小銭が少し、足りなかった。
値札を眺めて舌打ちをひとつ、自販機に硬貨を捩じ込む。ぎらついたエナジードリンクの缶の隣。つまらなさそうな黒いコーヒーの缶。そのボタンをぐっと押し込んだ。
夏の盛りを過ぎ、日が落ちるのが早くなっても。アルスの街はアスファルトの奥まで、熱を溜め込んだままだ。よく冷えて汗をかいている缶を片手に、暗い路地へと歩を進める。
どこかでカラカラと換気扇が回っている。肥えた虫が足元を逃げていく。室外機が低く唸る隙間を通り抜けて、通りの手前、ネオンの下に立つ。缶を開けて、傾ける。
通りの向こうは賑やかな繁華街だ。男も女も毳毳した格好で歩き回っている。脂ぎって艶々として、虫によく似ていた。
足元をうろついているそれを、爪先で踏む。
くしゃり。潰れた羽をにじる。ふと、ブーツの先が擦り切れていると気づいた。いつ手に入れたものか思い出せなかった。俯くと、被ったフードが重い。あちこちほつれた厚手のパーカーだ。それも随分、長い間使っていた。
室外機の上で、小さな窓が開く。
そこからにゅうと腕が伸びて、くしゃくしゃの小さな封筒をよこした。窓ごしに見下げる目があった。封筒を開ける。それは明らかに隠し撮りで、こちらを見ていない男の写真だ。けれど、品と身なりの良さは見て取れる。
「こいつ。どんな奴だ? 何で殺される?」
なんとなく、そう尋ねた。
窓を閉めようとしていた手がピタリと止まる。そして、嘲笑うような返事。
「聞いてどうする? ケツでも借りる気か?」
くだらない、下品な冗談を聞き流した。
コーヒーをぐっと飲み干す。空になった缶を投げ捨てれば、路地にかつんと高い音が響いた。
それは転がって、すぐに他のゴミと紛れて分からなくなった。
「……クソ不味いなァ、このコーヒー。」
唇を舐める。
ぎらり、鋭い牙を覗かせながら。
街の郊外へと至る路を、白いサンダーバードが行く。トリノ・バードと呼ばれるそれは、いわゆるクラシック・カーだ。レストモッドされた現代の足回りを得て、鋭利でエレガントな鉄の質感を外装に残しながら、鳥は夜を滑らかに駆けている。ドロドロと低い排気音は、獣の唸りのようにも聞こえた。
ガラスはどれも夜の海のように、黒くスモークされている。Tバールーフの天窓を含めて。ただし今夜は、後部座席の窓がひとつ開いていた。
“オルティ・クラヴィアド”は後部座席に座り、窓の外を眺めている。きらきらと流れていく街灯を、きらきらとした目で見上げながら。緩いパーマのふわふわとした白金の髪を風に揺らして。品の良さそうな黒のスリーピースは、ぴんと布地を張っている。覗く肌色は伽羅のような褐色であった。
「ったく、本当に来んのかよ……」
運転席で男が愚痴る。彼はオルティの右腕として、よくこうして運転手を勤めている。同じようにスーツを着こなしているが、ジャケットは脱いでいた。シャツの肩がはち切れそうになるほどの太い腕で、繊細にトリノ・バードのハンドルをこね回している。湯水の如くカスタム費用を突っ込まれているこのじゃじゃ馬、もといじゃじゃ鳥は、フロントが重くなりすぎている。気を抜けばタイヤを持っていかれそうになるのだ。
後部座席で、オルティはにっこりと笑う。
「彼が間違ってたことなんてないでしょ? まあ見てようよ!」
いやに、子供っぽい笑顔で。
「そうは言ってもなぁ……こんな作戦、」
と言いかけた運転手、ロータスが黙る。
ハイビームの向こうに人影が見えたのだ。
——来た。まさか。本当に?
「おいマジかよ!マジで来やがった!!」
贔屓のチームが逆転ホームランで試合を決めた。そんな歓声とともに、ロータスはアクセルを目一杯に踏む。トリノ・バードはぐんと加速した。
「ほらね!」
オルティも興奮したように顔を上げた。車は疾走する。巨大な鉄の刃物のように。真っ直ぐに突っ込んでいく。
衝突するその寸前に、人影は消えた。面食らったロータスはブレーキを踏み込む。悲鳴のようなスキール。車は大きくドリフトする。まるで平地に立つかのように。それは立っている。車の屋根に!
レザーのシートの上で振り回されながら。オルティは面白い出し物でも見るかのように、無邪気にガラスのルーフを見上げた。
「すごいなあ、そんなこともできるんだ」
防弾仕様の強化ガラスが、スモークフィルムごと貫かれる。たかがか細い拳ひとつに。割れたガラスの縁に手をかけ、それは骨からステーキを剥がすように、ルーフウィンドウを引き剥がした。
顕になった屋根の向こうで、その獣が顔を出す。見下ろす目は蛇のようにぎらついて、燐光を帯びていた。竜種だ。そして、竜種の側も、オルティを認識した。視線が交錯した瞬間、竜種は再びその拳を振り抜いていた。
つまらない仕事だった。
ぽつぽつと血糊が滴って、アスファルトにシミをつける。毟り取った首の、乱れた白金の髪に指を絡める。バーストしてガードレールに激突した車から離れて、ゆるゆると歩き出す。
郊外の道路のことなんか、街の人間は誰も気に留めない。遠い街の夜景は、今夜も何も起こっていないように華やかだ。
汗ひとつかかない、つまらない仕事だ。いつも通りに。こんなものだ。人間は脆すぎる。少し力を入れれば簡単に千切れる。やりがいも何もあったものではない。この首を届ければ仕事は終わる。ざっと一月分ぐらいの稼ぎにはなるはずだった。
「ほんと、つまんない仕事だね」
呆れたような声がする。
——どこから? 手元から。毟り取った首が喋っている。どろりと、人間の血液ではない何かを滴らせながら。
「こんなに思い通りにいくなんて、そんなつまんないことないよね!」
掴んでいた首は、見知らぬ男のものになっていた。かと思えば一瞬で溶け、粘性の黒い液体へと変化する。それは手足に絡みつき、力強く締め上げる。踠く間に真深く被ったフードが外れ、人ならざる長耳が顕になった。
「何だ、お前……!」
牙を溢しながら竜種が唸る。そこに誰かがしがみつく。竜種の首を肘で固める。ロータスだ。彼はトリノがクラッシュする直前に飛び降りていたのだった。おかげでシャツはズタズタだ。
「何だ、って! 人違いだよバカ! いいぞサダル、そのまま押さえてろ!!」
「うん!」
サダル、と呼ばれた粘性の液体——”オルティ”の首だったもの。それが、まるで万力のような力で、竜種の怪力を封じている。そして動くこともままならなくなった竜種の前に。かつかつと硬いヒールの音を立てながら。その男は現れた。
「良くやってくれた」
竜種は、今度こそその男をしっかりと見た。
風に紫煙を燻らせ立つ、オルティ・クラヴィアド。服装や外見はそっくり同じなのに、渡された写真とも、先ほどの偽物とも、まるで雰囲気が違う。
ただの人間ではない、そう直感する竜種の腹に、強い衝撃が走る。
竜種の力の源は『心核』と呼ばれる、人における心臓部である。そこを思い切り蹴り上げられたのだ。見上げた視界が暗く滲む中、竜種を見下ろすオルティは、冷たい目をして吐き捨てた。
「俺の愛車がお釈迦だ、——クソッタレ!」
◆
冷水を浴びせられて、急速に意識が覚醒する。
目を瞬き、辺りを探るように見渡す。薄暗い、窓のない広い場所だ。どこかの地下室だろうか。蛍光灯がいくつか点けてあるが、広さに足りていないせいで部屋の輪郭が判然としない。
そして、肩から先がうまく動かせない。後ろ手に縛られた上で、柱か何かに括り付けられているようだ。
目の前で腰掛け、起きたか、と小さく呟いているのが。殺し損ねたオルティという男だ。隣に控えているゴツいのが、運転手の男。ロータスという名だったか。オルティの背後にいる胸のでかい女は、初めて見る顔だ。まるで興味のない広告を見るような目で、こちらを見ている。オルティに化けていた偽物の姿はない。
「……どこだ、ここ」
質問したつもりはなかったが、オルティはチッと鋭く舌打ちをした。
「質問するのは俺だ。お前はその答えだけを話せ。それ以外は必要ない」
事務的で、冷徹な答えだった。
それが気に入らなかった。生命を狙われていてなお、そんな態度を取ることが。
「何様のつもりだ、てめえ」
牙を剥き、睨む。ただそれだけの挑発に、ロータスはぐっと息を飲み、拳を握る。
それをオルティが手で抑え、女に目配せをした。女が一歩、進み出る。彼女はその手に、植木に使うような、大きな鋏を握っていた。
「俺はこういうことは嫌いだ。だから、なるべく早く話してくれると嬉しい」
女はゆるやかに、高いヒールの音を響かせる。それが背中で止まった。オルティは膝に肘をつき、穏やかに口元で手を組んでいる。
「メリーラムはプロだ。うっかり死なせてもらえるなんて思うなよ。」
硬い刃が、指に触れる。
ぞっとするほど冷えた刃。
「——俺を殺せと、誰に命じられた?」
……誰に、だと?
まるで意味のわからないことを聞かれ、躊躇う間に。重い刃が噛み合う音がして、見えない指先がかっと熱くなる。思わず喉から空気が漏れた。逃れられないならせめて握り込もうとした指にはまるで血が巡らず、うまく動かせない。どこかで血の流れを止められている。
こいつは、竜種の対処を理解している。
「誰だ?」
再び。別の指に刃を押し当てられる。
まるで何の感慨もなく、ただはみ出した枝を切り落とすように。オルティが命じれば、きっと彼女は全身を輪切りにするまで『やる』のだろう。そう確信できるほどの感情のない刃。思わず叫び出していた。
「……知るかよ、ッ、知るわけねえだろうがァ!!」
刃が肌に食い込む感触がした。全身が強張る。しかし、その痛みはやってこなかった。いつの間にか瞑っていた目を開けると、オルティがすっと片手を挙げていた。
「知らない? 本当に?」
……それは質問というよりも、意外そうな。小馬鹿にしたような口調に聞こえた。
息も絶え絶えに、牙を噛み締める。ぐるぐると渦巻く、腹の虫が収まらない。スカした態度が気に入らない。見定めるような目が気に入らない。
オルティ・クラヴィアドの全てが、気に入らなかった。
「当たり前だろバカかお前! 竜種の殺し屋にそんな事教える奴が何処にいるんだよ!!」
一度ぶつけた言葉は、止まらなかった。
「お前ら人類種が、俺たちに何かを与えた事なんか一度も無かっただろうが!! 何が竜種だ、トカゲの赤ん坊ぐらいにしか思ってねえくせに!! 何処でも切れよ、切り刻んでせいぜい時間を無駄にしろ、バカども……!!」
ぎっ、と牙を剥いて。吠える。オルティを睨みつける。視線がかち合う。意外なほどに真っ直ぐな眼に、気圧されそうになりながら。
それでも、この意地だけは譲れなかった。
「ッだが……! 俺は竜って獣だ! ——たとえこの頭だけになっても!! 俺は俺の魂を賭けて、お前を殺してやる……!!」
オルティは、咥えていた煙草を消した。
その口元は、愉しげに微笑んでいる。そして再び、何事か手で合図した。……背後の気配が消えた。
「お前。名前は?」
咄嗟に答えられなかった。
名前。あるにはある。けれど、そんな事。誰も。一度だって尋ねやしなかった。
だから。その音を唇に乗せたのは、実のところ、初めてだったのだ。
「……エヴァグリーン」
「俺はオルティ。エヴァグリーン、取引をしよう。」
オルティはエヴァグリーンに近づくと、腰を屈めて目線を合わせる。革手袋の掌が、エヴァグリーンの髪を荒っぽく撫でた。まるで子供にそうするような手つきだった。
「と・り・ひ・き、だ。意味わかるか?」
「……バカにしてんのか、お前」
唸るエヴァグリーンに、オルティは目を細めて、ますます愉快そうに語りかける。
「俺を殺す依頼を反故にしてくれたら、俺がお前の頼みをひとつ聞いてやる。悪い話じゃないだろう?」
エヴァグリーンは考える。
しかし、選択肢があると思うのか。ここで頷かなければ、確実にこのまま殺される。依頼を反故にするのは難しい事ではない。竜種の殺し屋はそもそも信用されていない。仕事を飛ぶのも失敗するのも織り込み済みの、安い仕事。
泥沼のような日々。泥水のようなコーヒー。
選択肢が、あると思うのか。それでもエヴァグリーンが頷けないのは、目の前で笑っているその男の真意がわからないせいだ。
「自分で言うのも何だが、俺は優秀な情報屋さんだぜ? どうする、エヴァグリーン?」
それでも。たとえ、藁に縋るようなものだとしても。エヴァグリーンはここで溺れているわけにはいかない。泥でも何でも啜って、立ち上がらねばならない。生き延びねばならない。
名前を名乗ったせいか。それとも、呼ばれたせいか。胸の底に沈めた影が、急速に浮上してくる。海鳴りが遠く響いた、気がした。
オルティの目を、見つめる。何もかもを見透かしているような、湖水のような碧い瞳を。下弦を花蜜に浸したような、冴え冴えとした瞳を。
もしも嵐の海で溺れ、縋り、見上げた先にあるのがこの星であったなら。きっと何度でも手を伸ばせると思った。
「……高く付くぞ。」
エヴァグリーンは、精一杯、虚勢を張った声を出したつもりだった。
けれど、それはまるで泡沫のように頼りなく、解けていった。
(続く)
