#6 ストレンジャーズ・ラン・トゥ・ザ・ヒル

カジノでの襲撃事件以降、エヴァグリーンはオルティの行く先々に、何処へ行くにも付き従った。夜間も泊まり込みの方が良いのでは、と社員たちは相談したが、オルティは「気持ちだけ受け取る」と笑顔を見せた。
そもそもとしてオルティは、住所をロータスにしか(しら)せていないのだ。そして、朝晩はロータスが送迎を務めている。こうも徹底していれば、もはや『知っている人数』を増やすだけでもリスクだ。

「心当たりとかあんのか?」

エヴァグリーンの質問には、オルティは顰め面を見せた。

「心当たりなんか山のようにある。お前は俺の仕事を何だと思ってるんだ?」
「あーはいはい。ケツの毛の数まで知ってる情報屋さんだったな。悪かったよ」
「下品な奴め。どれ、お前の尻の毛の濃さも見てやるか」

そんな軽口を叩き合いながら。何の手がかりも掴めないままに、ただ日々だけが過ぎていった。

事実として、オルティは情報屋としてひどく有能らしい。シュワルツをして『魔法使い』と呼ばせる、その手捌(てさば)きと推理は卓越(たくえつ)していた。さぞ政治家先生や軍警察を困らせているに違いない。
逆に言えば、オルティが有能な情報屋であるために。クローバー貿易商会は、マフィアのシンジケートで強く中立を保っていた。シュワルツの率いるパンドラ・ボックスとは同盟の関係にあるが、その他の組織とも敵対している状態、というわけではない。無論、その中立状態をこそ邪魔だと考える組織も、なくはないだろう。

()いだ世界は、不気味なほど静かで。
しかし、商会の誰ひとりとして、その静けさを信じてはいなかった。何かが起こる前から、どこかひりひりとした焦燥(しょうそう)感のようなものが、社員たちには(まと)いついていた。だというのに。それは起こった。

——その社員は、事務所のビルの壁面に貼り付けられた状態で見つかった。

アルウェズンという名の彼は、まだ若い『執行』のメンバーであった。商会への加入も、エヴァグリーンより少し早い程度だ。喧嘩っ早く、頭に血が昇りやすい。衝動的に暴力を振るうこともあった。だからこそ、そんな自分を拾い上げて育てようとしてくれた、オルティへの忠誠心は非常に強かった。
そう、あの日。商会を初めて訪れたエヴァグリーンが、依頼人の首を持って現れた時。真っ先に食ってかかり、殴り飛ばされたのがアルウェズンだった。

それが、ビルの高い壁面に貼り付いている。無数の黒い鉄杭のようなもので、まるで縫い止められるように。滴った血が滝のように流れ落ち、1階居抜きのコンビニまで届いていた。
朝一で出勤してきたメリーラムがそれを見つけ、オルティに連絡を取ったのだった。そして今、続々とやってきた社員たちが互いに涙を(こら)えながら、必死に足場を組んでいるところだ。

「こんなの、人間技ではあり得ない。」

彼らは口々に、そう言った。
人間技でないのなら、それが出来るのは。

彼らの涙に濡れた視線は、エヴァグリーンに注がれていた。

やがて、ロータスが車を飛ばし、オルティを連れて来た。オルティはその惨状を見上げると、(いた)むように目を閉じた。

「……俺への当てつけのつもりか。」

低い(つぶや)きは、失望と怒りを(にじ)ませている。こんなやり方は到底フェアではない、とでも言いたげに。
状況から見ても、これがアルウェズン個人の怨恨(えんこん)関係だとは考えにくい。彼が問題児であることに違いはない。しかし、下手人(げしゅにん)はわざわざ現場を選んでいる。それも、商会のビルを、極めて目立つ形で利用した。これを見せつけたい相手が居ると、高らかに(うた)っている。

オルティは、エヴァグリーンを呼ぶ。

「どう思う。お前ならできるか?」

そう尋ねるオルティに、エヴァグリーンは舌打ちで返した。この空気に。自身を包む不躾(ぶしつけ)な視線に。耐えかねていた。牙を剥き出して応じる。

「お前まで俺を疑ってんのかよ……!」
「そういう意味じゃねえ。ただ、竜種なら出来るかと……」

そこまで言って、オルティは苦い顔をした。自分が尋ねていることの意味に気づいたからだ。
——社員たちの手が止まっていた。誰も彼も、オルティとエヴァグリーンのやりとりを注視していた。

エヴァグリーンは、一歩、後退る。その瞳はひどく揺れて、まるで迷子の子供のように狼狽(うろた)えていた。
訂正しようと、オルティが唇を開きかけたとき。エヴァグリーンは既に、泣き出しそうな声で叫んでいた。

「クソッタレが! 今すぐお前をあれにしてやっても良いんだぞ!!」

言ってしまってから、はっとする。
その場にいた商会のメンバーは、オルティを除いて皆一様に、エヴァグリーンを睨みつけた。大なり小なり、オルティを敬愛する彼らにとって、その暴言は度し難く、許し難い。彼らの眼差しは突きつけている。お前は『違う』と。
仲間のような顔をしていても、所詮は人でなしの怪物(けだもの)だ、と。

「ッ、……!!」

「エヴァ……!!」

背を向けて走り去るエヴァグリーンを、ロータスが呼び止める。彼を追おうと、身を(ひるがえ)す者も居た。

「放っておけ!!」

オルティは、既に遠ざかりつつあるエヴァグリーンにも届くように、一喝した。
握りしめた拳を震わせながら。

「……彼を下ろして、弔うのが先だ。」

がむしゃらに街中を駆け抜ける。
行くあてなんかは何処にもない。行きたい場所も、何処にもない。エヴァグリーンの居所はすべて、オルティが与えたものだった。商会も。部屋も。着ている服も何もかも。何処へ走っても、あのガラムの甘ったるい香りが追いかけてくる気がした。足取りは勝手に、商会へ向かおうとする道を選ぶ。それに気がつくたびに、エヴァグリーンは血が滲むほど唇を噛んで、別の道へ折れた。
結局、いつの間にか彷徨(さまよ)っていたのは、路地や河川敷だった。けれど、そのどれも最早、自分の場所ではない。ネズミや虫や、あるいは浮浪者が、エヴァグリーンを怪訝(けげん)そうに眺めていた。

橋の上から、川が流れていくのを、ただ見ていた。
ふと、指先が、ポケットに突っ込まれたままの携帯端末に当たる。オルティの連絡先だけが入っているそれを、強く握りしめる。振りかぶり、川面(かわも)へ叩き込もうとして……その腕はやがて、力無く垂れ下がった。

目深(まぶか)くフードを被ったまま、項垂(うなだ)れる。誰かが近づいてくることには気づいていたが、あえて無視した。仮にこの件の首謀者が、次の犠牲者にエヴァグリーンを選んでいたとしても、それならそれで好都合だと思ったからだ。

「ねえ、ちょっと」

その人物は、意外にも気さくな口調で、エヴァグリーンに声をかけて来た。

「あのー……君さ。竜種、だよね?」
「……だったら何だ、」

殺すぞ、と続けなかったのは、振り返ったそこにいたのが、人ではなかったからだ。
長く尖った耳が真っ赤なヘッドホンから溢れている。笑いかける唇からは、牙が覗いている。そしてサングラスを押し上げれば、蛇のような金色の瞳。おなじ、竜種である。
彼は人懐こそうな笑顔で笑った。

「ねえ、いっしょに来てくれない? 当方、ボーカル募集中。」

その竜種は、カマロと名乗った。
カマロ・アルヴァルソン・ルカヤルヴィという大層な名前があるそうだ。竜種で苗字があるのは珍しい。大抵は、物好きな人間に家族として迎えられ、養子にされた事を意味する。彼もその(たぐい)らしい。
カマロが借りているというガレージへは、しばらく歩いて辿り着いた。
シャッターを押し上げると、少々(ほこり)っぽい、散らかった部屋が現れた。物の配置は極めて乱雑だった。バイクがベッドの真横に停められていた。スチールが剥き出しの棚にはシリアルの箱が幾つも並んで、腕組みをした虎が微笑んでいる。この分では冷蔵庫の中もぐちゃぐちゃに違いない。そして何らかの機材が並んでいて、その一角だけはやけに丁寧に埃を払われている。

「いやー、ほんと。良かったよ見つかって。なかなか居なくてさ。俺の基準が厳しいのかもしれないけど、やっぱ心核(しんかく)の音のペースはこうじゃないと。俺の求める音楽性っていうのかな」

カマロは手拍子で再現してくれるが、エヴァグリーンにはさっぱり意味がわからない。自分の心核の鼓動がどうだとか考えたことはない。というよりも。

「……聞こえてるのか、この距離で」
「俺、耳は良いからね。足音だけで誰が来たかもわかるよ」
「へえ、すごいな」

エヴァグリーンは純粋に賞賛を送った。
竜種は聴覚や嗅覚で、ヒトよりもはるかに優れた感覚を持つ。しかし、カマロのそれは竜種の基準からも逸しているようだ。

「ま、なので耳栓は手放せないのです。聞こえてるから安心してね」

どうやら、ヘッドホンはイヤーマフ代わりにしているらしい。ガレージに入ってからは外していた。
ベッドに座るように(うなが)される。硬いスプリングに乗っかると、それは深く(きし)んだ音を立てた。カマロは電気ケトルに水を入れていた。もしかして、それはキッチンか? 棚で仕切っただけの洗い場にしか見えないんだが。

「それで、何だ……ボーカル? 俺、歌なんかやったことねーぞ」

カマロは本当によく聞こえているようだった。エヴァグリーンは隣で話すような音量で話しているのに、厨房(もどき)から声が返ってくる。

「ほんとー? 音楽ってあんまり聴かない?」
「……そういう暮らしじゃなかったんでな」
「そっか、ごめん!」

あっけらかんと笑いながら、カマロは湯気の立つマグカップをふたつ手に取って戻ってきた。それをひとつエヴァグリーンに手渡す。インスタントコーヒーの香りが立つ。
カマロはいつもそうしているのか、機材の前の木箱に座った。そこにはクッションが乗せられていた。

「未経験者大歓迎。ぜんぜん構わないよ。……ね、今、なかった、って言った?」

耳ざとい奴め。

「………まあ」
「詳しく聞いても良い?」

カマロはまるで人好きのする、賢い犬のようだった。

カマロとの会話は退屈しなかった。
しかし、エヴァグリーンは全てを話さなかった。クローバー貿易商会は後ろ暗い組織である。だから、その部分はかなり曖昧(あいまい)にした。カマロの金の瞳は陽のように柔らかだったから、話す気になれなかったのだ。
ただ、居場所を失ったこと。今はそこに帰りたくないと思っていること。それだけを簡潔に説明した。
カマロはうんうんと(うなず)きながら聞いていた。それがひと段落して、マグカップの底が見えた頃。カマロはシリアルの並んだ棚から、小さなパッケージをいくつか選び取り始めた。それはCDという、音楽を記録するものらしい。

「落ち込んでる時はやっぱりね、ドラネスです」
「俺は落ち込んでねえ」
「じゃあ単にドラネスです」

そう言いながらカマロが見せたのは、おどろおどろしい絵の描かれた紙のパッケージだ。鋭い線で描かれたロゴは『DRÄDDIGÜN’S NEST』とそう読める。……意味のわからない記号が乗っかっている。

流れ出した音楽は、知っている音楽とはまるで違っていた。音程に乗ってはいたが、歌というよりも(うな)り、叫びのようだ。歌詞の意味はよく聞き取れないがかなり中指がおっ立っていることはわかる。旋律は低く地を揺らすように響いていて、リズムは細かく刻んでいる。
エヴァグリーンが呆気(あっけ)に取られているのを見て取って、カマロは深々と頷いていた。

「わかるドラネスってマジでうるさいんだけどそこがいいんだよねギター抜きのスリーピースでKingsは5弦ベースっていうガチで意味わかんないの弾いててこの早弾きでベースなのにギターみたいな味わいが出ててTigerもほとんどスネアしか使ってないのにビートめちゃくちゃ正確でマジで機械なのみたいな所にJOExxxのこのシャウトよ神か?」

本当に何を言っているかわからん。
カマロはとにかく早口で、とにかくそのドラネス——ドラディガンズ・ネストというロックバンドについて熱弁する。それは竜種3人によるロックバンドで、アンダーグラウンドなミュージックシーンでなんとかがかんとからしい。エヴァグリーンには未知の物語すぎる。
とはいえ、嫌いではなかった。彼らの音楽も。カマロの熱の入った語りも。音楽なら、竜種と人の違いはそこまでない、とカマロは力説する。

「俺は本当にジョーを神だと思っています」

JOExxxはそのバンドのリーダーで、例の叫ぶボーカルだ。どう見てもジョーとは読まんだろうという文字列である。

「なら何でお前はギターなんだよ」
「俺はギターの方が好きなの」
「んだそりゃ」

カマロは赤いV字のギターを大事そうに抱えていた。
Kingsはこれをベースでやってるんだよと実演してくれたが、エヴァグリーンには、それをギターで完コピしているお前も充分凄いだろとしか思えない。なお、Kingsはケーイングスと読むし、Tigerはティガーと読む。素直に字面を読んだら死ぬ連中なのかもしれない。
カマロは、自作の音楽も聴かせてくれた。彼本人が弾いているのはギターだけで、あとは打ち込みやサンプリングという機械の音声らしい。ドラネスとはまた系統が違う。気持ちの良い音を意識して鳴らしている、というそれは、カマロの感性に沿った新しいミュージックだった。うねり、流れ、響き溶ける。エヴァグリーンは、それを気に入った。そう言えばカマロは、照れくさそうに笑った。

「なかなか売れなくてさー。やっぱ竜種ってだけで、売る方にはリスクなんだろうね。」

とはいえガレージを借りて自活できているわけで。その点で、全く無名というわけでもないのだろう。
金のやり取りができれば身分は問わないというのが、資本主義社会のいいところだ。
……と、オルティが言っていた。エヴァグリーンは、微かに胸が痛むのを感じた。

「スプラウス・ファミリーはこんな(こす)っからい真似はしないだろう。奴らはもっと正面切って乗り込んでくるタイプだからな」

オルティはタバコを揉み消した。クローバー貿易商会と同盟を結んでいるパンドラ・ボックス、そこと長く敵対している『スプラウス・ファミリー』の名を挙げながら。彼らもかつての貴族が率いる血盟であり、伝統や掟というものを重んじている。だからこそ、シュワルツの『眠らない街』を敵視するのだ。

九龍(クーロン)の爺さんとか、ですかね」

ロータスの勘は悪くはない。しかし。

「確かに九龍の爺は、俺たちがドラッグの販路を潰してるのが気に入らないだろうが……。トヲラス人にドラッグが売れないからといって、彼らの稼ぎに問題が出るとは思えない。」

商会は彼らのポリシーとして、違法なドラッグには手をつけないことを掲げている。彼らの主な稼ぎ口は人材派遣と金貸し業、そしてオルティの握る情報である。一大ドラッグ・カルテルを組むことを目論む『九龍植物園』とは真っ向から反発しているが、だからといって利益の取り合いにもなっていないのが現状だ。
他に大きな組織といえば運び屋集団『須藤(すどう)飛蝗(ばった)衆』が挙げられる。しかし彼らは彼らの業態上、クローバー貿易商会以上に強硬な中立派である。特別に敵視される理由はないはずだ。 

「……ライドウが乗り出してきたのかもしれない。」

ロータスが呟く。オルティもそれには同意見だった。
結論としては、その線がいちばん硬い。
『ライドウ一門』はスプラウスから袂を分かったファミリーだ。過激なメンバーが多く、暴力沙汰をよく起こしていたために、あの女傑に切り落とされたのだ。だが、問題は。

「……脅す理由は、何だ?」

わざわざ脅しをしてくる。脅す側が何に手を出してほしくないのか、それが脅される側にわからないのでは意味がない。考えられるのは、そう。

「……疑心暗鬼か」

走り去るエヴァグリーンの、小さな背中。
クローバー貿易商会を、シンジケートの中で孤立させ、全てを疑わせる。ちょうど、あんな風に。

ライドウとクローバーには、少なからず遺恨がある。
例えば、サダルメリクを元々飼っていたのは彼らだ。不死者にしてシェイプシフターである彼は、倉庫に閉じ込められ『人を食う怪物』として運用されていた。決して証拠を残さない、人を消す機構。それを潰したのが他ならぬクローバー貿易商会である。そのためサダルメリクは今、商会に身を寄せている。
他にも、構成員同士の衝突や暴力沙汰は枚挙にいとまがない。
トヲラス人は結束が固く、誇りを尊ぶ。それは(かえ)って、過剰な排外主義に変わりがちだ。エヴァグリーンの件でもそうだったように。だからライドウ一門との関係は、お互いに加熱しやすいせいで、ますます悪化していく一方だ。
それでも大規模な抗争へと至っていないのは、オルティが必死でとりなしてきたためだった。加えてライドウ一門にも、スプラウスに泥を塗る真似はできないと考える古参が居るのだろう。事実、破門されたとはいえ、彼らはスプラウスという蛇の縄張りではおとなしかった。

ライドウ一門が竜種と繋がりがあるとは、聞いたことがない。人力では難しい殺しを、わざわざ竜種を雇うなりなんなりしてやらせる。そのことには必ず意味がある。

「……ロータス。エヴァグリーンを探させろ。探すだけでいい。まだ彼奴(あいつ)が疑われていると、社員にも相手方にも信じ込ませられる程度にだ。……ライドウの事は、まだ誰にも知らせるな。」

ロータスは頷き、そしてオルティの隠れ家を出て行った。オルティは煙草に火を点け目を閉じた。深く吸い込んだ煙が、ゆっくりと思考を(ほぐ)していく。
命を狙われたきっかけは何だ。どこかでオルティが虎の尾を踏んだのに違いないだろう。しかし、相手はこれまでオルティのことだけを狙ってきていた。それがいよいよなりふり構わず、商会そのものに手をつけ始めている。アルウェズンは運悪く、その最初の犠牲になった。誰がそうなってもおかしくなかったはずだ。
ぱちぱちと、ガラムが爆ぜる。短い一本を吸い終えて、オルティは深々と息を吐いた。
商会。竜。……エヴァグリーン。

契約。

「……イーデンに、手出しをするな、と?」

キーを回して、ほんの少し戻す。
どこか接触がズレているのか、そのバイクはそうしなければ点火しなかった。ドバッと吠え立てて、パイルダーという名のそいつは一気に覚醒する。ハイオクが血のように巡って、ドッ、ドッ、と低く鼓動を打つ。……落ち着いて、左手のクラッチを操作しようとしたつもりだった。繋がりかけたエンジンが、途端に噛み付くように唸る。思わず手を離した。それでバイクは不満げにガツンと舌を叩いて、マフラーはチリチリと音を立てながら熱を引いていく。

「クラッチはもっと優しく繋いで! 手を繋ぐだけで良いんだから」

背後からやかましいヤジが飛ぶ。カマロは一度、タンデムシートから立ち上がった。エヴァグリーンの左手を包むようにして、クラッチ操作を確認させた。

「このデカブツが見た目の割に繊細すぎるのが悪い」
「もうっ。エヴァってば、この子は俺の大事な足なんだから、優しくしてよね。」

カマロは愛おしそうにパイルダーのハンドルを撫でる。それからエヴァグリーンの後ろに跨って、ぽん、と自身の太腿を叩く。

「ほら、もう一回やって! 次はできるから!」

数日の間、エヴァグリーンは一度も商会に顔を出さず、そのことで電話が鳴ることもなかった。カマロと過ごす日々は、その痛い記憶を忘れさせるほどに楽しかったけれど。それでもエヴァグリーンは、毎日毎晩、連絡がないかだけはきちんと確認した。

「誰かから電話が来るの?」

カマロはギターの弦を爪弾きながら、エヴァグリーンに問いかけた。

「恋人?」
「そんなんじゃねえよ」
「だってまるで、気になる彼女から連絡もらえなくてソワソワしてる男の子って感じだよ」
「うるせえなあ、違えって」

エヴァグリーンは携帯端末を置く。カマロを足先で軽く蹴る。カマロは大袈裟にのけぞって見せた。

「はは、じゃあ彼女とか居たことないの?」
「ねえよ、悪いかよ」

別に、とにやにやと笑うカマロ。

「俺は君のこと好きだけどな、面白いから」

面白いのはお前だろうと思う。
カマロはなんとかヒーローとかいう、慈善事業が性癖の男のドラマを、携帯端末でずっと見ていた。それを流し見て、ギターを爪弾き、曲を作っている。そしてそのドラマで好きなキャラクターがくたばったとかで、昨日は目を真っ赤にしていた。馬鹿馬鹿しいが、見ていて飽きない。
小さなコンロで乾麺を茹でながら、アルミホイルでガチガチに巻いた冷凍のブリトーを蒸気で温める。それが1日の食事だった。湿気(シケ)ってフニャフニャのベタベタになった皮を掴むと、まだ半解凍のチリビーンズが皮を破いて零れ落ちる。スパイスを(まぶ)された麺もブリトーの中身も、馬鹿みたいに茶色くて味が濃かった。それをキンキンに冷やしたサイダーで流し込むと、カマロはあーあ、と盛大に肩をすくめるのだ。

「貧乏の味だあ。食えてるだけマシだけどさあ。」
「電子レンジぐらい買えよ、つか俺が買ってやる」
「いいの!? あ、でも、悪いよさすがに。めちゃくちゃ売れたらそのお金で買うし……」

そんな日がいつ来るか分からない。それまでに芯の冷えたフニャフニャのブリトーを何本食べる気なのだろう。いーんだよ、とサイダーの缶でカマロを小突くと、彼は困ったように眉を垂らしていた。背後で小さく流していたスラッシュメタルは、ギターのディストーションを残して、すう、と消えて行く。
カマロはCDをプレイヤーから取り出しながら、エヴァグリーンに尋ねる。

「エヴァは売れたら何買うの?」
「んー……いまいちこれが欲しいってねーんだよな。俺もバイクでも買うかな」

カマロは目を輝かせて、いくつもバイクの名前を挙げた。そのどれひとつピンと来なかったが、カタログスペックを聞くだけでも、楽しい時間だった。
ガレージのシャッターの向こうは、街向こうに星が瞬いている。
ずっと、このくだらない時間が続けば良い。
エヴァグリーンは自分でも気づかないうちに、そう願っていた。

携帯は、まだ鳴らなかった。

(続く)