#8.シンパシー・オル・シチュエーション

薄暗いガレージで悪態をつきながら。
呼びつけられたナダレは、必死にオルティの傷の治療と整復洗浄をしていた。抗生剤と輸血を山のようにぶち込みながらである。

「何をどうしたらこうなるんだよ死ぬか死ぬのか大馬鹿者じゃあとっととくたばれよ俺の身にもなれよふざけやがって!!」

暴言が止まらない。しかし、作業の手も止まらない。
元々、軍医として前線で務めていた男だ。頼りなさげなのは顔だけで、手技は神業である。
連れてこられた時は、使い物になりそうもない顔で指先を震わせていた。しかし、オルティの状態を目視して、火薬が焦がした肉の臭いを嗅ぎ取ると。ナダレは懐に忍ばせたスキットルから酒を一口飲んだ。それで手の震えはぴたりと止まった。今そこにいるのは震えるアル中ではなく、()わった目をした職人のような男だ。

「どーーーせコイツが焼けって言ったんだろ、っんとにこの大クソ馬鹿ヤクザめ……!」

社員の何人かにみっちりと3周ほど手を洗わせて、ナダレは彼らにオルティを押さえているように指示をした。

「これだけの傷だ、気ィ失ってても反射は出るからな。……お前らのボスを片腕(カタワ)にしたくなきゃ、死ぬ気で押さえとけよ!!」

ロータスは、エヴァグリーンが担いできた狙撃手を検分していた。そちらも両腕が砕けて顔面をボロ雑巾のようにされていたが、オルティに比べればよほど軽傷である。そのため、暴れ出さないように拘束されて放置されている。

「ライドウ一門の奴だろう、腕のいいスナイパーがいると聞いたことがある……。」

カマロは相変わらず震えていた。部屋の主人であるのに、隅に追いやられて膝を抱えている。
エヴァグリーンははたと気づく。

「……お前ら、カマロを殺しに来たんじゃねえのか」
「あのなあ。何にも知らない実行犯(パシリ)を殺してなんの意味があるんだよ。」

ロータスは呆れたように、エヴァグリーンの深い草色の頭を小突いた。

「俺は、てっきり……。」
「とはいえ、やったことはやったことだ」

ロータスはカマロの方へ向き直った。

「利用されただけで、理不尽と思うだろうけど……君、田舎に引き取ってくれた人が居るんでしょ。そこに帰りなさい。当分、そこで隠れていた方がいい」

驚くエヴァグリーンに、ロータスは小声で耳打ちする。「オルティさんもそう言いに来たんだよ」、と。エヴァグリーンは、未だ治療中のオルティのほうを見た。何でそういうことを始めに言わないんだ。
カマロは膝に頭を埋めたまま、ぼそぼそと話す。

「……俺がその、ライドウの人たちと手を組んだりしたら。って思わないんですか。」
「君にそんな度胸があるとは思えない」

ばっさり。カマロは不貞腐れたように、何も反論しなかった。

それからオルティは、エヴァグリーンの部屋に担ぎ込まれた。ガレージよりは良いだろうというナダレの判断だ。どのみちナダレはこの後数日、つきっきりでオルティの傷を洗い続けなくてはならない。吹きっさらしのガレージよりは、まともな屋根とバスルームのある環境のほうがよほどマシだということだ。
そして、今度はエヴァグリーンのほうが、自身の部屋の隅でうずくまる羽目になった。

「知らねえぞ、部屋ごと爆破とかされても」
「そんな手を使ってくる奴なら、もう事務所ごと爆破してるだろ」

それもそうだ。意外にナダレは頭も回るらしい。

オルティが目を覚ましたのは、狙撃からまる2日後だった。
それを見たナダレは深々とため息を吐くと、床の上で小さく丸まった。

「何かあったら起こせ、俺はちょっと寝る」

言うなり寝息を立て始める。よほど疲れたらしい。

「……医者ってみんなああなのか」
「ナダレだけだぞ」

オルティは痛みに顔を顰めていたが、エヴァグリーンが心配そうに覗き込んでいるのを見ると、唇の端だけで笑みを作って見せた。

「心配をかけたな」
「ロータスに言ってやれよ。ガキみたいに泣いてたぞ」
「怪我のことだけじゃない。お前には謝らないとな、と思ってたんだ。」

オルティは目を伏せた。

「すまなかった。……それと、ありがとう」

長雨の過ぎた外の陽光が、カーテン越しにその横顔を照らす。少しやつれてはいたが、オルティは相変わらず美しかった。白金の髪がはらはらと、空調に揺れて零れ落ちる。
それは生命の瞬さでもあったが、もっと死に近い、静謐(せいひつ)な美しさだと、エヴァグリーンは感じていた。——こいつはどれだけ、他人のために自分を削れば気が済むのだろうか。

「……悪いと思ってんなら、とっとと治って出てけよ。つか、お前の部屋でもいいだろ」
「俺にもプライバシーがあるんで……」
「どのツラ下げて言ってんだよ」
「それに、お前は俺の護衛でもある。きっちり仕事してもらうぞ」

軽いやりとりは、エヴァグリーンにカマロを思い出させる。カマロはあの後、ロータスが送って行った。須藤(すどう)飛蝗(ばった)衆、という運び屋を使って、彼の田舎に届けるらしい。業界一の信用を誇る運び屋だというが。

「そんな顔するなよ。運び屋は信用商売だからな。荷主(にぬし)を裏切るようなことはしないさ」
「……俺まだ何にも言ってねえぞ」
「全部顔に書いてある。お前、本当に分かりやすいよな」

カマロも、そう思っていただろうか。彼は手荷物だけを持って帰って行った。連絡先も聞けなかった。そのほうが、彼を商会とは繋がりのない者だと思わせられて、安全だから。
彼のバイク、パイルダーといくつかのCDは、エヴァグリーンが貰い受けることになった。

ベッドには怪我人であるところのオルティを寝かせて。エヴァグリーンは夜中じゅう、ぼうっと目を覚ましていた。竜種は、厳密には睡眠を必要としていない。眠るのはなんとなく、そうしないと座りが悪い気がするからだ。オルティが微かに呻き声を上げた気がして、エヴァグリーンはベッドのほうを見た。呼吸が荒い。傷のせいか、少し熱があるらしい。

竜種なら、撃たれても。仮に本当にカマロが撃たれていたとしても。心核を外していれば、それは致命傷にはならない。オルティの負傷は、完全に無駄な事だったかもしれない。もしもの話だというのは分かっている。オルティは最悪を見越して動いていると理解している。同じ竜種であるエヴァグリーンだけが、『竜種は撃たれても簡単に死なない』と知っている。オルティがそれを知ってなおカマロを庇ったのなら、それはオルティがよほど、自分の命を軽く見ているということになる。
汗を拭ってやっていると、オルティは目を開けた。

「……悪い、喧しかったか」
「別に」

ベッドの淵に腰掛ける。水のボトルを渡してやると、オルティは器用に起き上がってそれを飲んだ。

「……大丈夫なのか」
「なに、……しばらく肩が上がらないだけだ。心配ない」
「そうじゃねえよ。怪我のことじゃねえ……クソッ、うまく言えねえ」
「なんだ、心配してくれてるのか? 俺をブッ殺してやる、んじゃなかったのか?」

電話のことを根に持たれている。
……そうやってすぐに、会話の筋道をずらしてくる。エヴァグリーンは、それが分かるほどオルティに馴染んでいた。

ナダレは往診に切り替えて、ロータスに伴われて毎日やってきた。オルティはその折に仕事の指示をしていた。ナダレは往診にぐちぐちと文句を言いながら、ガーゼを変えた。お前が来いよ足は無事だろうが、と。平和も平和で、驚くほど何事も起こらない。
ナダレは後ろで見ている、エヴァグリーンとロータスを叩き出した。邪魔だとか、不衛生だとか言いながら。そして、ふたりきりになってようやく、苦々しげにオルティに告げた。

「ダメだな、経過が悪い。遅すぎだ。」
「やっぱりか」
「熱は?」
「少しだけ」

許容範囲だ、とナダレは頷く。敗血症を引かなかっただけでもありがたい。

「……薬は、いつまで断てるかな」
「まあもう、2、3日様子を見る。吐き気とか、どこか痛いとかは?」
「むしろ痛みは治まってる」
「だろうな。休薬中みたいなもんだ」

ナダレはてきぱきと処置を済ませる。珍しく、彼は酒もドラッグも入れていないらしい。ガーゼを替えて、包帯を巻き直す。首の傷も同じように。ナダレは作業をしながら、ためらうように尋ねた。

「あの竜には、言ってあるのか?」
「エヴァグリーンに? ……何でだ?」
「何でって……まあ、言ってないんだな。商会の連中にも言ってないんだろ。あのなあ、そういうの止めろ」

オルティは、同じことを何度も聞かされている。ナダレはいざという時、オルティが誰のことも頼れないと心配しているのだった。

「……妹さんのことか」

ナダレは確認するでもなく、呟いた。

「復讐なんか望んでないと、そう言いたいのか」
「さあな。俺なら復讐してほしいと思うかも。けどオルティ、お前が無理するのはあの子のためじゃないだろ。だから俺は気に入らない」

オルティは何も答えない。ナダレが伊達や狂酔ではなく、真摯(しんし)に、医師として話していると分かっているからだ。それでも。オルティは左頬の向かい傷を、そっと親指でなぞる。

「……やっと手がかりを掴めたんだ。まだ、始まってもない。俺の仇討ちはここからなんだよ……。今やっと、幽霊船に手が届くところなんだ」

ナダレは、オルティの鋭利で静かな横顔を見ている。今にも命を使い果たして、燃え尽きそうな眼差しを。それ以上、ふたりは何も話さなかった。

「歳食うと、何でも治りが遅くなるよな」

数日もすれば、片腕が使えない割には、オルティはかなり活力を取り戻していた。
仕事に滞りのないように、オルティは幾らかのデバイスを事務所から運ばせた。医療機器も含めて、エヴァグリーンの部屋は要塞のようになってしまっている。機材が普通に邪魔だ。このガジェットオタクめが。
早く治して、出て行ってもらいたい。冗談抜きで。エヴァは機材の向こうのオルティに声をかけた。

「……おい、メシ買ってくる。何がいい」
「栄養バーでいいよ」
「却下」

片手なんだからしょうがないだろ、とオルティは我儘を言っていたが、無視した。前にロータスが奢ってくれたサンドイッチにしてやる。甘ったるいコーヒーつきで。

街は随分と肌寒くなった。
エヴァグリーンがオルティと出会ったばかりの頃は、まだ夏の熱気が残っていた。けれど、今はもう上着なしではいられない。羽織ったジャケットの首元までチャックを引き上げ、耳が見えないように、フードを被る。じきに街には雪も降り出すだろう。
どうしていたか、思い出せない。
以前はどうやって、この寒い日を乗り切っていたのか。こうして暖かいコーヒーを買うことなんて……それも他人に分け与えるためにそうするだなんて、一度も考えたことはなかった。

それも全部、オルティと出会ったせいだ。

出会って良かったなんて言う気はない。そんな事を言っても調子に乗らせるだけだろう。
帰ってドアを開ける。相変わらず機材の低い稼働音がしているが、オルティの姿がなく、水場のほうの灯りが付いていた。

「おい、メシ」

呼びかけても返事がない。コーヒーが冷めるだろうが、と覗きに行くと、オルティはそこで(うずくま)って、小さく呼吸していた。

「どうした……傷、痛いのか」

近づくと、オルティの手元が濡れているのに気づく。そこには血と、なんだかわからない液体でぐしゃぐしゃに濡れて(しお)れた、羽毛のようなものが握られている。

「……何だ、それ」

オルティは微かに笑った。

「クソ……よりによって帰るのが早い……」
「寒かったんだよ。で、何だそれ」

答えはない。ただ、オルティの呼吸は浅く早い。何かが喉に(つっか)えているような、呻くような咳だけを繰り返す。エヴァグリーンは、なるほど、と思う。そしてオルティの頬に触れると、弱々しく抵抗する口の中に、指を突っ込む。

「出せ」

オルティはまだしばらく抵抗していたが、結局、そのままエヴァグリーンの服を汚すことになった。

その後、ナダレを呼びつけて面倒を見させ、オルティの容態は落ち着いた。水場で脂汗をかいていたころに比べれば、ではあるが。相変わらず呼吸は浅く、()せるような咳を繰り返す。それが傷に障ったのか、首筋も肩口も、血を滲ませている。
エヴァグリーンは、ナダレ以外の誰も呼ばなかった。他人に隠したいのは、倒れていた時の態度で分かる。

「あれは、何だ」

エヴァグリーンはナダレを問い詰めることにした。ナダレは少し躊躇(ためら)ったようだが、観念したように唇を開く。

羽化症(うかしょう)って病気だ。……皮膚表面の細胞が羽毛の芽に置き換わる。内臓もだ。……これ以上良くはならない」

それは、死病である。
羽を持たないトヲラス人は、遺伝的にこの病を発症しやすい。現代では、翼に変わるはずだった遺伝子が狂った結果だと考えられている。しかし、トヲラス人は伝統的にこれを、罪科(つみとが)への罰であると。そうでなければ理不尽だと認識していた。それはまさに、血の呪いであった。
投薬は身体への負担も重く、ただ命をわずかに長引かせるだけだ。いずれにせよ、いつかは苦しんで死ぬことになる。

エヴァグリーンはそれを聞く前から、なんとなく、そんな気がしていた。ずっとおかしいと思っていた。どれだけの覚悟をしていても、虚勢を張っても。死に際した人間は、わずかでも生きようと(もが)くものだ。それは欲求というよりも、反射のようなものだ。エヴァグリーンは、殺し屋としてそれをよく知っている。
オルティにはそれがない。量り売りするように淡々と自分を切り取り、誰かのために使う。単なる献身とは違う。ただその方が命を有効に使えるから、そうしている。

ゆっくりと、柔らかく死に続けているから。

オルティにとって、死に向かうことはもはや、異常事態ではなくなっている。それだけのことだ。驚きはしなかった。むしろ、納得がいった。

「あいつは、普段は薬で症状を抑え込んでるだけだ。だが、……ええと、副反応じゃわかりにくいか。その薬は、血を止まりにくくしたり、代謝、つまり身体が治ろうとするのを遅くする力もある。だから今は傷の治療を優先して、薬を止めてる。それで病気のほうの症状が活発なんだよ。」

ナダレは頭を掻いた。エヴァグリーンが黙りこくっているので、意味が伝わっていないと思ったのか。それとも、責められていると思ったのか。

「本当に、治療の甲斐のない病気だ。投薬は激痛だし、患者は死ぬと決まってる。……悪いが俺には何もできない。治してやれないし、休薬も投薬の再開もあいつの意思だ。俺にできるのは、薬の量を適切にするぐらいのことだ」
「……そうか。」

エヴァグリーンは、それを肯定も否定もしなかった。ナダレはいつものように悪態をつかず、神妙な顔つきのまま、黙って帰って行った。

静かになった部屋で、エヴァグリーンは横たわるオルティを眺める。
怪我をしていないほうの右肩を下にして、薄くタオルケットを羽織って。その背には、トライバルの翼が畳まれている。それは、翼を持たずに生まれてきた子どもたちのために贈られるものだ。年齢を重ねるたびに描き足され、彼らが無事に大人になれば、その背には立派な翼が備わる。そうして羽化症を遠ざけようと、トヲラス人は連綿と祈り続けている。
そっとベッドに近づいても、オルティは身じろぎひとつしなかった。それほど体力を失っているのか、それとも、エヴァグリーンを警戒することをやめたのか。白金の髪を手に取る。それはさらさらと流れて、エヴァグリーンの指をすり抜けて行った。

首筋にそっと、鼻先を寄せる。
いつものように、香水や煙草の(かおり)はしない。ただ、薬品と血の匂いがするだけだ。……香水は、治療薬の匂いを誤魔化すためだったのだと、その時ようやく気がついた。

食事が嫌いなのかと思っていた。純粋に、食べられなかったのだ。甘いものが好きなのかと思っていた。機能を失いつつある舌が、味の濃いものしか判別できないだけだった。手袋で指先を覆っているのは、治療薬で爪や手指が荒れてしまうからで。潔癖でいようとするのは、風邪程度でも死にかけるからで。——崩れ落ちそうな身体を必死に、ボスとして相応しく見せようとしていたのだと、知ってしまった。

エヴァグリーンは、それを暴いてしまった。

オルティのために買ってきたコーヒーは、もはや冷たくなっている。それを流し込む。暴力的な甘ったるさが、どろりと腹の底に落ちていく。
彼が作り上げた、オルティ・クラヴィアドという砂糖菓子の虚像。子供騙しのシロップ薬。
それを剥ぎ取られたオルティは、ひどく弱々しく、痛々しかった。

冬が本格的に訪れる前。オルティは通常業務に復帰した。とはいえエヴァグリーンの部屋に機材を持ち込んで働いていたわけで、休んでいたというのもおかしな話ではある。
薬を再開するときになって、エヴァグリーンは一度だけそのことを聞いた。投薬は激痛だ、とナダレが言っていたから。
点滴を受けているオルティに、痛むのか、と尋ねると、オルティは笑って、「少しだけ」と言う。

「もう慣れた。10年もやってりゃな」
「……慣れるなよ、そんなもんに」

エヴァグリーンが意外に、真面目な声を出したからか。オルティはそれ以上軽口を叩くことはしなかった。代わりに。

「俺からも、ひとつ聞きたいことがある。お前と、イーデンの関係だ。……ただ幽霊船を探すだけなら、聞かなくてもいいことだった。だが、事情が変わった。」

普段の説明の無さからすれば珍しいほどに、オルティは整然と手札を並べていく。エヴァグリーンにも分かりやすいように。

「お前に頼まれる前から、俺は訳あって、イーデンの手がかりを追ってる。多分、お前が初めに俺を殺すように依頼されたのは、それが理由だ。お前に依頼を流した奴は、お前がイーデンの関係者だとは知らなかったんじゃないか?」
「……」
「……話したくないことか?」

オルティは、エヴァグリーンが沈黙するなら、無理に話せとは言わないだろう。今のエヴァグリーンにはそれが分かってしまう。
躊躇(ためら)いながら、唇を開いた。
ごぼごぼと、泡沫の浮かび上がる音が、今も耳の奥で聞こえる気がする。

「……俺は。そこで生まれた。」

竜種は、卵として世界に産み落とされ、日を開けて孵る。それが一年二年になることもある。だから、親が子の面倒を見ないことはざらであり、それこそが、彼らが社会的な動物として発展できないことの証左でもある。
そして、誰から名付けられることもなかった竜種は、自身の生まれた場所や、育った場所を自らの名乗りとする。
エヴァグリーン。祝福の常若木。

楽園より来たりし、いずれ楽園へと帰る竜。そうエヴァグリーンは、自分自身を定義したのだ。

楽園の名を冠したその船で、エヴァグリーンは孵った。黒曜石のような立派な殻をしていたその卵は、その日、価値を失った。孵ってみれば何の変哲もない、ただの竜種であったのだ。蒐集船が載せるものは、価値あるものだけ。集めるべき、蒐めるべきものだけ。
エヴァグリーンは、波間に流される時になって、ようやくそれが世界ではないと知った。それはただ巨大な船である。楽園でなく、世界ですらない。それが都市伝説に語られる蒐集船だと知ったのは、比較的後になってからのことだ。

「あの船を沈めたい、って言っただろ。……売れる物なら何でも売る連中だ。たとえ卵の殻だろうが。奴らが今ものうのうと、何かをカネに換えてるなんざ許せねえ。」

エヴァグリーンの言葉に、オルティは頷く。オルティも船を沈めることに異存はない。
オルティの知る、イーデンの都市伝説はこうだ。
それは価値のあるものを蒐める船である。価値とは何か。初めはただ、「世界のためになるもの」を集めていたという。眉唾物のアーティファクトや、人に知られてはならない技術。それを集めて洋上に隔離することで、世界を守っているのだ。
またある伝説では。イーデンは高価で珍しいものを蒐め、オークションにかけるのだという。世界に名だたる金持ちが、珍しいものを買い漁る。その(ハク)付けのために「世界のためになるもの」や、「ありえないアーティファクト」なんて伝説を流している。その実態はただカネと欲の楽園であるのに、と。

「俺も、あんな物が実在するなら。何が何でも止めるべきだと思っている。現代の奴隷船だ。人攫いでも平気でやる。……俺の妹が、そうだった。」

オルティの妹、タリー。彼女は、『羽のある』トヲラス人であった。トヲラス人の中でも2割に満たない『天狗』(シエルトリアナ)は、基本的にトヲラスの国土から出ることはない。アルシァラのような例外はあるが、大抵は宗教的な理由から、神学の道へと進む。
しかし彼女は、兄の留学に連れ立って、アルスという国を訪れた。両親の反対を押し切ってまで。タリーはそれだけ兄に懐いていたのだった。

そして故国を離れたトヲラスの『天狗』が、彼らの目には価値あるものとして留まったのだ。

「攫われそうになったあの子は、……きっと必死で抵抗したんだろう。終いには羽を切り落とされて……発見された時には、命も危ない状態だった。それでも、生きていてくれた。」

オルティはただ、悼むように目を閉じる。頬の傷を、なぞりながら。

「俺は妹を救えなかった。……これは、タリーが俺につけた傷だ。あの子は目に映るもの全てに怯えていたから。それで、そのまま、……。あの子は人として扱われなかったせいで、自分は人として、生きる価値がないと……。」

ふう、とため息を吐いて。オルティは自分のジャケットを指差す。それは肩に穴の空いたままだったが、オルティが手元に置いておきたいと言ったので、エヴァグリーンの部屋に運ばれて、血に汚れたまま壁に架けられていた。
エヴァグリーンが言われるままにポケットを探ると、二重になった内側の袋に、小さなカードが入っていた。どこかのIDのような、顔写真の入った、擦り切れたカード。
エヴァグリーンは、それを見た時に。強く心核(しんかく)が脈打つのを感じた。その顔に、見覚えがあった。泡沫の音が一層強く浮き上がる。

「俺はこいつを知ってる……!!」
「それは、あの子が奪って、隠していたものだ。……俺の道標だ。それが、お前と引き合わせてくれた。珍品オークションは真実か……。全く……。」

オルティはくつくつと笑う。バイカラーの瞳がぎらついていた。獲物に食いつく寸前の鮫のような、凶悪な笑みだった。

「……俺は、その黒曜石の殻を見たことがある。3世のことを覚えているか。……彼が持っている。」

(続く)