。体の左側がほとんど削げてしまっていたが、それでも、まだ、生きていた。
ナダレにとってナムが、どれほどの希望で、絶望であったことか。
どうやって、本陣のテントまで戻ったのか思い出せない。本陣を受け持っていたホワイトの父、スノウが急襲に気付き、救援を送ったらしいと後で知る。
目が覚めた時にはナムと並んで寝かされていた。ナムの手傷は酷かったが、生きていてくれた。
それだけでも、よかったのに。

その時のことを忘れられない。

見慣れない筆跡の手紙を受け取った。それは、シノノメの屋敷に仕えている使用人からのものだった。ひどく嫌な予感がした。震える手で開封した手紙は、シノノメの訃報を伝えるもので——それも、随分と以前の日付を書き込まれていた。
ナダレが前線にいる間、その手紙は届くことなく預かられていた。それに気づいた時には、ナダレは最早、子供のように泣きじゃくることしか出来ずにいた。スノウはナダレが落ち着くのを待ち、そして、この配属は適切ではないと説明した。個人的な懲罰のためにナダレが前線へと送られた事に、彼は憤っていた。そして、自分がナダレの後見人となることを提案した。助けられる限りの命を守ろうとしたナダレに、スノウは恩赦を与えようとしたのだ。

ナダレはそれを受け入れられなかった。
ナダレは、前線でただ無力に苦しむだけの、誇り高き医学者ではいられなかった。そうしていれば良かった。それでも、助けられるだけの生命を救うために、どうにか生き延びるために。

ナダレは自分自身にも、医療用麻酔を大量に打っていた。

「俺みたいなものが、そんな恩赦を受け取れません」

震える声で話しながら。ナダレはスノウに自分の、ずたずたに荒れ果てた肘の裏を見せた。あざのような注射の痕がいくつも残っていた。たとえ、そうしなければ居られなかったことでも。神に(そむ)き、法に(そむ)き、ナダレがそうしたのは心が弱かったせいだ。ナダレは自分に同情できない。今だって、妥当だったと思わない。だから、その気持ちは受け取れないと断ろうとした。だが、スノウはまるでそんな事を意に介さなかった。

「これまで、よく頑張った。」

そして、ナダレの癖のある栗毛をやわらかく抱く。厳格で知られるスノウのその態度が、痛いほどに突き刺さった。ナダレは流れ落ちる涙を止められずに、ただされるがまま、暖かい掌に抱かれていた。二人目の父を失ったけれど、三人目の父になってくれる人が現れた、その日。その時。
それはいつまでも、忘れられない。痛く苦く、そして暖かい記憶だ。

結局、ナダレとナムは終戦を、病院のベッドの上で迎えた。ナムは肉体的に生死の境を彷徨(さまよ)っていたが、精神的に疲弊し切ったナダレの状態も、決して良いとは言えなかった。
戦争が終わった後、前線へ送られた竜種たちは。軍法会議にかけられてほとんど銃殺されたと聞く。まさしくトカゲの尾として切り落とされたのだった。あのときのテントの生き残りはナムひとりだった。ナダレはあの戦争で、何を為すこともなかった。
スノウはナダレを本国へ送り返し、自らの屋敷で療養させた。そしてそのまま、屋敷付きの医者として勤められるようにした。医師免許すら、ナダレは持っていないのに。
だからスノウの主治医と言っても、することは殆どが茶飲み話だ。元々心臓の強くない家系らしい。スノウの心臓の状態も(かんば)しくなく、いくらナダレが天才的な外科の腕前をしていたとしても、手の施し用がなかっただろう。そしてある時、スノウはナダレに賭けを持ちかけた。すなわち、手術を受けるか否かについて。
ナダレは、そうしない方が良いと思っていた。成功すれば御の字、失敗して当然の厳しい条件。スノウは成功に賭けた。これからも娘の将来を見守りたいから、と。ナダレはこれほど、自分が賭けに負ける事を祈ったことはない。

果たして、ナダレはその賭けに勝ってしまった。
だからスノウの心臓を止めたのはナダレだ。ホワイトの父を殺したのはナダレだった。

ナダレは、ナムの元を訪ねた。

誰かに罰して欲しかったのかもしれない。あるいは、許されたかったのかも。ナムは左眼、肩から先の左腕、膝から下の左足を失っていたが、生きていた。生きてナダレを睨みつけていた。
彼は死ぬつもりで戦場へ行ったのだ。実父からひどい暴力を受けていたナムは、同じく暴力に晒されていた母の自殺で事が知れ、ようやく保護された子供だった。それ以来彼は自分が生きている意味を理解できずにいたのだった。ナダレと同じように。

彼はナダレを恨んでいた。それは、ナダレが無理矢理自分を救ったせいではない。救っておいて簡単に投げ出そうとするナダレを恨んでいた。ましてやナダレが簡単に罰されることなど、ナムは許さなかった。吐き捨てるように言った。

「お前はゆっくり、苦しんで死ねよ」

ナムはそう言って、それきりナダレとは話さなかった。
期待していた痛みも、罰も、何ひとつ与えられることはなかった。ナムは痛烈に訴えていた。生きろ、と告げていた。
以来ナダレは。死ぬことも生きることもできずに、薬と酒に溺(れながら不恰好に生き続けている。柔らかく死に続けている。ただそれだけの、生ける屍の日々——。

ナダレが目を覚ました時、いつの間にか舌の針は抜かれていて、ノエルは(かたわら)で猫のように丸くなっていた。
自分の袖口が濡れているのに気づいた。きっとそれを枕に、泣きながら眠りについたのだろう。あまりの無様さを見かねてか、あるいは泣き声を聞きかねてか。ノエルは針を抜いたのだ。
まだ口の中は血の味がした。

「お前はゆっくり、苦しんで死ねよ」

ナムの言葉を、何度も頭の中で繰り返す。彼はもう、二度と口を利いてくれはしないだろう。ナダレを(ゆる)すことはないだろう。けれど、ノエルは違う。話したくなったら話せ、とノエルは言ったのだ。
小さな体に触れて、起こしてしまわないように。身動きせずにただ、見つめた。もう一度息を吹き返したいと思った。

ノエルが目を覚ましたら。
もう少しきちんと、話をしたい。

ナダレはもう一度目を閉じた。朝の柔らかな日差しが、二人を照らしていた。

Nadare Nam Noelle

(続く)